| 西嶋定生『中国史を学ぶということ』の要約 | |||||||||||||||||||
| いつか書きたい『三国志』 | |||||||||||||||||||
| 1 日本の歴史と東アジア世界 | |||||||||||||||||||
| 一 なぜ日本史を世界史として理解することが必要か | |||||||||||||||||||
| 1 日本史を世界史的にみるとはどういうことか | |||||||||||||||||||
| 日本史の理解 | |||||||||||||||||||
| ● | ある教師曰く: | 高校教育の課題は、模範とすべき民主主義を学ぶこと | |||||||||||||||||
| 東洋史は不要、近代以後のヨーロッパ史を詳細に | |||||||||||||||||||
| ⇒ 日本の近代化・民主化は、ヨーロッパ近代史に接続? | |||||||||||||||||||
| ● | 戦後日本史の2つの課題 | ||||||||||||||||||
| @ | 歴史事実を客観的に認識 | ||||||||||||||||||
| ○ | 戦前の国粋主義、万邦無比の歴史はダメ | ||||||||||||||||||
| A | 歴史発展の法則を、事実に見出す | ||||||||||||||||||
| ○ | 戦後、奴隷制、封建的農奴制、近代資本制を論じた | ||||||||||||||||||
| 国粋主義の否定には効果あり | |||||||||||||||||||
| ○ | 特殊で具体的な事実関係を、法則に当てはめて見逃すな | ||||||||||||||||||
| ⇒ 前近代のアジア史、近代のヨーロッパ史も個別に理解せよ | |||||||||||||||||||
| 古代日本文化と東アジア | |||||||||||||||||||
| ● | 高校世界史は、戦前の東洋史+西洋史 | ||||||||||||||||||
| 日本史の孤立的な自己完結性を意識させる | |||||||||||||||||||
| ● | 地球を一括する世界史でなく、並存する「諸世界」の歴史を知れ | ||||||||||||||||||
| ○ | 近代以前は、東アジア世界は完結、古代日本は東アジア世界の一部 | ||||||||||||||||||
| ○ | ほかに、地中海世界、イスラム世界、ヨーロッパ世界 | ||||||||||||||||||
| 2 東アジア世界と日本国家の形成とはどのような関係があるか | |||||||||||||||||||
| 倭国と漢帝国 | |||||||||||||||||||
| 日本国家の形成は、東アジア世界といかに密着したか | |||||||||||||||||||
| ● | 紀元前108、前漢の武帝が朝鮮国を滅ぼし、楽浪ら4郡を設置 | ||||||||||||||||||
| 『漢書』楽浪海中に倭人あり: 朝貢開始、最古の日本の記録 | |||||||||||||||||||
| ⇒ 中国への朝貢は、日本内で権威を高めるため | |||||||||||||||||||
| ● | 光武帝より「漢委奴国王」 | ||||||||||||||||||
| ● | 和帝のとき、倭国王の師升が生口160人 | ||||||||||||||||||
| ● | 桓帝と霊帝のとき、倭国大乱 | ||||||||||||||||||
| ⇒ 後ろ盾・後漢帝国が権威を失ったため | |||||||||||||||||||
| 倭国と漢帝国 | |||||||||||||||||||
| ● | 卑弥呼は、初めて王号を与えられた | ||||||||||||||||||
| ⇒ 中国から、政治的・文化的な規制 (礼制に従う) | |||||||||||||||||||
| ○ | 狗奴国と紛争が終わると、詔書 | ||||||||||||||||||
| ○ | 卑弥呼が死ぬと、中国の礼制で葬る | ||||||||||||||||||
| ⇒ 古墳の築造が始まる理由? | |||||||||||||||||||
| 冊封体制からの離脱 | |||||||||||||||||||
| ● | 313、高句麗が楽浪郡を滅ぼす | ||||||||||||||||||
| 日本の冊封が断絶 | |||||||||||||||||||
| ● | 倭の五王が南朝宋に朝貢するのは、高句麗に対抗し、南朝鮮を支配するため | ||||||||||||||||||
| ● | 5世紀末から100年間、倭国と中国が断絶 | ||||||||||||||||||
| 「治天下大王」として、倭国政権が中国中心の世界から離脱 | |||||||||||||||||||
| ● | 7世紀初頭に遣隋使 | ||||||||||||||||||
| 中国を中心とした「天下」を、日本列島に模倣 | |||||||||||||||||||
| 3 東アジア世界の推移と日本文化の形成とはどのように関係するか | |||||||||||||||||||
| 日本史の特性 | |||||||||||||||||||
| @ | 東アジア世界のなかで日本は、どのような文化的特性を持つか | ||||||||||||||||||
| ● | 漢字の使用 (中国、朝鮮、ベトナムに共通) | ||||||||||||||||||
| A | なぜ日本は、東アジア世界にあるのに、独特の文化的特性を持つか | ||||||||||||||||||
| ● | 和歌、俳句、茶の湯、生け花 | ||||||||||||||||||
| 地域的小「世界」 | |||||||||||||||||||
| ● | 東アジア世界は、10世紀に解体、再生した | ||||||||||||||||||
