| 満田剛『三国志 正史と小説の狭間』の第1章レジュメ | ||||||||||||||||||||
| いつか書きたい『三国志』 | ||||||||||||||||||||
| 【目的】 | ||||||||||||||||||||
| 史学史の面白さに、一歩踏み込む | ||||||||||||||||||||
| 歴史書に書いてある中身でなく、歴史書そのものを知識欲の対象とする | ||||||||||||||||||||
| 「同時代史」の歴史書 | ||||||||||||||||||||
| 陳寿 | ||||||||||||||||||||
| あざなは承ソ、233〜297 | ||||||||||||||||||||
| 『晋書』巻82、『華陽国志』巻11に列伝 | ||||||||||||||||||||
| 巴西郡安漢県の人、譙周の弟子 | ||||||||||||||||||||
| 『尚書』、『春秋』三伝を学び、『史記』と『漢書』も学ぶ | ||||||||||||||||||||
| 三伝: 左氏伝、公羊伝、穀梁伝 | ||||||||||||||||||||
| 『尚書』は、名前しかぼくは知らんので、調べねば | ||||||||||||||||||||
| 著作は『古国志』、『益部キ旧伝』 | ||||||||||||||||||||
| 『三国志』 | ||||||||||||||||||||
| 280年〜284年に書いた | ||||||||||||||||||||
| 『華陽国志』より | ||||||||||||||||||||
| @ 三国時代が終わった直後に書き始めた | ||||||||||||||||||||
| A 4年以内という短い期間で編纂 | ||||||||||||||||||||
| B 魏を正統とする | ||||||||||||||||||||
| 王朝でなく、自分自身でまとめた | ||||||||||||||||||||
| 西晋に阿諛している | ||||||||||||||||||||
| 『諸葛亮集』を編纂したときの上表文より | ||||||||||||||||||||
| 『諸葛亮集』の上表文や、本文?を見たことがない・・・読まねば! | ||||||||||||||||||||
| 歴史書は、支配の正統性を示す、宣伝の道具 | ||||||||||||||||||||
| 司馬昭の皇帝殺害を書けない | ||||||||||||||||||||
| 曹髦は「崩」でなく、「卒」した | ||||||||||||||||||||
| 曹髦の優秀さを示し、結末に唐突に「卒」する | ||||||||||||||||||||
| 普通の死に方でないと、推定できる | ||||||||||||||||||||
| 魏晋の公式見解 | ||||||||||||||||||||
| 曹髦が皇太后を殺害して、出撃 | ||||||||||||||||||||
| 司馬昭を捕えようとして、返り討ちにあった | ||||||||||||||||||||
| 記述できない諸事情を、微妙は表現で、記録に残す | ||||||||||||||||||||
| 小説的描写が少ない | ||||||||||||||||||||
| 本田済の指摘 | ||||||||||||||||||||
| 逸話の形式は、同時代者の反感を買うから、控えねばならん | ||||||||||||||||||||
| 陳寿が簡潔な理由は、彼が慎重な客観主義者だったから、だけでない | ||||||||||||||||||||
| 逸話だと、ロコツに批判めいてしまうからね、、なるほど! | ||||||||||||||||||||
| 「蜀漢は正統であるか?」陳寿の情念と三国のランキング | ||||||||||||||||||||
| 魏の君主の呼称 | ||||||||||||||||||||
| 陳寿の『魏志』 | ||||||||||||||||||||
| 曹操 | ||||||||||||||||||||
| はじめ「太祖」 | ||||||||||||||||||||
| 196年、大将軍となってから「公」 | ||||||||||||||||||||
| 216年、魏王になってから「王」 | ||||||||||||||||||||
| 曹丕〜 | ||||||||||||||||||||
| 皇帝になってから「帝」、まれに「上」 | ||||||||||||||||||||
| 曹芳の廃位後、曹髦の即位前は、「公」 | ||||||||||||||||||||
| 裴松之 | ||||||||||||||||||||
| 陳寿にならう | ||||||||||||||||||||
| 原文のママでなく、陳寿に合わせて、呼称を変更 | ||||||||||||||||||||
| 『魏志』で、劉氏と孫氏は、名指し | ||||||||||||||||||||
| 鍾会伝の布告で、「益州の先主」と言うのみ | ||||||||||||||||||||
