■三国志キャラ伝>司馬懿伝/上。仲達が曹操より怖いもの(3)
■兄の死 この濡須の年、流行り病で兄が死ぬ。 仲達にしてみると、肉親の死だから、一般的には悲しいだろうが、枷が外れた心地だったんじゃないか。 8つも年上だから、兄というより父だ。重圧をかけてくる保護者が、もう1人いたようなものなんだ。 その目障りさんが、司馬氏代々の伝統的なレール=名地方官としての人生を真っ当に歩んで、ときどき小言を寄越したんだろう。 「お前は、主上の後継争いの核に入り込んでいるらしいな。男子たるもの、そんな小さなことで脚の引っ張り合いをして、恥ずかしくないか。もっと公明正大な務めがあるだろうに。そもそも、お前が党派に加わってる曹丕が負けたら、未来はどうするのか」 なんていうんだ。仲達なりに楽しく手抜きで仕事してるのに、ウザいよ。   ■父の死 2年後の219年(仲達は41歳)ついに父が死ぬ。 公務には就いていなかったが、おそらく河内郡の実家で、でーんと構えて、兄や他の兄弟との比較論なんかを、こねくり回していたんだろう。仲達の寝技を、良く言わなかったに違いない。 やはり、うざいかった。 偶然にも、この年は曹操が危篤になり、翌年正月に死ぬんだね。   ■曹操と仲達 一般的な仲達のイメージは、こうか。 仲達が頭角を表すのは、曹操の死後だ。なぜなら、曹操にはイヤイヤ仕えて、目立たないように振る舞っていたからだ。 仲達は、曹操存命のとき、平凡な文官だった。野心を持つのはもっと後年、もしくは子の代になってからなんだ。晋の祖になるなんて、曹操が偉大すぎて、思いつきもしない。   ただし、曹丕とは個人的にウマが合ったので、彼のために頭脳を使った。後継者争いでは、表に出ないサポートが多かった。曹操が死に、曹丕が皇帝となってからは、目立つこと(対蜀作戦とか)もできるようになった。   ■仲達が目立ち始めたわけ ぼくはこれは充分ではないと思う。 仲達は、父と兄に、ずっと遠慮していたんだ。というか、抑圧されていたんだ。だから屈折して、手を抜いていた。 氏長者は兄なんだから、でしゃばってはいけない。父も兄も儒教道徳に縛られた、堅苦しい性格だから、忠告ばかりしてきて面倒くさい。自分の色を出さない方が、平穏無事な人生を送れるだろう、という読みだ。 さいわい、立派な家だから、食うには困らないし。諸葛亮は、「自ら耕し」なんてうそぶいて、ダラダラしていた。あれと同じことが、仲達には出来るんだから。兄が稼いでくれるしね笑   仲達が頭角を現すのは、曹操が死んでくれたからではなく、父と兄が死んでくれたからなんだ。たまたま時期が重なって、しかも誰も司馬防と司馬朗の死んだタイミングなんて気にしないから、真意が埋もれていた。   簒奪には、曹氏との関係が重要な要素だが、司馬氏の内情も重要だ。 一族が脆弱もしくは操縦不能ならば、自分の家に王朝を招きいれても、まるで意味がない。自分の家を主宰して初めて、派手に動ける。道理だ。 結果から言えば、司馬氏は子孫が繁栄しすぎて、八王ノ乱を招くんだが笑
  ■授業参観日かよ! 兄がいなくなり、父が病気がちになると、仲達は自分から進言を始める。 あたかも、普段は授業で発言しない子供が、授業参観日にだけ挙手するように。仲達は正反対のパタンだが笑   まず、軍司馬に転じたとき、曹操に「農業振興で富国強兵を」と提案して、容れられた。 その次に、「荊州刺史の胡脩は粗暴で、南郷太守の傅方は驕奢だから、劉備との国境を任せるのはよくない」と言った。 しかし、曹操は聞かなかった。  関羽の北伐が始まると、案の定、胡脩も傅方も、関羽に寝返ってしまった。思い起こされるのは、孫堅の董卓討伐だね。桂陽郡あたりから荊州を北上し、荊州刺史と南陽太守を併呑し、洛陽に突っ込んだ。それと同じことになってしまった。不吉!   ■曹操の弱腰 諸臣「曹仁将軍の樊城が包囲。于禁将軍は水没!」 曹操「漢帝は、許昌にいる。樊城に近くて、危険だ。河北に移すか」 仲達が諌めて曰く、 「于禁は水没する地点にいただけで、戦って敗れたのではありません。国家の大計が損なわれたのではありません。遷都しては、天下に弱みを晒すだけ。淮水、沔水の流域(魏内、黄河の南)の人が不安になります」 ここからが有名ですが、 「孫権と劉備は、表面上は同盟していますが、利害は不一致です。孫権は、関羽の成功を歓迎しません。孫権に関羽の後方を突かせれば、樊城の包囲は自ずと解けるでしょう。ふはははは」   ■荊州の戦後処理 曹操「荊州の遺黎(残留してる庶民?)や屯田をしている者のうち、かつて潁川にいた人は、頴川に戻そう。荊州は孫権が攻めていて危ない」 仲達が、曹操を遮る! 「いけません。荊州は帰属がコロコロ変わりやすい土地(軽脱)で、安定させるのが難しいです。諸悪をなす連中(劉備、孫権、中小在地勢力?)は、様子をじっと見ています。いま善き者(魏のために頑張り続ける人?)を移してしまえば、彼らの意志を傷つけてしまうでしょう。無理に頴川に戻さなくていいでしょう」   うーん、意味が分からない。荊州から頴川に来ている人を、むりやり荊州に送還しない方がいい、と言っているようにも読める。意味が正反対じゃん。いかんなあ。 とにかく、荊州の始末について、仲達が曹操の意見に真っ向から反対して、認められたということが分かれば、良しとしましょうか。   曹操は「頭痛が痛い」と言って、死んでしまった。
  ■エピローグ 今までずっと沈黙していた文官が、いきなりこんな大掛かりな発言を、自信満々に連発するのは、不自然です。いくら「君子豹変」とか「呉下の阿蒙にあらず」とか言っても、限界はある。 曹操が生きているのに、いきなり仲達が活躍し出したのは、父と兄の重石が外れたから。『晋書』をじっくり読むと、それなりに納得がいきます。   いつか、司馬懿の人生の後半についても書きたいです。 というか、まだ「宣帝紀」の20%くらいしか消化してない。。
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