| 4 東アジア世界のなかにおける中国史の位置とは | |||||||||||||||||||
| 中国史の位置 | |||||||||||||||||||
| ● | 東アジア世界は、漢字文化圏 | ||||||||||||||||||
| 漢字は、冊封体制(国際的な政治機構)で伝播した | |||||||||||||||||||
| ● | 中国史を学ぶ目的は2つ | ||||||||||||||||||
| @ | 現代中国を理解する | ||||||||||||||||||
| A | 日本史を世界史的に理解するため | ||||||||||||||||||
| 二 中国史を学ぶということ ―とくに日本史との関連において― | |||||||||||||||||||
| 1 中国史を学ぶことの意味 | |||||||||||||||||||
| 歴史を学ぶ目的 | |||||||||||||||||||
| ● | マロリー「そこに山がある、だから登るのだ」 | ||||||||||||||||||
| 「そこに歴史がある、だから学ぶのだ」ではない | |||||||||||||||||||
| ● | 未来を志向する人が、過去に眼を向ける実践的な行為 | ||||||||||||||||||
| 自己が負荷する歴史を知り、自己がいかなる存在か知る | |||||||||||||||||||
| 中国史を学ぶ立場 | |||||||||||||||||||
| ● | 立場は? | ||||||||||||||||||
| × | 神の前に普遍化された人類、自然科学的に抽象化された人類 | ||||||||||||||||||
| ○ | 社会内部の矛盾、民族や国家の分立の矛盾に直面し、 | ||||||||||||||||||
| 矛盾を超克しようとする、具体的な存在としての人類 | |||||||||||||||||||
| ● | 誰が何のために中国史を学ぶか、立場を限定 | ||||||||||||||||||
| ⇒ 日本民族の形成と展開が、いかに中国史と関連するか | |||||||||||||||||||
| 対象は、前近代に限る | |||||||||||||||||||
| 2 交渉史的関心と比較史的関心 | |||||||||||||||||||
| 交渉史の対象としての中国史 | |||||||||||||||||||
| ● | 日中には、支配従属関係が永続しない | ||||||||||||||||||
| ○ | 古代: 遣隋使や遣唐使の往復、留学生の派遣 | ||||||||||||||||||
| ○ | 中世: 日宋貿易や日明貿易 | ||||||||||||||||||
| ● | 中国文化の供給源 | ||||||||||||||||||
| ただし招来した後、独自の文化にアレンジされた | |||||||||||||||||||
| ⇒ 日本史の研究分野として、中国史が主役にならない | |||||||||||||||||||
| 比較史の対象としての中国史 | |||||||||||||||||||
| ● | 社会の相違 | ||||||||||||||||||
| ○ | 律令史の研究 (均田法と班田収授法) | ||||||||||||||||||
| ○ | 中世、日本は地方分権的な封建性が成熟するが、 | ||||||||||||||||||
| 中国はふたたび官僚制的な中央集権的君主支配が復活 | |||||||||||||||||||
| ○ | 日本:中国:インド = 独立国:半植民地:植民地 | ||||||||||||||||||
| ● | 日本史を、大陸から隔絶させ、自己完結させる捉え方 | ||||||||||||||||||
| ⇒ 日本史の比較対象として、中国を選択&限定する必要がない | |||||||||||||||||||
| (古代ギリシャやローマ、中世ヨーロッパの方が面白い?) | |||||||||||||||||||
| 3 世界史的観点の導入 | |||||||||||||||||||
| 座標軸の設定 | |||||||||||||||||||
| ● | 交渉史、比較史ではない視座 | ||||||||||||||||||
| ● | 19世紀ヨーロッパが進出し、地球一括の世界が形成される前の世界 | ||||||||||||||||||
| 近代以前の諸世界 | |||||||||||||||||||
| ● | 古代オリエント、ギリシャローマの地中海、ヨーロッパ、南アジア、イスラムなど | ||||||||||||||||||
| ● | 諸種の民族を包含 | ||||||||||||||||||
| 同一の文化源や政治をもつ、自己完結した価値体系 | |||||||||||||||||||
| ● | 同時に並存しない | ||||||||||||||||||
| 消滅したオリエントや地中海、近代に接続したヨーロッパ | |||||||||||||||||||
| 三 東アジア世界の成立と展開 | |||||||||||||||||||
| 1 東アジア世界の設定 | |||||||||||||||||||
| ● | 漢字文化、律令制、儒教、漢訳仏教 | ||||||||||||||||||
| ● | 中国、朝鮮半島、日本、ベトナム | ||||||||||||||||||
| (各国の独自性を、共通点のなかに解消してはいけない) | |||||||||||||||||||
| 2 政治構造としての東アジア世界 | |||||||||||||||||||
| 漢字の特性、伝播 | |||||||||||||||||||
