| 板野長八『儒教成立史の研究』岩波書店1995 | |||||||||||||||||||||
| 要約レジュメ | |||||||||||||||||||||
| いつか書きたい『三国志』 | |||||||||||||||||||||
| ぼくなりの要約 | |||||||||||||||||||||
| 孔子が儒教を唱えてから、初の儒教国家(後漢)が成立するまでを描く | |||||||||||||||||||||
| 儒教の国教化は、前漢の武帝でなく、王莽でなく、光武帝だとする | |||||||||||||||||||||
| はじめ孔子『論語』や『孟子』は、在野で人道を説いた | |||||||||||||||||||||
| 儒教は、『老子』や『荘子』に反論された | |||||||||||||||||||||
| 戦国末、『荀子』や『孝経』は、儒教を改良して、一元支配する君主に適応した | |||||||||||||||||||||
| 秦で坑儒はなく、ワンオブゼムとして儒教は弾圧された | |||||||||||||||||||||
| 前漢の武帝は呪術の権威がある君主で、孔子より上だった | |||||||||||||||||||||
| 武帝は、孔子が失敗した理想を実現できる人だと考えられた | |||||||||||||||||||||
| 前漢が斜陽になると、皇帝の権威が落ちた | |||||||||||||||||||||
| 儒教官僚は、孔子の呪術の権威を皇帝に合体させて、前漢の復活を目指した | |||||||||||||||||||||
| 『春秋公羊伝』が、人道しか説かなかった孔子を神秘化した | |||||||||||||||||||||
| 孔子の理屈と、神秘的な予言を合体させて建国&政治したのは、光武帝 | |||||||||||||||||||||
| 班固は『漢書』を書いて、漢王朝の神秘性を補強した | |||||||||||||||||||||
| 王莽は、天命を理解しない人として描かれた | |||||||||||||||||||||
| 1章 『孝経』の成立 | |||||||||||||||||||||
| 序言 | |||||||||||||||||||||
| 『孝経』は漢〜唐まで敬われたが、宋から無視 | |||||||||||||||||||||
| 君権の強化、宗族の封鎖性と関係がある | |||||||||||||||||||||
| 1節 『孝経』作成の時期 | |||||||||||||||||||||
| 戦国末期に成立、『孟子』とは主張が異なる | |||||||||||||||||||||
| 『呂氏春秋』の少し前 | |||||||||||||||||||||
| 2節 『孝経』の特質 | |||||||||||||||||||||
| 1)『孝経』の中心問題 | |||||||||||||||||||||
| 『孝経』は、「孝が徳のルーツである」という (津田左右吉の解釈) | |||||||||||||||||||||
| あらゆる徳行は、孝に従属する | |||||||||||||||||||||
| 2)「夫レ孝ハ 徳之本也」 | |||||||||||||||||||||
| 家族制度(孝悌)を前提として、国の支配がある | |||||||||||||||||||||
| 父と君が衝突したら、 | |||||||||||||||||||||
| 『論語』『孟子』は、両立をめざす | |||||||||||||||||||||
| 『荀子』『韓非子』は、君主を優先 →秦漢の一元支配 | |||||||||||||||||||||
| 『孝経』は、『荀子』に近い | |||||||||||||||||||||
| 3)「夫レ孝ハ 天之経也、地之義也」 | |||||||||||||||||||||
| 人道(人としてのあり方、孔子や孟子が説く)を、天道(君主)に吸収させる | |||||||||||||||||||||
| 3節 漢室と『孝経』 | |||||||||||||||||||||
| 1) 漢の教化政策と『孝経』 | |||||||||||||||||||||
| 漢は君主に権力を集中 | |||||||||||||||||||||
| 君主の世襲制、封建制度(一族を分封) | |||||||||||||||||||||
| 儒家の礼を採用 (事実上の覇者を、王道に妥協させる) | |||||||||||||||||||||
| 叔孫通は、古代の礼+秦の儀=漢の朝儀 | |||||||||||||||||||||
| 儒家が仕官する道をつくる | |||||||||||||||||||||
| 陸賈は、軍事的に不利でも、儒教を守れと言った | |||||||||||||||||||||
| 先王の道を治めた人に、政治をさせよ | |||||||||||||||||||||
| 上級官僚を古代の「大夫」に準え、庶人と分割 | |||||||||||||||||||||
| 大夫は礼で、庶人は刑で律する | |||||||||||||||||||||
| 太子を幼少より教育 (周公と成王の故事) | |||||||||||||||||||||
