板野長八『儒教成立史の研究』岩波書店1995                    
  要約レジュメ  
  いつか書きたい『三国志』
   
  ぼくなりの要約  
  孔子が儒教を唱えてから、初の儒教国家(後漢)が成立するまでを描く  
  儒教の国教化は、前漢の武帝でなく、王莽でなく、光武帝だとする  
  はじめ孔子『論語』や『孟子』は、在野で人道を説いた  
  儒教は、『老子』や『荘子』に反論された  
  戦国末、『荀子』や『孝経』は、儒教を改良して、一元支配する君主に適応した  
   
  秦で坑儒はなく、ワンオブゼムとして儒教は弾圧された  
  前漢の武帝は呪術の権威がある君主で、孔子より上だった  
  武帝は、孔子が失敗した理想を実現できる人だと考えられた  
   
  前漢が斜陽になると、皇帝の権威が落ちた  
  儒教官僚は、孔子の呪術の権威を皇帝に合体させて、前漢の復活を目指した  
  『春秋公羊伝』が、人道しか説かなかった孔子を神秘化した  
   
  孔子の理屈と、神秘的な予言を合体させて建国&政治したのは、光武帝  
  班固は『漢書』を書いて、漢王朝の神秘性を補強した  
  王莽は、天命を理解しない人として描かれた  
   
  1章 『孝経』の成立  
  序言  
  『孝経』は漢〜唐まで敬われたが、宋から無視  
  君権の強化、宗族の封鎖性と関係がある  
   
  1節 『孝経』作成の時期  
  戦国末期に成立、『孟子』とは主張が異なる  
  『呂氏春秋』の少し前  
   
  2節 『孝経』の特質  
  1)『孝経』の中心問題  
  『孝経』は、「孝が徳のルーツである」という (津田左右吉の解釈)  
  あらゆる徳行は、孝に従属する  
   
  2)「夫レ孝ハ 徳之本也」  
  家族制度(孝悌)を前提として、国の支配がある  
  父と君が衝突したら、  
  『論語』『孟子』は、両立をめざす  
  『荀子』『韓非子』は、君主を優先 →秦漢の一元支配  
  『孝経』は、『荀子』に近い  
   
  3)「夫レ孝ハ 天之経也、地之義也」  
  人道(人としてのあり方、孔子や孟子が説く)を、天道(君主)に吸収させる  
   
  3節 漢室と『孝経』  
  1) 漢の教化政策と『孝経』  
  漢は君主に権力を集中  
  君主の世襲制、封建制度(一族を分封)  
  儒家の礼を採用 (事実上の覇者を、王道に妥協させる)  
  叔孫通は、古代の礼+秦の儀=漢の朝儀  
  儒家が仕官する道をつくる  
  陸賈は、軍事的に不利でも、儒教を守れと言った  
  先王の道を治めた人に、政治をさせよ  
  上級官僚を古代の「大夫」に準え、庶人と分割  
  大夫は礼で、庶人は刑で律する  
  太子を幼少より教育 (周公と成王の故事)  
  公孫弘は、儒教の技術・教養がある人を採用する制度  
  董仲舒は、孔子以外を排除  
  前漢の施策について、興味深いので、細かく引用してしまった  
  恵帝以下、諡に「孝」を冠す  
  昌邑王を廃する理由は、「孝」の欠如 (霍光伝)  
  武帝が『孝経』に拠り、高祖を天に配祀した  
  昭帝の詔に『孝経』の引用  
  宣帝は、即位する前に『孝経』を学んだ ⇒宣帝のとき、儒教の官僚制度が明確に  
   
  2)漢の廟制と『孝経』  
  『孝経』は君主が恒常不変に支配することを肯定  
  同時に逆に、君主が準拠すべき規範を示す  
  郡国廟を廃止する問題に、儒教VS君主が見える  
  郡国廟は、分家が本家を祭るため、『礼記』に叛く  
  『礼記』曰く、卑賤な人が、尊貴な人を祭ってはいけない  
  漢室は、天下を1つの家として心を集め、支配したい ⇒儒教VS君主  
  元帝のとき、韋玄成が郡国廟の廃止を主張  
  石渠閣で検討された  
  韋玄成は、『孝経』に拠った  
  郡国廟は廃止!  
  漢は、1個の家族集団に向かわず、礼の軌道に乗せられた  
   