| 陳寿の意志でなく、原文の引用 | ||||||||||||||||||||
| きっと「前の統治者」という一般名詞だろうね | ||||||||||||||||||||
| 呉の君主の呼称 | ||||||||||||||||||||
| 陳寿の『呉志』 | ||||||||||||||||||||
| 孫権、孫亮、孫休、孫皓は名指し | ||||||||||||||||||||
| 魏の君主より、明らかに扱いが低い | ||||||||||||||||||||
| 『呉志』で、劉氏は名指し | ||||||||||||||||||||
| 曹操は「曹公」、曹丕は「魏文帝」、曹叡は「魏明帝」 | ||||||||||||||||||||
| 発言や令を引用するときは「曹操」と名指しする | ||||||||||||||||||||
| 蜀の君主の呼称 | ||||||||||||||||||||
| 陳寿の『蜀志』 | ||||||||||||||||||||
| 劉備を「先主」、劉禅を「後主」 | ||||||||||||||||||||
| 魏のように「帝」でなく、呉のように呼び捨てでもない | ||||||||||||||||||||
| 呉よりランクが上 | ||||||||||||||||||||
| 『蜀志』で、孫権は名指し | ||||||||||||||||||||
| 曹操は「曹公」、曹丕は「魏文帝」 | ||||||||||||||||||||
| 発言や令を引用するときは「曹操」と名指しする | ||||||||||||||||||||
| 本にないことですが、ぼくが表にまとめると、、 | ||||||||||||||||||||
| 魏の君主 | 呉の君主 | 蜀の君主 | ||||||||||||||||||
| 『魏志』 | 「帝」 | 呼び捨て | 呼び捨て | |||||||||||||||||
| 『呉志』 | 「帝」 | 呼び捨て | 呼び捨て | |||||||||||||||||
| 『蜀志』 | 「帝」 | 呼び捨て | 「先主」「後主」 | |||||||||||||||||
| 皇帝の妻の呼称 | ||||||||||||||||||||
| 魏では「皇后」 | ||||||||||||||||||||
| 呉では「夫人」 | ||||||||||||||||||||
| 呉は、皇帝の妻でもニセモノ | ||||||||||||||||||||
| 蜀は「皇后」 | ||||||||||||||||||||
| 『蜀志』で、蜀の君主は「皇帝」ではないのに! | ||||||||||||||||||||
| 蜀漢の君主が、漢皇帝だと暗に示す | ||||||||||||||||||||
| 君主が亡くなったときの表現 | ||||||||||||||||||||
| 魏=「崩」 | 皇帝の死去を伝統的に表す字 | |||||||||||||||||||
| 死去の日付、場所を明記 | ||||||||||||||||||||
| 呉=「薨」 | 魏の高官なみ | |||||||||||||||||||
| 死去の日付や場所を記さず | ||||||||||||||||||||
| 西晋で孫皓は、名指しのまま「死」する | ||||||||||||||||||||
| 蜀=「殂」 | あまり使用されない | |||||||||||||||||||
| 死去の日付、場所を明記 | ||||||||||||||||||||
| 西晋で劉禅は、「公」となり「薨」する | ||||||||||||||||||||
| 陳寿は、蜀漢の歴史を『漢書』としたかったが、西晋に憚った | ||||||||||||||||||||
| 劉備が、後漢の正統な継承者だという主張になる | ||||||||||||||||||||
| 呉はいちばん劣る | ||||||||||||||||||||
| 「漢室匡輔」の建前の前で、呉の正統性は薄い | ||||||||||||||||||||
| 陳寿『三国志』は、三国時代ダイジェスト | ||||||||||||||||||||
| 陳寿は既存の歴史書を「切り貼り」した | ||||||||||||||||||||
| 歴史書のダイジェスト | ||||||||||||||||||||
| 西晋の権力者に「問題」があるところを、簡潔にアレンジ | ||||||||||||||||||||
| 「まとめ」を作る心構えなら、簡潔なのはあたりまえ | ||||||||||||||||||||
| だって陳寿にとって、丸写ししなくても、原本が目の前にあるんだから | ||||||||||||||||||||
| でも、元史料が散逸することに、陳寿は気づいてたのか? | ||||||||||||||||||||
| 「韋曜伝」は陳寿が自分で書いただろうが | ||||||||||||||||||||
| 陳寿が一次史料(公文書)をまとめたら、4年では編纂できない | ||||||||||||||||||||
| 孫呉が併呑されてから書き始めたのは、呉の歴史が入手できたため | ||||||||||||||||||||