| 公孫弘は、儒教の技術・教養がある人を採用する制度 | |||||||||||||||||||||
| 董仲舒は、孔子以外を排除 | |||||||||||||||||||||
| 前漢の施策について、興味深いので、細かく引用してしまった | |||||||||||||||||||||
| 恵帝以下、諡に「孝」を冠す | |||||||||||||||||||||
| 昌邑王を廃する理由は、「孝」の欠如 (霍光伝) | |||||||||||||||||||||
| 武帝が『孝経』に拠り、高祖を天に配祀した | |||||||||||||||||||||
| 昭帝の詔に『孝経』の引用 | |||||||||||||||||||||
| 宣帝は、即位する前に『孝経』を学んだ ⇒宣帝のとき、儒教の官僚制度が明確に | |||||||||||||||||||||
| 2)漢の廟制と『孝経』 | |||||||||||||||||||||
| 『孝経』は君主が恒常不変に支配することを肯定 | |||||||||||||||||||||
| 同時に逆に、君主が準拠すべき規範を示す | |||||||||||||||||||||
| 郡国廟を廃止する問題に、儒教VS君主が見える | |||||||||||||||||||||
| 郡国廟は、分家が本家を祭るため、『礼記』に叛く | |||||||||||||||||||||
| 『礼記』曰く、卑賤な人が、尊貴な人を祭ってはいけない | |||||||||||||||||||||
| 漢室は、天下を1つの家として心を集め、支配したい ⇒儒教VS君主 | |||||||||||||||||||||
| 元帝のとき、韋玄成が郡国廟の廃止を主張 | |||||||||||||||||||||
| 石渠閣で検討された | |||||||||||||||||||||
| 韋玄成は、『孝経』に拠った | |||||||||||||||||||||
| 郡国廟は廃止! | |||||||||||||||||||||
| 漢は、1個の家族集団に向かわず、礼の軌道に乗せられた | |||||||||||||||||||||
| 2章 『韓非子』の忠孝篇 | |||||||||||||||||||||
| 韓非の著作ではないのは周知 | |||||||||||||||||||||
| 1 韓非の思想と忠孝篇の共通性 | |||||||||||||||||||||
| 忠孝篇は、信賞必罰による、君主の一元支配を期す | |||||||||||||||||||||
| 韓非と同じ | |||||||||||||||||||||
| 2 韓非の思想と忠孝篇の相違 | |||||||||||||||||||||
| 忠孝篇は、孝悌、忠順、仁義を肯定する | |||||||||||||||||||||
| 忠孝篇は、法を犯さない範囲で、道徳性や智的能力を肯定した | |||||||||||||||||||||
| 韓非と違う | |||||||||||||||||||||
| 韓非は、国家が一元支配するため、封建的な宗族を壊そうとした | |||||||||||||||||||||
| 韓非は、臣下の智的能力を否定した | |||||||||||||||||||||
| 3 忠孝篇と家父長制 | |||||||||||||||||||||
| 忠孝篇は、君主にとって邪魔な宗族を壊したあと、 | |||||||||||||||||||||
| 君主に忠実な「家父長制」を発明した (韓非の発展形) | |||||||||||||||||||||
| 4 忠孝篇の位置 | |||||||||||||||||||||
| 『荀子』『呂氏春秋』『易伝』との比較 | |||||||||||||||||||||
| 3章 易の聖人と形而上の道 | |||||||||||||||||||||
| 孔子&孟子&荀子は、墨家と、老荘&韓非との中間だ | |||||||||||||||||||||
| 墨家は、人間の力を強め、礼を越えて天と繋がろうとした | |||||||||||||||||||||
| 老荘と韓非は、人間を排除して、礼の根底にある天に返ろうとした | |||||||||||||||||||||
| 人間の力や知識は、呪術と結びついた | |||||||||||||||||||||
| 著者が何を指摘されたか、よく分からん | |||||||||||||||||||||
| 4章 『左伝』の作成 | |||||||||||||||||||||
| 序言 | |||||||||||||||||||||
| 『左伝』は、素性が分からない | |||||||||||||||||||||
| 漢代に今文学派と古文学派が論争したのは、 | |||||||||||||||||||||
| 劉歆が王莽と結んで、『左伝』の学官を立てようとしたから | |||||||||||||||||||||
| 『左伝』は、『荀子』と同じ段階だろう | |||||||||||||||||||||
| 孔子と孟子を、老子が否定 | |||||||||||||||||||||