  2章 『韓非子』の忠孝篇  
  韓非の著作ではないのは周知  
   
  1 韓非の思想と忠孝篇の共通性  
  忠孝篇は、信賞必罰による、君主の一元支配を期す  
  韓非と同じ  
   
  2 韓非の思想と忠孝篇の相違  
  忠孝篇は、孝悌、忠順、仁義を肯定する  
  忠孝篇は、法を犯さない範囲で、道徳性や智的能力を肯定した  
  韓非と違う  
  韓非は、国家が一元支配するため、封建的な宗族を壊そうとした  
  韓非は、臣下の智的能力を否定した  
   
  3 忠孝篇と家父長制  
  忠孝篇は、君主にとって邪魔な宗族を壊したあと、  
  君主に忠実な「家父長制」を発明した (韓非の発展形)  
   
  4 忠孝篇の位置  
  『荀子』『呂氏春秋』『易伝』との比較  
   
  3章 易の聖人と形而上の道  
  孔子&孟子&荀子は、墨家と、老荘&韓非との中間だ  
  墨家は、人間の力を強め、礼を越えて天と繋がろうとした  
  老荘と韓非は、人間を排除して、礼の根底にある天に返ろうとした  
  人間の力や知識は、呪術と結びついた  
  著者が何を指摘されたか、よく分からん  
   
  4章 『左伝』の作成  
  序言  
  『左伝』は、素性が分からない  
  漢代に今文学派と古文学派が論争したのは、  
  劉歆が王莽と結んで、『左伝』の学官を立てようとしたから  
  『左伝』は、『荀子』と同じ段階だろう  
  孔子と孟子を、老子が否定  
  その老子に対して、儒学が再反論した段階だ  
   
  1節 『左伝』の特徴  
  1)覇者の見方  
  『左伝』は、礼を破りつつある覇者に、「礼」を守れという  
  「礼」とは、周の生活規範で、孔子や孟子が主張した  
  孟子は覇者を否定したが、『左伝』は覇者がいても良しとする  
  以下略  
  このあと『左伝』にある、礼、卜筮と易、災異、徳について検討します。  
  『左伝』は、老子や荘子の成果(孔子・孟子を修正)を踏まえていると証明してます。  
   
  5章 董仲舒の対策  
  序言  
  前140年に董仲舒が対策し、前136に五経博士を設置  
  五経博士の設置を、儒教の国教化と誤解するのは、秦漢の帝王の性格を知らないから  
   
  1節 董仲舒の「対策」  
  董仲舒は3回対策した  
  第一の対策  
  天人相感 (人=君主)  
  武帝が仁義礼楽をそなえ、民を教化せよ (『春秋公羊伝』より)  
  第二の対策  
  士を養う太学を建立せよ  
  貢士制にて、能力本位で人材を用いよ  
  第三の対策  
  民を教化する方法は、孔子のやり方に統一せよ  
  董仲舒が論拠とした『公羊伝』では、孔子は王者に教える権威がない  
  『公羊伝』で孔子は、堯舜を実現できず、漢帝に委嘱して死んだ  
  孔子教が、国教になるわけがない  
  国教になるとしたら、堯舜のやり方である  
  董仲舒の意図は「孔子が失敗したことを、漢帝が成功させましょう」  
   
  2節 武帝と淮南の獄  
  武帝は『春秋』に則って、謀反事件を裁いた  
  武帝その人は判決に責任を持たず、天命が責任をもつ  
   
  3節 始皇帝のいわゆる焚書坑儒  
  焚書は、儒学のみが対象ではない  
  きっかけは儒者が作ったが  
  儒者の淳于越は、始皇帝に意見した  
  「始皇帝は、秦の王室の子弟を、匹夫に落とした。国が永続しないだろう」  
  すべての思想を、皇帝支配の枠に入れるための政策  
  坑儒は行われなかった  
   
  6章 『大学篇』の格物到知  
  多くの学者の脳漿を涸らさせてたテーマ  
  ぼくは卒論のとき挑み、さっぱり分からなかったので、今日も避けます・・・省略!  
   