| 陳寿が拠った史書 | ||||||||||||||||||||
| 『魏志』 | 王沈『魏書』、魚カン『魏略』 | |||||||||||||||||||
| 『呉志』 | 韋昭『呉書』 | |||||||||||||||||||
| 『蜀志』 | 譙周『蜀本紀』? | |||||||||||||||||||
| 『蜀志』は可能性のレベルで、「特記すべきものがない」が妥当 | ||||||||||||||||||||
| 陳寿の故郷だから、いくらでも史料はあるでしょ | ||||||||||||||||||||
| 意外に元ネタの数は、少ないんですね・・・丸写し疑惑が濃厚だ | ||||||||||||||||||||
| 王沈『魏書』 | ||||||||||||||||||||
| 王沈は、『晋書』巻39に列伝 | ||||||||||||||||||||
| 太原郡の晋陽の人 (太原の王氏、は名族) | ||||||||||||||||||||
| 祖父の王柔は、漢の匈奴中郎将 | ||||||||||||||||||||
| 父の王機は、魏の東郡太守 | ||||||||||||||||||||
| 曹爽の掾、曹爽が誅されて免職 | ||||||||||||||||||||
| 254〜256、荀、阮籍とともに『魏書』を編纂 | ||||||||||||||||||||
| ときの権力者に憚りすぎて、陳寿には敵わない(『晋書』) | ||||||||||||||||||||
| 曹髦は、王沈を「文籍先生」、裴秀を「儒林丈人」と呼ぶ | ||||||||||||||||||||
| 曹髦に、司馬昭攻めを相談されて、司馬昭にリーク | ||||||||||||||||||||
| 不忠としてなじられる | ||||||||||||||||||||
| 地方で、賈逵以来の禁令を施行 | ||||||||||||||||||||
| 魏が蜀漢を平定するとき、出陣した呉を、江北で防ぐ | ||||||||||||||||||||
| 魏晋革命のため、羊祜、荀勖、裴秀、賈充と謀る | ||||||||||||||||||||
| 驃騎将軍、録尚書事に | ||||||||||||||||||||
| 魏晋革命のとき、政権中枢にいた人物! | ||||||||||||||||||||
| 『史通』が記す、『魏書』の経緯 | ||||||||||||||||||||
| 黄初(220〜226)、太和(227〜232)、衛キと繆襲に史書を命じ、未完 | ||||||||||||||||||||
| 韋誕、応キョ、王沈、阮籍、傅玄に命じる | ||||||||||||||||||||
| 『太平御覧』に、韋誕が『魏書』を完成させたとあるが・・・ | ||||||||||||||||||||
| 王沈『魏書』と同じだから、散逸したのだろう | ||||||||||||||||||||
| 王沈が『魏書』を完成させた | ||||||||||||||||||||
| 『世説新語』に引用された『魏書』から、成立時期を推測できる | ||||||||||||||||||||
| 『魏書』に、司馬師と司馬昭の列伝があったことが推測できる | ||||||||||||||||||||
| 司馬懿と司馬昭に諡号(宣王、文王)がついたのは、264年5月 | ||||||||||||||||||||
| 『魏書』では、「宣文侯」とある | ||||||||||||||||||||
| 陳寿は司馬懿を「宣帝」と呼ばず、「宣王」とする | ||||||||||||||||||||
| 陳留王紀で、傅カが「宣文侯」という | ||||||||||||||||||||
| 『蜀志』で、引用でないのに、陳寿が司馬懿を呼び捨てる | ||||||||||||||||||||
| 「後主伝」建興8年、9年 | ||||||||||||||||||||
| 司馬懿の呼び方を、陳寿は統一していない | ||||||||||||||||||||
| 「随文改称」に注意 | ||||||||||||||||||||
| ときと場合により、名前を変えること | ||||||||||||||||||||
| 王沈は、魏の明帝までしか本紀がない(榎一雄) ⇒× | ||||||||||||||||||||
| 王沈は、曹芳以降は、晋代と考えたら、 | ||||||||||||||||||||
| 陳寿が、王沈を参考にできない | ||||||||||||||||||||
| 王沈が、いつから晋が始まると考えていたか、史料にない | ||||||||||||||||||||
| 晋書限断論 | ||||||||||||||||||||
| 『晋書』をいつから始めるべきか | ||||||||||||||||||||
| 280−289に盛んだった | ||||||||||||||||||||
| 裴松之は、王沈『魏書』、魚カン『魏略』から、三少帝紀に注釈 | ||||||||||||||||||||
