| 平勢隆郎 『史記の「正統」』 要約レジュメ | |||||||||||||||||||
| いつか書きたい『三国志』 | |||||||||||||||||||
| ぼくなりの紹介 | |||||||||||||||||||
| 『史記』を書いた司馬遷のことが、分かる本です | |||||||||||||||||||
| 歴史を書く人の立場や、苦労を知ることができます | |||||||||||||||||||
| 司馬遷が、どんな場所で、何をしていたかも書いてあります | |||||||||||||||||||
| 歴史書の歴史について知りたければ、外せない本のはず | |||||||||||||||||||
| 読んでトクしたこと | |||||||||||||||||||
| 有名な問題、『史記』の年代矛盾が解決する! | |||||||||||||||||||
| 『史記』に、項羽本紀がある理由 | |||||||||||||||||||
| 司馬遷が抹殺した、三国鼎立とは (韓信じゃないです) | |||||||||||||||||||
| 始皇帝にまつわるウソを、分かりやすく粉砕 | |||||||||||||||||||
| 班固『漢書』が、司馬遷をどう歪めたか | |||||||||||||||||||
| はじめに | |||||||||||||||||||
| 『史記』の2900箇所に年代が記され、3割が矛盾する | |||||||||||||||||||
| 矛盾の原因を解明した本です | |||||||||||||||||||
| 司馬遷は、公人として『史記』を記した | |||||||||||||||||||
| 『漢書』では、個人の著作として描かれるが、事実に反する | |||||||||||||||||||
| 1章 項羽・劉邦の「虚」と「実」 | |||||||||||||||||||
| 1 「唯一」の暦と「唯一」の正統 | |||||||||||||||||||
| 劉邦の天下統一は、前201でなく、前202だ | |||||||||||||||||||
| 戦国時代の楚の特異な暦のせいで、教科書が誤った | |||||||||||||||||||
| 暦は正統の証 | |||||||||||||||||||
| 「正朔」=元年の正月ついたちが重要 | |||||||||||||||||||
| 踰年改元 | |||||||||||||||||||
| 君主が死に、すぐに太子が即位するが、改元は翌年 | |||||||||||||||||||
| 残った年は、新君主の準備期間 | |||||||||||||||||||
| 太子に徳があるか、賢人がジャッジする期間 | |||||||||||||||||||
| 戦国時代の、称元(元年を称する)が由来 | |||||||||||||||||||
| 血統のない君主が、自らの正統を新たに設定 | |||||||||||||||||||
| 立年称元 | |||||||||||||||||||
| 君主が即位したら、すぐに元年を称する | |||||||||||||||||||
| 踰年改元より、新君主の年号が1年早く始まる | |||||||||||||||||||
| 戦国の6国は、正月の位置をずらし、独自の暦を持った | |||||||||||||||||||
| 「夏正」とは、春の始まりを正月とする | |||||||||||||||||||
| 項羽と劉邦も、違う暦を使った | |||||||||||||||||||
| 項羽本紀と、高祖本紀では、月がズレる | |||||||||||||||||||
| 諸侯王・列侯もそれぞれ紀年をもつ | |||||||||||||||||||
| 始皇帝は、王を除いたが、封君は残した | |||||||||||||||||||
| 2 義帝殺害と漢天下統一の年代 | |||||||||||||||||||
| 『史記』の年代矛盾は、異なる暦を混同したから | |||||||||||||||||||
| 戦国時代の楚王は、立年称元法 | |||||||||||||||||||
| 秦を滅ぼした、楚の義帝は、踰年称元法 | |||||||||||||||||||
| 楚王よりランクが上の「帝」だと示すため、暦を変えた | |||||||||||||||||||
| 「帝」であり、「皇帝」ではない | |||||||||||||||||||
| 劉邦は、楚の義帝の暦を、なかったことにした | |||||||||||||||||||
| 鯨布は独自の紀年をもった | |||||||||||||||||||
| 3 「越」の正統と天下観 | |||||||||||||||||||
| 楚帝項羽、漢帝劉邦、越帝趙他の3帝が鼎立した | |||||||||||||||||||
| 項羽の「西楚」なら、義帝は「東楚」の帝 | |||||||||||||||||||
| 西楚: 淮北の沛、陳、汝南、南郡 | |||||||||||||||||||
| 東楚: 彭城より東、東海、呉、江陵 | |||||||||||||||||||