| その老子に対して、儒学が再反論した段階だ | |||||||||||||||||||||
| 1節 『左伝』の特徴 | |||||||||||||||||||||
| 1)覇者の見方 | |||||||||||||||||||||
| 『左伝』は、礼を破りつつある覇者に、「礼」を守れという | |||||||||||||||||||||
| 「礼」とは、周の生活規範で、孔子や孟子が主張した | |||||||||||||||||||||
| 孟子は覇者を否定したが、『左伝』は覇者がいても良しとする | |||||||||||||||||||||
| 以下略 | |||||||||||||||||||||
| このあと『左伝』にある、礼、卜筮と易、災異、徳について検討します。 | |||||||||||||||||||||
| 『左伝』は、老子や荘子の成果(孔子・孟子を修正)を踏まえていると証明してます。 | |||||||||||||||||||||
| 5章 董仲舒の対策 | |||||||||||||||||||||
| 序言 | |||||||||||||||||||||
| 前140年に董仲舒が対策し、前136に五経博士を設置 | |||||||||||||||||||||
| 五経博士の設置を、儒教の国教化と誤解するのは、秦漢の帝王の性格を知らないから | |||||||||||||||||||||
| 1節 董仲舒の「対策」 | |||||||||||||||||||||
| 董仲舒は3回対策した | |||||||||||||||||||||
| 第一の対策 | |||||||||||||||||||||
| 天人相感 (人=君主) | |||||||||||||||||||||
| 武帝が仁義礼楽をそなえ、民を教化せよ (『春秋公羊伝』より) | |||||||||||||||||||||
| 第二の対策 | |||||||||||||||||||||
| 士を養う太学を建立せよ | |||||||||||||||||||||
| 貢士制にて、能力本位で人材を用いよ | |||||||||||||||||||||
| 第三の対策 | |||||||||||||||||||||
| 民を教化する方法は、孔子のやり方に統一せよ | |||||||||||||||||||||
| 董仲舒が論拠とした『公羊伝』では、孔子は王者に教える権威がない | |||||||||||||||||||||
| 『公羊伝』で孔子は、堯舜を実現できず、漢帝に委嘱して死んだ | |||||||||||||||||||||
| 孔子教が、国教になるわけがない | |||||||||||||||||||||
| 国教になるとしたら、堯舜のやり方である | |||||||||||||||||||||
| 董仲舒の意図は「孔子が失敗したことを、漢帝が成功させましょう」 | |||||||||||||||||||||
| 2節 武帝と淮南の獄 | |||||||||||||||||||||
| 武帝は『春秋』に則って、謀反事件を裁いた | |||||||||||||||||||||
| 武帝その人は判決に責任を持たず、天命が責任をもつ | |||||||||||||||||||||
| 3節 始皇帝のいわゆる焚書坑儒 | |||||||||||||||||||||
| 焚書は、儒学のみが対象ではない | |||||||||||||||||||||
| きっかけは儒者が作ったが | |||||||||||||||||||||
| 儒者の淳于越は、始皇帝に意見した | |||||||||||||||||||||
| 「始皇帝は、秦の王室の子弟を、匹夫に落とした。国が永続しないだろう」 | |||||||||||||||||||||
| すべての思想を、皇帝支配の枠に入れるための政策 | |||||||||||||||||||||
| 坑儒は行われなかった | |||||||||||||||||||||
| 6章 『大学篇』の格物到知 | |||||||||||||||||||||
| 多くの学者の脳漿を涸らさせてたテーマ | |||||||||||||||||||||
| ぼくは卒論のとき挑み、さっぱり分からなかったので、今日も避けます・・・省略! | |||||||||||||||||||||
| 7章 『中庸篇』の成り立ち | |||||||||||||||||||||
| 省略します・・・おやすみなさい | |||||||||||||||||||||
| 8章 災異説より見た劉向と劉歆 | |||||||||||||||||||||
| 劉向と劉歆は父子だが、意見が違う | |||||||||||||||||||||
| 劉向も劉歆も、図讖を信じない (孔子と孟子と同じ、人間本位) | |||||||||||||||||||||
| 4節 劉向・劉歆の占める位置 | |||||||||||||||||||||
| 董仲舒と劉向 | |||||||||||||||||||||
| 人君は、天が下す変異に対処すれば、天に影響を与えられる | |||||||||||||||||||||
| 人君は、天を変えられる呪術者 | |||||||||||||||||||||
