三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
光武帝の奇跡を待つ劉氏、劉巴伝(3)
■劉備の喜び
劉備は劉巴を許し、諸葛亮はたびたび劉巴を賞賛した。
こうなると、もう因縁晴らしのイジメですよ。尊敬しています、という態度を取りながら、過去の応対の拙さを責めているんだ。そして、漢の復興を願ってきた劉巴を幕下に加えたことは、自陣営の正当化の根拠を手に入れたという、政治的意味がある。

諸葛亮や劉備がやりたいのは、「曹操が祭り上げてる劉協はマガイモンで、漢の正統はこちらにある」という創作正統論だ。
劉邦を意識して、これ見よがしに「漢中王」を名乗った。後に曹丕が即位したとき、劉協を死んだことにして、劉備は皇帝になった。後年これだけの証拠が揃っているのだから、確信犯だね。
この創作行為を推進するためのダシとして、劉巴は捕獲され、敬意の眼差しを送られ続けた。いやあ、針のむしろですよ。お互いに分かってて、でも本音を言わないんだから、ストレスが溜まる。許靖みたいに、なりふり構わず取り乱しちゃえば、まだラクなのに笑

■テナガザルに王冠
219年、劉巴が34歳のときに劉備が漢中王になった。
劉巴は尚書。
「こんなはずじゃねえ」というのが、劉巴の思いだっただろう。確かに強い劉氏の登場を待っていたし、漢不滅神話は疑っていない。しかし、わが荊州を貧民を連れて逃げていた傭兵隊長ごときが、第2の光武帝なわけがないじゃねえか。

劉表・劉焉の場合は、正しき皇統を証明する系図が残っている。だから道を譲り、敬意を払ってきた。
しかし劉備は、どこの馬の骨か分からない。そういう点では、劉邦ないしは劉秀からの繋がりが曖昧であっても、祖父の代より太守を出してきた自分の方が、血統が上なんじゃないか。劉巴は思っていたに違いない。傍系っぽいから、耐え忍んで「観察者」に甘んじてきたのに、これはどういうことか!と叫びたかったと思う。

■見え透いた叛逆
法正が漢中争奪戦で疲弊すると、尚書令を継いだ。
文書を発行・管理する責任者だから、大した権限ですよ。
だがこれも、諸葛亮の陰湿な「敬ったふりをして、実態はおとしめる」というイジメに見える。

陳寿はわざわざ、「劉巴は、本心で帰順したんじゃないから、忠を疑われることを恐れ、地味な生活を心がけた」と書いた。これは、けっこう特異なことだと、ぼくは思う。
思いどおりにいかない運命や人事なんて、この世に溢れている。でも、それなりに納得をした振りをして、それなりに職務をこなずだろう。多少は世を拗ねて、無常観に浸って蓄財から遠ざかるのも良いでしょう。せいぜい飲み屋でグチって発散しろ。

後世の歴史家をして「どうせイヤイヤ劉備に仕えたので」なんて書かれてしまうんだから、よほど分かりやすく反発していたんだろう。通りで人と擦れ違うたびに、「あーあ、漢中王とか茶番だよね」とアピってないと、こんな記述は残らないだろう。
「あるべき劉氏は、こうなんじゃなくて」という無念とギャップは抱えていただろうが、もう少しスマートに生きられたらいいのに。理想が高く、思い込みが激しいと、パワーの原理が支配する乱世に適応できないよ。

陳寿曰く「沈黙を守り、ひかえめな態度で、帰宅したら誰とも交際せず、公的な場で最低限の発言をした」と。

■人生最大の恥辱
態度の悪い異分子。だが見ようによっては清貧で、寡黙で、名門で、常に客観的な立場から発言しそうな劉巴さん。彼に命じられたのは、彼が最もやりたくない仕事だった。
劉備が帝号を称したとき、皇天上帝・後土神祇に「オレ劉備は皇帝になるから、宜しくね」と報告する文書を、起草させられた。

もしも、長年劉備を皇帝にしたくて、目をギラギラ光らせてきた人物が筆を執れば、「自己満足も休み休み言え」と、天下から批判が集中するに違いない。生きている劉協を「死んだこと」にしているから、漬け込まれる余地のある文書を発表できない。
劉氏を頂く漢帝国を、他の誰よりも強く思い続け、あるべき姿を描き、生きてきた劉巴。彼の一世一代の願い事は、劉備へのオベンチャラに利用されてしまったのでした。

命よりも大切にしてきた信念を穢された人物が、次に取れる行動とは、1つしかありません。
死。
劉備を即位させた翌年(222年)劉巴は死去。まだ37歳だった。
魏の陳羣は諸葛亮に劉巴の安否を尋ね、孫権は張昭に反論しがてら、劉巴の一辺倒な生き方を称賛したという。本当かなあ笑
光武帝の奇跡を待つ劉氏、劉巴伝(4)
■張飛の面会拒否
劉巴の無念を見てきました。ここまで本意が叶わず、苦しみぬいて、皮肉な死に方をした人物が、地味な「董和伝」の次にあったとは、驚きでした。ちなみに次は、やはり地味な「馬良伝」です笑
『三国志』、まだまだ奥が深いね。