| 南楚: 衡山、九江、江南、豫章、長沙 | |||||||||||||||||||
| 呂后のとき、南越の武王が自立、「武帝」と生号 | |||||||||||||||||||
| 生号とは、生前に号をつかうこと | |||||||||||||||||||
| 西周も楚も、項羽の「覇王」も生号 | |||||||||||||||||||
| 越は、漢皇帝を「天王」と呼んだ | |||||||||||||||||||
| 天王とは、『春秋』の周王を指し、王の上 | |||||||||||||||||||
| 越は、楚の義帝の正統を継いだ | |||||||||||||||||||
| 漢に対抗して、正統を主張 | |||||||||||||||||||
| 楚の義帝の暦を使った | |||||||||||||||||||
| 前漢の武帝が、越を滅ぼした理由 | |||||||||||||||||||
| 漢は、秦の暦を継いだ | |||||||||||||||||||
| 4 『史記』の「形」と漢の正統 | |||||||||||||||||||
| なぜ項羽に本紀があるか | |||||||||||||||||||
| じつは、楚の義帝の本紀 | |||||||||||||||||||
| 劉邦は、楚の義帝より格下だから、都合が悪い | |||||||||||||||||||
| 項羽の本紀に置き換えれば、前漢より上にならない | |||||||||||||||||||
| 『春秋』は、君子が筆削したもの | |||||||||||||||||||
| 筆は書き加え、削は削除 | |||||||||||||||||||
| 『公羊伝』: 斉の正統(原書の『春秋』と同じ) | |||||||||||||||||||
| 周から漢が継承すると、読み替えられる | |||||||||||||||||||
| 『竹書年紀』: 魏の正統 | |||||||||||||||||||
| 『左伝』: 韓の正統 | |||||||||||||||||||
| 『穀梁伝』: 中山の正統 | |||||||||||||||||||
| 前漢末に注目される諸本は、戦国各国の本! | |||||||||||||||||||
| 『史記』は、始皇帝から劉邦が、直接継承するカタチ | |||||||||||||||||||
| 始皇帝が3年延命され、2世と3世を無視 | |||||||||||||||||||
| 2世や3世は「王」とされる | |||||||||||||||||||
| 皇帝を名乗ることを遠慮したのでなく、『史記』の書き方のせい | |||||||||||||||||||
| 始皇帝も劉邦も、踰年称元のカタチ | |||||||||||||||||||
| 始皇帝は、秦本紀(準備期間)と始皇本紀に分けられる | |||||||||||||||||||
| 劉邦は、項羽本紀(準備期間)と高祖本紀に分けられる | |||||||||||||||||||
| 正と負が交互するカタチ | |||||||||||||||||||
| 周で、文王と武王が交互したことに倣う | |||||||||||||||||||
| 戦国時代も周に倣い、文王、武王、成王(宣王)が並ぶカタチ | |||||||||||||||||||
| +) | 始皇帝 | 高祖 | 文帝 | 武帝 | |||||||||||||||
| −) | 項羽 | 呂后 | 景帝 | ||||||||||||||||
| +) | 夏 | 周 | 始皇帝 | ||||||||||||||||
| −) | 五帝 | 殷 | 秦王 | ||||||||||||||||
| +) | 夏・殷・周 | 漢帝(高祖〜武帝) | |||||||||||||||||
| −) | 五帝 | 秦王・始皇帝・項羽 | |||||||||||||||||
| 劉邦の前はマイナスであるべき | |||||||||||||||||||
| 楚の義帝では負のイメージが薄いので、項羽をおく | |||||||||||||||||||
| 5 封印された越の正統 | |||||||||||||||||||
| 楚の義帝は「越の義帝」と記憶された | |||||||||||||||||||
| 項羽が楚を乗っ取ったから | |||||||||||||||||||
| 義帝と項羽と越帝は、政治の制度が共通する | |||||||||||||||||||
| 戦国の越王や楚王は「覇者」と記憶される | |||||||||||||||||||
| 中原から見れば、「自分と違って徳がなかった奴」 | |||||||||||||||||||
| 覇者を自認する王はいるわけがない | |||||||||||||||||||
| 戦国の越が楚を掣肘したから、秦は楚を討てた | |||||||||||||||||||
| 前漢は越帝を「越君」と記し、歴史から抹殺 | |||||||||||||||||||
| 武帝の封禅は、越帝を滅ぼし、秦帝国領を回復した祝い | |||||||||||||||||||
| 『史記』は、武帝の封禅を問題なしとする | |||||||||||||||||||