| 劉歆 | |||||||||||||||||||||
| 人君は、天に影響を与えられない | |||||||||||||||||||||
| この話はよく分からなかったが、もう少し勉強してから返って来たい | |||||||||||||||||||||
| 9章 図讖と儒教の成立 | |||||||||||||||||||||
| 序言 | |||||||||||||||||||||
| 孔子教は、光武帝が図讖を根拠に即位してから、国教になった | |||||||||||||||||||||
| 1節 讖の二重性 | |||||||||||||||||||||
| 図讖には2つある | |||||||||||||||||||||
| 呪術者が天より受け取る予言 | |||||||||||||||||||||
| 成帝、哀帝のころ成立 | |||||||||||||||||||||
| 前漢の道術家(夏侯勝・眭弘)、劉向と劉歆にも、図讖はない | |||||||||||||||||||||
| 王莽と光武帝が、同じ図讖を利用 | |||||||||||||||||||||
| 『河図会昌符』は、『孔丘秘経』『天官歴包元太平経』に遡り、 | |||||||||||||||||||||
| 前漢武帝の鼎書、始皇帝の録図書に遡る | |||||||||||||||||||||
| 学者が理法を明らかにしたもの | |||||||||||||||||||||
| 図讖は、先に発言し、後から証明される予言 | |||||||||||||||||||||
| 律歴や易を研究した、聖人がするもの | |||||||||||||||||||||
| がつくった例 | |||||||||||||||||||||
| 後漢の張衡が支持し、光武帝の図讖をニセモノだと批判 | |||||||||||||||||||||
| 劉歆が解釈した『春秋』の災異に遡り、 | |||||||||||||||||||||
| 京房『易伝』、洪範五行伝、賈誼、『易経』に遡る | |||||||||||||||||||||
| 2節 図讖の占める位置 | |||||||||||||||||||||
| 1) 図讖とその先駆 | |||||||||||||||||||||
| 呪術的な図讖は、孔子が作ったものとされる | |||||||||||||||||||||
| 董仲舒や劉向が『春秋』の災異を解釈したものが先駆 | |||||||||||||||||||||
| 災異は天戒である | |||||||||||||||||||||
| 天の意志を、人間に分かるように翻案したもの | |||||||||||||||||||||
| 理法のみならず、呪術的に読み取った | |||||||||||||||||||||
| 天戒のネタ元は『春秋』だから、孔子が関わったと連想された | |||||||||||||||||||||
| 魯の乱臣を除き、聖人・孔子を用いる災異があった | |||||||||||||||||||||
| 2)図讖への展開1 | |||||||||||||||||||||
| なぜ天意は、災異で表れるか | |||||||||||||||||||||
| 宣帝は瑞祥が多く、成帝は災異が多かった | |||||||||||||||||||||
| 君主の呪術上の権威を高めるため | |||||||||||||||||||||
| 漢帝を説得するには、孔子の教えでは足りず、天意が必要 | |||||||||||||||||||||
| 封禅した武帝は、天と一体化した | |||||||||||||||||||||
| 災異を受けて、政治を改善するなら、皇帝の呪術は天意と直通していない | |||||||||||||||||||||
| 天意に直接働きかけられるなら、政治の改善は不要 | |||||||||||||||||||||
| 人間が改善して、天の譴責をなだめる余地 | |||||||||||||||||||||
| 谷永は災異を受け、成帝の失政を諌めた | |||||||||||||||||||||
| 谷永は、劉歆ら儒教官僚や、王鳳ら王氏と近かった | |||||||||||||||||||||
| 劉向は『春秋』で災異を解釈した | |||||||||||||||||||||
| 劉向は、『列女伝』で後宮の乱れを説いた | |||||||||||||||||||||
| 皇族としての意識が強い | |||||||||||||||||||||
| 成帝に継嗣ができないのは、天の懲罰 | |||||||||||||||||||||
| 滅びそうな前漢を立て直すため、呪術的権威の回復に努めた | |||||||||||||||||||||
| より分かりやすく、文字で現れるようになった | |||||||||||||||||||||
| 漢皇帝の呪術の腕を証明するとともに、より明確に改善を促しますね | |||||||||||||||||||||
| 哀帝のとき、漢の滅亡を示す符命 | |||||||||||||||||||||
| 3)図讖への展開2 | |||||||||||||||||||||