  7章 『中庸篇』の成り立ち  
  省略します・・・おやすみなさい  
   
  8章 災異説より見た劉向と劉歆  
  劉向と劉歆は父子だが、意見が違う  
  劉向も劉歆も、図讖を信じない (孔子と孟子と同じ、人間本位)  
   
  4節 劉向・劉歆の占める位置  
  董仲舒と劉向  
  人君は、天が下す変異に対処すれば、天に影響を与えられる  
  人君は、天を変えられる呪術者  
  劉歆  
  人君は、天に影響を与えられない  
  この話はよく分からなかったが、もう少し勉強してから返って来たい  
   
  9章 図讖と儒教の成立  
  序言  
  孔子教は、光武帝が図讖を根拠に即位してから、国教になった  
   
  1節 讖の二重性  
  図讖には2つある  
  呪術者が天より受け取る予言  
  成帝、哀帝のころ成立  
  前漢の道術家(夏侯勝・眭弘)、劉向と劉歆にも、図讖はない  
  王莽と光武帝が、同じ図讖を利用  
  『河図会昌符』は、『孔丘秘経』『天官歴包元太平経』に遡り、  
  前漢武帝の鼎書、始皇帝の録図書に遡る  
  学者が理法を明らかにしたもの  
  図讖は、先に発言し、後から証明される予言  
  律歴や易を研究した、聖人がするもの  
  がつくった例  
  後漢の張衡が支持し、光武帝の図讖をニセモノだと批判  
  劉歆が解釈した『春秋』の災異に遡り、  
  京房『易伝』、洪範五行伝、賈誼、『易経』に遡る  
   
  2節 図讖の占める位置  
  1) 図讖とその先駆  
  呪術的な図讖は、孔子が作ったものとされる  
  董仲舒や劉向が『春秋』の災異を解釈したものが先駆  
  災異は天戒である  
  天の意志を、人間に分かるように翻案したもの  
  理法のみならず、呪術的に読み取った  
  天戒のネタ元は『春秋』だから、孔子が関わったと連想された  
  魯の乱臣を除き、聖人・孔子を用いる災異があった  
   
  2)図讖への展開1  
  なぜ天意は、災異で表れるか  
  宣帝は瑞祥が多く、成帝は災異が多かった  
  君主の呪術上の権威を高めるため  
  漢帝を説得するには、孔子の教えでは足りず、天意が必要  
  封禅した武帝は、天と一体化した  
  災異を受けて、政治を改善するなら、皇帝の呪術は天意と直通していない  
  天意に直接働きかけられるなら、政治の改善は不要  
  人間が改善して、天の譴責をなだめる余地  
  谷永は災異を受け、成帝の失政を諌めた  
  谷永は、劉歆ら儒教官僚や、王鳳ら王氏と近かった  
  劉向は『春秋』で災異を解釈した  
  劉向は、『列女伝』で後宮の乱れを説いた  
  皇族としての意識が強い  
  成帝に継嗣ができないのは、天の懲罰  
  滅びそうな前漢を立て直すため、呪術的権威の回復に努めた  
  より分かりやすく、文字で現れるようになった  
  漢皇帝の呪術の腕を証明するとともに、より明確に改善を促しますね  
  哀帝のとき、漢の滅亡を示す符命  
   
  3)図讖への展開2  
  なぜ図讖は、孔子と関わるのか  
  独裁者であれば、天と一体化して、呪術的な権威を使える (高祖や武帝)  
  孔子は、漢皇帝と違って、天意を知る呪術者ではない  
  独裁できなければ、官僚や法家、儒教の助けがいる  
  元帝〜、儒教官僚は、君主を批判  
  郡国廟を廃し、孔子教の寛治をするのは、君主権力の後退  
  儒教官僚は、命運の尽きた漢室を延命するため、  
  皇帝を孔子に結びつけた  
  儒教官僚が、皇帝に呪術的な権威をふたたび持たせる  
  孔子が皇帝を補う  
  宗廟・郊祀の改革、『周礼』の施行  
  王莽は、武帝と同じ呪術的な権威を得るため、図讖を使った  
   
  3節 儒教の成立  
  1)図讖と儒教の成立  
  宣帝、元帝のとき、仮田政策  
  君主の田を貸して、農民を支配につなぎとめる  
  豪族、商人、官僚、公卿たちに、皇帝が妥協した  
  王莽は、豪族たちを抑圧して、滅びた  
  前漢、王莽、赤眉、光武帝は、庶民の信仰を利用し、君主に向かわせた  
  庶民の神を長安に集めて、巫の指導者になった  
  郡県制を通じて、信仰を組織した  
  光武帝は、呪術的権威「経」と、孔子に関わる「讖」をまとめ、政権を保障  
  王莽のとき、「経」と「讖」は一本化されておらず  
  光武帝は、政務や礼制を、図讖で解決しようとした  
  図讖教国家の成立!  
  明帝、章帝が使い、『白虎通』でさかんに引用  
  後漢初期、図讖を正統とする  
  本来の孔子教は、抑制された  
  班固は『白虎通』で、漢を図讖で正統づける  
  前漢武帝は支配するため、孔子を必要としなかったが、後漢は孔子を必要とした  
  これが著者のとくに強調したいところ  
   