| 『漢書』は、武帝の封禅を不手際とする | |||||||||||||||||||
| 班固は、光武帝を高めるため、武帝をおとしめた | |||||||||||||||||||
| どこかの小説のように、武帝が封禅を失敗してない | |||||||||||||||||||
| 始皇帝も、『史記』から『漢書』へ移り、評価が下がった | |||||||||||||||||||
| 「帝」と、「皇帝」は異なる | |||||||||||||||||||
| 「帝」は、戦国時代に、斉と秦が東西で名乗った | |||||||||||||||||||
| 始皇帝は、「帝」の上に「皇帝」をつくった | |||||||||||||||||||
| 始皇帝が封禅したのは、かつての「斉帝」を滅ぼした祝い | |||||||||||||||||||
| 2章 始皇帝の「虚」と「実」 | |||||||||||||||||||
| 司馬遷が間違って作り上げてしまった、始皇帝のイメージを是正する章 | |||||||||||||||||||
| 1 秦天下統一の道筋 | |||||||||||||||||||
| 前漢の武帝をほめる『史記』、後漢の光武帝をほめる『漢書』とは別に、 | |||||||||||||||||||
| 始皇帝像が用意されるべき | |||||||||||||||||||
| 始皇帝が秦王を継いだとき、すでに秦は天下の半ばを治めた | |||||||||||||||||||
| 始皇帝が1代で帝国を築いていない | |||||||||||||||||||
| 教科書の解説図が、誤解を招く | |||||||||||||||||||
| 秦の領土拡大の過程を、『史記』が書き誤った | |||||||||||||||||||
| 1人を別人に、別人を1人に記したせい | |||||||||||||||||||
| 秦の恵文君は、恵公、文公、恵侯、文侯と呼ばれる | |||||||||||||||||||
| 1の君主に、複数の紀年がある | |||||||||||||||||||
| 戦国の君主は、 | |||||||||||||||||||
| 王になる前は、立年称元法 | |||||||||||||||||||
| 王を称するとき、踰年称元法 ⇒混乱の原因 | |||||||||||||||||||
| 2 埋もれた式典 | |||||||||||||||||||
| 合従連衡の誤解 | |||||||||||||||||||
| 秦王に対抗する、縦一列をイメージするが、違う | |||||||||||||||||||
| 前4世紀の状況を、前3世紀のイメージで書いたからズレた | |||||||||||||||||||
| 離合集散、という表現が妥当 | |||||||||||||||||||
| 魏や秦の式典に、後世人がレッテルを貼って歪む | |||||||||||||||||||
| 3 改元しない始皇帝 | |||||||||||||||||||
| 踰年改元は、周公旦と成王の故事をつかう | |||||||||||||||||||
| 戦国の王は、他国と違う暦をつくり、正統性を主張 | |||||||||||||||||||
| 他国が改元しなければ、改元し、 | |||||||||||||||||||
| 他国が改元したら、改元せず ⇒始皇帝 | |||||||||||||||||||
| 4 文字・貨幣の統一はあったか | |||||||||||||||||||
| なかった | |||||||||||||||||||
| 文字の統一でなく、祭祀用「正体」と、一般用「俗体」の混同 | |||||||||||||||||||
| 『説文解字』もウソだ | |||||||||||||||||||
| 貨幣を統一したのは、2世皇帝で、混乱を招いた | |||||||||||||||||||
| 貨幣を統一しなかったから、始皇帝は賢い | |||||||||||||||||||
| 坑儒とは、儒学者の弾圧ではない | |||||||||||||||||||
| 他国の正統を封殺するため、歴史書を焼いた | |||||||||||||||||||
| 『春秋』『左伝』『穀梁伝』も、儒教典だからではなく、 | |||||||||||||||||||
| 秦以外の正統を主張するから、焼かれた | |||||||||||||||||||
| 『詩経』『書経』は、所持を許された | |||||||||||||||||||
| 秦の正統を記してくれる、学者を殺すわけがない | |||||||||||||||||||
| 『韓非子』は、儒教が学者の一部に過ぎないと伝える | |||||||||||||||||||
| 3章 新しい春秋戦国時代像 | |||||||||||||||||||
| 司馬遷は、十二諸侯年表を、踰年称元法でつくった | |||||||||||||||||||
| 一律に設定したから、年代が矛盾した | |||||||||||||||||||
| 王が踰年称元なら、封君の紀年は立年称元する | |||||||||||||||||||
| 王と封君の暦をズラして、王にプレミアム感をだす | |||||||||||||||||||