| ● | 漢字は、それぞれ固有の字形、固有の音、固有の意味をもつ | ||||||||||||||||||
| 言語構造の違う、日本語を表現できない | |||||||||||||||||||
| ● | 下賜された金印、邪馬台国への詔書や檄文を読むために、 | ||||||||||||||||||
| 日本人が漢字を勉強したはず | ←東アジア世界の一員である証拠 | ||||||||||||||||||
| (万葉仮名など、日本語への利用は、二次的なもの) | |||||||||||||||||||
| 国際的政治圏としての東アジア | |||||||||||||||||||
| ● | 「文化は、高い地域から低い地域へ流れる」は間違い | ||||||||||||||||||
| 後進地域も、固有文化を持つ | |||||||||||||||||||
| ● | 後進地域(例:日本)は、自ら判断して、先進文化(例:中国)を受容したはず | ||||||||||||||||||
| 政治機構のニーズ | |||||||||||||||||||
| 3 東アジア世界の成立条件 | |||||||||||||||||||
| 中華思想とは何か | |||||||||||||||||||
| ○ | 華夷思想: 礼の規範を備えるかで、華夷を区分 | ||||||||||||||||||
| ○ | 王化思想: 聖人の徳が、夷狄を帰化させる | ||||||||||||||||||
| 儒教の国教化 | |||||||||||||||||||
| ● | 儒教は王道を主張、儒教は皇帝を説明できない | ||||||||||||||||||
| 紀元前1世紀後半に国教化 | |||||||||||||||||||
| ● | 王莽が完成、清朝まで国家祭祀の伝統となる (王莽の再評価を要す) | ||||||||||||||||||
| 封建制と郡県制 | |||||||||||||||||||
| ● | 前漢の郡国制により、国外の異民族国家の首長を、王侯に封じて、 | ||||||||||||||||||
| 君臣関係を結ぶスタイルが可能になった (秦の郡県制では不可) | |||||||||||||||||||
| ○ | 朝鮮国、南越国 | ||||||||||||||||||
| 前漢の武帝が、「外臣としての約束に背いた」ので討伐、郡県に編入 | |||||||||||||||||||
| ● | 紀元前後に、冊封体制が完成 | ||||||||||||||||||
| ○ | 高句麗国、夜郎国、テン国 | ||||||||||||||||||
| 前漢後期に王となる | |||||||||||||||||||
| ○ | 57年、「漢委奴国王」に金印 | ||||||||||||||||||
| 敵国関係と姻戚関係 | |||||||||||||||||||
| ● | 匈奴は「匹敵する礼」 | ||||||||||||||||||
| ● | 西北は、親族関係 | ||||||||||||||||||
| ○ | 中国皇帝が父で、突厥は子 | ||||||||||||||||||
| ○ | 中国皇帝が舅で、ウイグルは甥 | ||||||||||||||||||
| 5 東アジア世界の展開 | |||||||||||||||||||
| 冊封体制からの離脱 | |||||||||||||||||||
| ● | 5世紀、中国の南北朝時代、東アジアは中心点が2つ | ||||||||||||||||||
| ● | 隋の統一で、高句麗、百済、新羅は臣となる | ||||||||||||||||||
| 日本は対等な立場を主張: 貢物のみで、官位や爵号をもらわず | |||||||||||||||||||
| 一元的冊封体制の回復 | |||||||||||||||||||
| ● | 隋3回の高句麗出兵は、冊封関係の義務を果たさないから | ||||||||||||||||||
| ● | 唐は、百済と高句麗を滅ぼし、日本は白村江で敗北 | ||||||||||||||||||
| ● | 8世紀、渤海国が唐の冊封を受ける (唐が渤海王に封じたのが起源) | ||||||||||||||||||
| 6 東アジア世界の解体と再編 | |||||||||||||||||||
| 古代東アジア世界の崩壊 | |||||||||||||||||||
| ● | 10世紀の唐滅亡で、東アジア世界が解体 | ||||||||||||||||||
| ○ | 新羅から高麗へ | ||||||||||||||||||
| ○ | 渤海は、契丹に滅ぼされる | ||||||||||||||||||
| 契丹は、中国の後晋を臣属させた | |||||||||||||||||||
| ○ | 平将門の乱 | ||||||||||||||||||
| 諸民族文化の出現 | |||||||||||||||||||
| ● | 日本の国風文化、契丹文字、西夏文字 | ||||||||||||||||||
| 漢字文化圏の共通性が変わる | |||||||||||||||||||
| 交易圏としての東アジア | |||||||||||||||||||
| ● | 宋は二年三毛作した、経済的に発展した王朝 | ||||||||||||||||||
| 東南アジアやアラビアとの交易開始 | |||||||||||||||||||
| ⇒ 政治でなく経済の「東アジア世界」に再編 | |||||||||||||||||||
| ● | 平清盛の大輪田泊、倭寇、日明貿易へ | ||||||||||||||||||
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