  2)孔子教変質の過程  
  後漢の儒教は、孔子と違い、変質&頽廃したもの  
  孔子は、礼に準拠して人道を生きれば、天命に応えられると考えた  
  怪力乱神を語らず、鬼神を敬遠した  
  古来から祖先を祭る、君主の呪術的な機能が混ざった  
  孔子ら聖人は、卜筮で天意を判断するから、呪術者だった  
  光武帝は、孔子教・経を、讖に取り入れて、1つの武器にまとめた  
   
  10章 『公羊伝』による『春秋』の図書化  
  『公羊伝』では孔子が、  
  鬼神の道・天道の教えを説く呪術者に化けている  
  『春秋』の君主は、『公羊伝』によれば、礼に縛られないよう、呪術性をもつ  
  図書というのは、ブックではなくて、図讖の書物という意味だね  
  『公羊伝』の成立は、董仲舒の少し前に成立したはず  
  後漢のような孔子教国家ができたのは、『公羊伝』の予言を実現したもの  
  『公羊伝』を支持したのが、『漢書』を作る班固です。その伏線だと思います  
   
  11章 班固の漢王朝神話  
  序言  
  『漢書』は班固が、『公羊春秋』と同じく、必要に応じて歴史批判したもの  
  外戚列伝と、高帝紀を検討  
  班固は、「典引篇」を書いた  
  「典引」とは、堯典に引く、という意味 (漢は堯帝に続くもの)  
  『後漢書』の班固伝にある  
   
  1節 『漢書』外戚列伝  
  外戚列伝上下、元后伝、王莽伝上中下  
  順序は入れ替わっているが、元后と王莽も外戚  
  王氏が、外国の列伝より後なのは、班固に意図があるはず  
  班固の意図は、賛で分かる  
  王莽の簒奪は、成帝・哀帝・平帝に嗣子がなかったため  
  元后が、4世も天下の母だったため  
  漢が滅びたのは天命で、王莽の人としての力ではない  
  王莽みたいな外戚を得たのが、天の意志  
  王莽は秦と同じで、凶悪だから短期間で滅びた  
  王莽は徳がないのに即位したから、歴史から抹殺する  
  本紀を立てず、別の史書を作らず、『漢書』に押し込んだのは無茶  
  2節 王莽伝  
  王莽の経書・図讖・前例の紹介  
  班固は、王莽が天命に逆らったことを証明  
  観念的で現実性が少ない、煩瑣で改廃ばかり、逆効果を生み、  
  刑罰が厳しく、官吏がねじ曲げ、百姓と四夷が叛乱した  
  個別の事例は興味深いから、論文をコピーしておこう  
  独立した歴史書『新書』を作らず、『漢書』のおまけにした ⇒漢の神話化  
   
  3節 元后伝  
  『漢書』の王氏の系譜は、王莽『自本』による  
  舜の末裔、土徳  
  元后が皇后になる(王莽の簒奪に繋がる)のは漢室の天命  
  簒奪は、王莽1人の力でなく、天命だというため、元后の登場は神話めく  
  元后は漢を助けようとしたが、王莽に利用されたと解釈  
  元后の死後、王丹が光武帝に降ったと記す  
  元后が死んだら、列伝は終わるはず  
  元后と同じように、王氏でも漢を支持する人がいたとアピールする目的  
   
  4節 高帝紀と郊祀志  
  『左伝』をつなぎ合わせて、劉氏を堯の末裔とする  
  蛇を殺す神話を枉げて、火徳とした  
  漢ははじめ土徳だったが、郊祀を話し合う人が改めた  
  前漢末にできた神話を混ぜ、『史記』になかった「五星聚于東井」を追加した  
   
  5節 漢王朝神話の作成  
  人道を主張する孔子の主張を破り、儒者・班固が神話を作ったのはなぜか  
  『公羊伝』では、堯舜の聖人の道は、天道と一体化した  
  漢皇帝は、聖人の道の実行者  
  『公羊伝』を学んだ班固が、神話を作るのは当たり前  
  班固は白虎観会議で、御用学者の最高権威の1人だった  
  後漢初の国教は、讖に孔子教を吸収したもの  
                                いつか書きたい『三国志』