劉巴本人の屈折は別として、当時の身分秩序を示す逸話として、『零陵先賢伝』の張飛と劉巴のやりとりが有名です。
張飛は、劉巴の家に泊まった。劉巴は張飛を無視し続けたので、張飛はブチ切れた。心配した諸葛亮が、劉巴に言った。
「張飛は武人ですが、あなたを敬慕してます。劉備さまは、文武に優れた人たちを集め、大業を定めようとしておられます。仲間割れしているヒマはありません。劉巴どの、少しは我慢して、張飛とも口を聞いてやってくれませんか」と。
劉巴は切り返した。
「いっぱしの人物(私)が乱世を生きて行くからには、四海の英雄と交わりを持つべきです。どうして、軍人風情と語り合う必要がありましょうか

劉巴の態度にびっくりする前に、張飛が劉巴の家に泊まったというシチュエイションに、まずは驚いておきましょう。えー!えー!
そして、諸葛亮があくまで上から目線で張飛を取り成しているのも、鼻に付かないでもない笑
知名度からいけば、張飛は劉巴を1億倍するんだが、ただの「強い兵」では、士大夫の仲間入りはさせてもらえないんだね。張飛さん、いちおう、のちの司隷校尉なんですが笑

■劉備のコゴト
喧嘩の仲裁くらいしか、人心収攬のチャンスがないと思ったのか、これまた劉巴から見れば「たかが軍人」でしかない、劉備の登場ですよ。
「こら劉巴、オレが天下平定を望んでいるのに、手前はチームワークの足を引っ張る。曹操のところに戻るつもりか。それとも、オレとともに天下を狙ってくれるのか」と問うてきた。劉巴の価値観の根本に触れる問いを、無遠慮にヌケヌケと。

これに対する劉巴の回答は、書かれていない。
可能性は2つで。劉巴は黙ってしまった。すなわち、「曹操のところに帰りたい」が無言の回答だった。
もしくは、『零陵先賢伝』が、あまりに込み入った劉巴の心情を察しかねて、それっぽい問答を思いつかなかった。どうやら後者のような気がして仕方がないが、終始無念な劉巴の、血のにじんだ下唇が見えてきそうです。

劉備は別のところで「劉巴の才智は、ずば抜けている。オレなら劉巴を使いこなせるが、他のやつ(おそらく曹操)に出来るかな」と、放言している。
劉巴は劉備のことが大嫌いなのに、劉備は自分を正当化するための手駒として、劉巴を是非とも確保しておきたい。独りよがりな確信と、若干の焦りが、見え隠れするエピソードです。本当に、不幸な劉巴。

■諸葛亮の皮肉
諸葛亮は「戦術を立てるのは、私より劉巴さんが上手です。だが戦闘となれば、私もそれなりに役立ちますよ。陣太鼓を乱打して、士気を高めるんのです」 と言ったらしい。
陳寿評の「諸葛亮は臨機応変の作戦は苦手だった」を裏付けそうで興味深いが、今回の本題じゃない。また、陣頭で兵士を鼓舞する諸葛亮を見てみたいが、これも本題じゃない笑

表面的には「私(諸葛亮)は馬鹿で突っ走ることしか出来ないが、劉巴さんは頭脳派です」と褒めてる。しかし、そんな賞賛、劉巴は欲しくなかろうに。
劉巴が戦を仕切った記録はない。軍人を見下してる劉巴が、指揮を取りたいとは思わないだろう。彼の興味は、戦のコツじゃなくて、劉氏のあるべき天下なんだ。
諸葛亮は言外に「戦術では劉巴さんに遅れを取りますが、戦略を描くのは、私の方が優れていますよ」と言っているのかも知れない。諸葛亮の描く「漢の復興を名目とした、劉備による天下統一」と、劉巴の描く「折り目正しき劉氏の誰かによる、漢の復興」では、相容れないね。

■死の真実
劉備が性急に帝位を望むので、劉巴は諌めた。「焦っても、天下に気量の狭さを暴露するだけです」と。一緒に諌めた雍茂は殺害され、劉巴は翌年に死去。殺されたか?
劉巴万歳の『零陵先賢伝』では、「こんなだから漢の復興を望む全国の人たちの心は、劉備から離れた」と締めくくるが、少し史料批判(記述を水で薄めること)が必要かもね。

「不滅の劉氏による漢」という神話は、形を変えながら、色濃く人々の心に留まり、生き方を惑わせたのだねえ。080712
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