| 司馬遷が混乱した原因 | |||||||||||||||||||
| 春秋以来の伝統がある楚は、周と同じ立年称元法 | |||||||||||||||||||
| 戦国の新興国は、対抗して踰年称元法をつかう | |||||||||||||||||||
| 蘇秦は、弟の蘇代と混同された | |||||||||||||||||||
| どちらも「蘇子」と呼ばれるから | |||||||||||||||||||
| 錐をももに突きたてて勉強したのは、じつは無名な弟 | |||||||||||||||||||
| 終章 『史記』をどう読むか | |||||||||||||||||||
| 1 『史記』年代整理作業の場 | |||||||||||||||||||
| 12諸侯の年表を作るには、広い室内が必要 | |||||||||||||||||||
| 14国(周と魯を、12国にプラス)のカードを並べる | |||||||||||||||||||
| エクセルのように、行列を挿入できず、台ごと移動 | |||||||||||||||||||
| 個人で確保できるスペースではない! | |||||||||||||||||||
| この本で、いちばん面白い記述でした | |||||||||||||||||||
| 司馬遷の作業をシミュレーションしているので | |||||||||||||||||||
| 2 「おおやけ」の書『史記』 | |||||||||||||||||||
| 『漢書』芸文志で、『史記』は歴史書 | |||||||||||||||||||
| 『春秋』などは、『史記』の材料という位置づけ | |||||||||||||||||||
| 発憤の記述が違う | |||||||||||||||||||
| 発憤すると、評価が下がる (評価を下げたい人を発憤させる) | |||||||||||||||||||
| 孔子 | 司馬遷 | ||||||||||||||||||
| 『史記』 | 発憤した | 発憤しない | |||||||||||||||||
| 『漢書』 | 発憤しない | 発奮した | |||||||||||||||||
| 司馬遷は、孔子を批判し、自らは慎んだことにした | |||||||||||||||||||
| 孔子は史書の先輩で、乗り越える対象 | |||||||||||||||||||
| 班固は、司馬遷を批判し、逆に孔子を持ち上げた | |||||||||||||||||||
| 司馬遷は史書の先輩で、乗り越える対象 | |||||||||||||||||||
| 儒教国家の後漢では、孔子は聖人 | |||||||||||||||||||
| 表を自作してみました・・・表にするまでもなかったな | |||||||||||||||||||
| 副本を京師に納めた『史記』は、私的な本ではない | |||||||||||||||||||
| 官給をもらう、太史公として書いた | |||||||||||||||||||
| 『漢書』の班固が、『史記』をスポイルするために歪曲 | |||||||||||||||||||
| 司馬遷が、孔子を私人として描くのに通じる | |||||||||||||||||||
| 前漢の武帝を、至上とした | |||||||||||||||||||
| 3 『史記』の材料と「おおやけ」 | |||||||||||||||||||
| 『史記』の自序の末尾は、『公羊伝』の借り物 | |||||||||||||||||||
| 戦国時代に整理された歴史を、司馬遷がさらに整理した | |||||||||||||||||||
| 4 『史記』の「実」を読む | |||||||||||||||||||
| 『春秋』は、孔子が斉の田成子を評価して、「ほめ」「くさし」たもの | |||||||||||||||||||
| 『公羊伝』は、孔子の褒貶の仕事をついだ | |||||||||||||||||||
| 各都市は、自らの正統性を主張するため、褒貶した | |||||||||||||||||||
| 人や事件を、いちいち評価・証明 | |||||||||||||||||||
| 淡々と表す(記事は矛盾せず、呼び名を統一) | |||||||||||||||||||
| かえって真実が分からない | |||||||||||||||||||
| ●『漢書』がつぎ、論文へとつながる | |||||||||||||||||||
| 『左氏伝』は、説話を加えた | |||||||||||||||||||
| 都市が流入した難民を秩序づけるため、諸子を利用 | |||||||||||||||||||
| 諸子の会話、ジェスチャアが説話となった | |||||||||||||||||||
| わざと破綻している(矛盾した話、異なる呼び名) | |||||||||||||||||||
| 真実を暴露することもある | |||||||||||||||||||
| ●『史記』がつぎ、小説へとつながる | |||||||||||||||||||
| いつか書きたい『三国志』 | |||||||||||||||||||