| 王沈は、曹芳よりあとも書いた (曹芳、曹髦、曹奐) | ||||||||||||||||||||
| 陳寿が、重複を嫌って、王沈を省略しただけ | ||||||||||||||||||||
| 王沈『魏書』は、魏の正統を主張する歴史書 | ||||||||||||||||||||
| 魏の公式見解 | ||||||||||||||||||||
| 王沈は、劉備・諸葛亮の評価が高い | ||||||||||||||||||||
| ライバルである劉備が強ければ、曹操が引き立つ | ||||||||||||||||||||
| 劉備は、曹操の前でのみ、弱い | ||||||||||||||||||||
| 魚カン『魏略』について | ||||||||||||||||||||
| 明帝のとき郎中になったこと以外、生没年、経歴不明 | ||||||||||||||||||||
| 魚カンには、『典略』という著作もある | ||||||||||||||||||||
| 『典略』は、後漢までの歴史をまとめた50巻 | ||||||||||||||||||||
| 『魏略』は、『典略』の続編 | ||||||||||||||||||||
| 『史通』は、「『魏略』は明帝に止まる」とある | ||||||||||||||||||||
| 本紀が明帝までだ (榎一雄) | ||||||||||||||||||||
| 魚カン『魏略』、王沈『魏書』、陳寿『魏志』の参照関係は、諸説ある | ||||||||||||||||||||
| 著者(満田氏)は、王沈と魚カンを見て、陳寿が書いたとする | ||||||||||||||||||||
| 韋昭『呉書』について | ||||||||||||||||||||
| 韋昭は、204〜273 | ||||||||||||||||||||
| 252年、孫亮が即位し、諸葛恪が輔政すると、太史令になった | ||||||||||||||||||||
| 258年、孫休が即位すると、前漢の劉向にならって、図書を校定 | ||||||||||||||||||||
| 張布が反対 | ||||||||||||||||||||
| 264年、孫皓が即位すると、韋昭は、侍中、左国史 | ||||||||||||||||||||
| 孫皓は、父・孫和の本紀を立てたがる | ||||||||||||||||||||
| 韋昭が断り、273年、投獄 | ||||||||||||||||||||
| 『洞記』、『春秋外伝国語』注、『漢書音義』、『孝経解讃』、『弁釈名』 | ||||||||||||||||||||
| 『呉書』は、孫権が命じて始まった仕事 | ||||||||||||||||||||
| 131年〜273年を記述 | ||||||||||||||||||||
| 全部で、55巻 | ||||||||||||||||||||
| 孫権が伝国璽を発見&保持するのは、「漢室匡輔」という国是と矛盾 | ||||||||||||||||||||
| 呉が天下を統一することを主張 | ||||||||||||||||||||
| 陳寿が立伝しなかった人の、列伝がある | ||||||||||||||||||||
| 趙咨、沈コウ、鄭泉、馮煕、陳化、丁固、李粛 | ||||||||||||||||||||
| 劉虞、陶謙、董卓、袁紹、袁術もあり | ||||||||||||||||||||
| 初代丞相・孫劭の列伝がない | ||||||||||||||||||||
| 呉の権力に遠慮 | ||||||||||||||||||||
| 董昭、張昭、周昭が避諱されていない | ||||||||||||||||||||
| 司馬昭に憚らない | ||||||||||||||||||||
| 陳寿が、韋昭の『呉書』を見てマネたから | ||||||||||||||||||||
| 陸機と陸雲は、独自に『呉書』を書こうとした | ||||||||||||||||||||
| 『陸士龍集』 | ||||||||||||||||||||
| 韋昭が、名士をきちんと評価していないから | ||||||||||||||||||||
| 鼓吹曲と歴史書 | ||||||||||||||||||||
| 三国の軍隊には、「鼓吹曲」がある | ||||||||||||||||||||
| 士気の高揚、凱旋を称える | ||||||||||||||||||||
| 鼓吹曲を作詞した人は、歴史書の編纂に関わった | ||||||||||||||||||||
| 魏の繆襲: 劉劭伝の本文と、劉劭伝の裴注『文章志』 | ||||||||||||||||||||
| 呉の韋昭: 上記 | ||||||||||||||||||||
| 晋の傅玄: 『晋書』巻47 | ||||||||||||||||||||
| 蜀は、漢の鼓吹曲を流用しただろう | ||||||||||||||||||||
| 歴史書は、正統性を主張する道具だった | ||||||||||||||||||||
| いつか書きたい『三国志』 | ||||||||||||||||||||