| なぜ図讖は、孔子と関わるのか | |||||||||||||||||||||
| 独裁者であれば、天と一体化して、呪術的な権威を使える (高祖や武帝) | |||||||||||||||||||||
| 孔子は、漢皇帝と違って、天意を知る呪術者ではない | |||||||||||||||||||||
| 独裁できなければ、官僚や法家、儒教の助けがいる | |||||||||||||||||||||
| 元帝〜、儒教官僚は、君主を批判 | |||||||||||||||||||||
| 郡国廟を廃し、孔子教の寛治をするのは、君主権力の後退 | |||||||||||||||||||||
| 儒教官僚は、命運の尽きた漢室を延命するため、 | |||||||||||||||||||||
| 皇帝を孔子に結びつけた | |||||||||||||||||||||
| 儒教官僚が、皇帝に呪術的な権威をふたたび持たせる | |||||||||||||||||||||
| 孔子が皇帝を補う | |||||||||||||||||||||
| 宗廟・郊祀の改革、『周礼』の施行 | |||||||||||||||||||||
| 王莽は、武帝と同じ呪術的な権威を得るため、図讖を使った | |||||||||||||||||||||
| 3節 儒教の成立 | |||||||||||||||||||||
| 1)図讖と儒教の成立 | |||||||||||||||||||||
| 宣帝、元帝のとき、仮田政策 | |||||||||||||||||||||
| 君主の田を貸して、農民を支配につなぎとめる | |||||||||||||||||||||
| 豪族、商人、官僚、公卿たちに、皇帝が妥協した | |||||||||||||||||||||
| 王莽は、豪族たちを抑圧して、滅びた | |||||||||||||||||||||
| 前漢、王莽、赤眉、光武帝は、庶民の信仰を利用し、君主に向かわせた | |||||||||||||||||||||
| 庶民の神を長安に集めて、巫の指導者になった | |||||||||||||||||||||
| 郡県制を通じて、信仰を組織した | |||||||||||||||||||||
| 光武帝は、呪術的権威「経」と、孔子に関わる「讖」をまとめ、政権を保障 | |||||||||||||||||||||
| 王莽のとき、「経」と「讖」は一本化されておらず | |||||||||||||||||||||
| 光武帝は、政務や礼制を、図讖で解決しようとした | |||||||||||||||||||||
| 図讖教国家の成立! | |||||||||||||||||||||
| 明帝、章帝が使い、『白虎通』でさかんに引用 | |||||||||||||||||||||
| 後漢初期、図讖を正統とする | |||||||||||||||||||||
| 本来の孔子教は、抑制された | |||||||||||||||||||||
| 班固は『白虎通』で、漢を図讖で正統づける | |||||||||||||||||||||
| 前漢武帝は支配するため、孔子を必要としなかったが、後漢は孔子を必要とした | |||||||||||||||||||||
| これが著者のとくに強調したいところ | |||||||||||||||||||||
| 2)孔子教変質の過程 | |||||||||||||||||||||
| 後漢の儒教は、孔子と違い、変質&頽廃したもの | |||||||||||||||||||||
| 孔子は、礼に準拠して人道を生きれば、天命に応えられると考えた | |||||||||||||||||||||
| 怪力乱神を語らず、鬼神を敬遠した | |||||||||||||||||||||
| 古来から祖先を祭る、君主の呪術的な機能が混ざった | |||||||||||||||||||||
| 孔子ら聖人は、卜筮で天意を判断するから、呪術者だった | |||||||||||||||||||||
| 光武帝は、孔子教・経を、讖に取り入れて、1つの武器にまとめた | |||||||||||||||||||||
| 10章 『公羊伝』による『春秋』の図書化 | |||||||||||||||||||||
| 『公羊伝』では孔子が、 | |||||||||||||||||||||
| 鬼神の道・天道の教えを説く呪術者に化けている | |||||||||||||||||||||
| 『春秋』の君主は、『公羊伝』によれば、礼に縛られないよう、呪術性をもつ | |||||||||||||||||||||
| 図書というのは、ブックではなくて、図讖の書物という意味だね | |||||||||||||||||||||
| 『公羊伝』の成立は、董仲舒の少し前に成立したはず | |||||||||||||||||||||
| 後漢のような孔子教国家ができたのは、『公羊伝』の予言を実現したもの | |||||||||||||||||||||
| 『公羊伝』を支持したのが、『漢書』を作る班固です。その伏線だと思います | |||||||||||||||||||||
| 11章 班固の漢王朝神話 | |||||||||||||||||||||
| 序言 | |||||||||||||||||||||
| 『漢書』は班固が、『公羊春秋』と同じく、必要に応じて歴史批判したもの | |||||||||||||||||||||
| 外戚列伝と、高帝紀を検討 | |||||||||||||||||||||
| 班固は、「典引篇」を書いた | |||||||||||||||||||||
| 「典引」とは、堯典に引く、という意味 (漢は堯帝に続くもの) | |||||||||||||||||||||
| 『後漢書』の班固伝にある | |||||||||||||||||||||
| 1節 『漢書』外戚列伝 | |||||||||||||||||||||
| 外戚列伝上下、元后伝、王莽伝上中下 | |||||||||||||||||||||
| 順序は入れ替わっているが、元后と王莽も外戚 | |||||||||||||||||||||
| 王氏が、外国の列伝より後なのは、班固に意図があるはず | |||||||||||||||||||||
| 班固の意図は、賛で分かる | |||||||||||||||||||||
| 王莽の簒奪は、成帝・哀帝・平帝に嗣子がなかったため | |||||||||||||||||||||
| 元后が、4世も天下の母だったため | |||||||||||||||||||||
| 漢が滅びたのは天命で、王莽の人としての力ではない | |||||||||||||||||||||
| 王莽みたいな外戚を得たのが、天の意志 | |||||||||||||||||||||
| 王莽は秦と同じで、凶悪だから短期間で滅びた | |||||||||||||||||||||
| 王莽は徳がないのに即位したから、歴史から抹殺する | |||||||||||||||||||||
| 本紀を立てず、別の史書を作らず、『漢書』に押し込んだのは無茶 | |||||||||||||||||||||
| 2節 王莽伝 | |||||||||||||||||||||
| 王莽の経書・図讖・前例の紹介 | |||||||||||||||||||||
| 班固は、王莽が天命に逆らったことを証明 | |||||||||||||||||||||
| 観念的で現実性が少ない、煩瑣で改廃ばかり、逆効果を生み、 | |||||||||||||||||||||
| 刑罰が厳しく、官吏がねじ曲げ、百姓と四夷が叛乱した | |||||||||||||||||||||
| 個別の事例は興味深いから、論文をコピーしておこう | |||||||||||||||||||||
| 独立した歴史書『新書』を作らず、『漢書』のおまけにした ⇒漢の神話化 | |||||||||||||||||||||
| 3節 元后伝 | |||||||||||||||||||||
| 『漢書』の王氏の系譜は、王莽『自本』による | |||||||||||||||||||||
| 舜の末裔、土徳 | |||||||||||||||||||||
| 元后が皇后になる(王莽の簒奪に繋がる)のは漢室の天命 | |||||||||||||||||||||
| 簒奪は、王莽1人の力でなく、天命だというため、元后の登場は神話めく | |||||||||||||||||||||
| 元后は漢を助けようとしたが、王莽に利用されたと解釈 | |||||||||||||||||||||
| 元后の死後、王丹が光武帝に降ったと記す | |||||||||||||||||||||
| 元后が死んだら、列伝は終わるはず | |||||||||||||||||||||
| 元后と同じように、王氏でも漢を支持する人がいたとアピールする目的 | |||||||||||||||||||||
| 4節 高帝紀と郊祀志 | |||||||||||||||||||||
| 『左伝』をつなぎ合わせて、劉氏を堯の末裔とする | |||||||||||||||||||||
| 蛇を殺す神話を枉げて、火徳とした | |||||||||||||||||||||
| 漢ははじめ土徳だったが、郊祀を話し合う人が改めた | |||||||||||||||||||||
| 前漢末にできた神話を混ぜ、『史記』になかった「五星聚于東井」を追加した | |||||||||||||||||||||
| 5節 漢王朝神話の作成 | |||||||||||||||||||||
| 人道を主張する孔子の主張を破り、儒者・班固が神話を作ったのはなぜか | |||||||||||||||||||||
| 『公羊伝』では、堯舜の聖人の道は、天道と一体化した | |||||||||||||||||||||
| 漢皇帝は、聖人の道の実行者 | |||||||||||||||||||||
| 『公羊伝』を学んだ班固が、神話を作るのは当たり前 | |||||||||||||||||||||
| 班固は白虎観会議で、御用学者の最高権威の1人だった | |||||||||||||||||||||
| 後漢初の国教は、讖に孔子教を吸収したもの | |||||||||||||||||||||
| いつか書きたい『三国志』 | |||||||||||||||||||||