■達成と引退
劉協を拾って、程昱は尚書になった。
しかし兗州が安定しないので、済陰太守、都督兗州事とした。
程昱は劉備殺害を求めたが、曹操はミスった。
袁紹が黎陽にいて、渡河の動きを見せた。程昱は甄城を700で守っていた。曹操が2000を増援しようとすると、程昱は断った。
「袁紹は10万。ここの兵が少なければ、無視するでしょう。もし2700にしてしまえば、袁紹は通過のついでに、甄城を攻めます。兵士と軍稜の無駄です」と。
袁紹は、狙いどおりに甄城を無視した。
曹操は賈詡に「程昱の心胆はすごいな」といった。本当にそのとおりで、もし袁紹が攻めてきたら、抵抗らしい抵抗をすることも出来ず、殺されていただろう。官渡決戦を前にして、少しでもロスを省き、曹操を勝たせたかったんですね。
官渡の後、山や沼で精鋭数千を手に入れた。おそらく、敗残の袁紹の残党を仕入れたんだろう。その兵を使って、黎陽で袁譚・袁尚を破った。
正史には特に書いてないけれど、「十面埋伏」をやるなら、ここだ。
袁紹を片付けたことで、やっと夢で奉げ持った曹操が、兗州を安定的に治めてくれることが確定した。程昱の狙いは、とりあえず果たされたことになる。もう60歳だしね。
赤壁を前にして「孫権は劉備を殺さずに、こちらに対抗させるだろう」と予言し、的中させた。曹操が敗れて帰ってくると、「充足を知る者は、恥辱を受けない。もう引退すべきだ」と言って、去っていった。
■曹丕との揉め事
引注『魏書』によると、潼関ノ役のときはまだ現役だったことが伺える。これが211年だから、引退はその直後ぐらいかな。陳寿が簡潔すぎて、よく分からない。
曹操が馬超を攻めた。
曹丕が留守を守っていると、河間で田銀・蘇伯が叛乱した。賈信が平定して、千余人を降伏させた。
意見を陳べる人は、曹操のこれまでの方法に則って「殺せ」と言った。史書はボカして書いてあるが、どうやら殺せという論者とは、曹丕を指しているようだ。程昱は(曹丕に)反対した。
「降伏者を死刑にするのは、騒乱で周囲が敵だらけのときの処方だ。天下に我が軍の威光を示し、抵抗するメリットがないことを悟らせるためだった。賊は自ら降伏してくるから、包囲の手間も省けた」
さらに続けて、
「だが今は、天下はほぼ平定され、田銀・蘇伯は、領内の弱い賊だ。ほっておいても、降伏してきただろう。彼らを処刑しても、威嚇の効果はない。まずは、西征に行ってるご主君に、処置を質問すべきだ」
程昱は、兗州が保てるかどうかという、生死の境界をさまよってきた人物だ。それゆえに、勢力の成長、外交の質の変化を重んじている。
曹操に対して、「もう我らは、武力だけで走り回る集団ではありませんね」と、誇らしく確認したかったんだろう。
■程昱のブチ切れ
しかし人々(曹丕)は、程昱と意見が違う。
「軍事では専断がOKとされる。いまは有事なんだから、いちいち曹丞相(父親)に判断を仰ぐ必要はない」と反対した。
売り言葉に買い言葉。曹丕が単に、程昱に反論するための理屈を組み立てたのだろう。最初は、逆らう者に対する寛容を持ち合わせていなかったから、殺せと言っただけなんだ。
『魏書』には程昱が返答しなかったと書いてあるが、きっと席でも蹴飛ばして、立ち去ってしまったのだろう。程昱は郡臣と威儀を競うことが多かったらしいので。
曹丕が「言い残しはないのか」と奥まで追いかけると、
「専断とは、呼吸をする余裕もない、緊急時にのみ揺るされる。いま賊は、賈信将軍の手の中にある。急にどうこうということはない。だから、私は勝手に処断をしていいとは思わない」と程昱は答えた。
戻ってきた曹操は程昱と同じ判断をして、田銀・蘇伯を殺さなかった。
曹操は、「程昱は、軍略に明るいだけじゃなく、他人の父子の間までうまく裁いてくれる」と言った。
単に程昱の顔を立てただけなのかも知れないが、乱世から治世への転換点を、曹丕に教育してくれたことを褒めたのだろう。曹操すら、曹丕の冷酷さには手を焼いていたかも知れないので笑
曹丕の鼻っ柱を叩き折ったことも、喜んだに違いない。
■エピローグ
魏国が建国されたとき、衛尉となったが、中尉の邢貞と言い争って、免職となった。いやあ、もう頑固なジジイでしかないんだろうね。
曹丕は、程昱を公にしようと思っていたが、その矢先に死なれた。曹丕は涙を流して、車騎将軍を追贈した。この涙って、どんなもんなんだ。あんまり、真心から出たものだとは思えないのは、先段の対立から明白なんだが笑
曹操を袁紹から自立させたキーマンだと確認できれば、もう充分かな。
『蒼天航路』の曹操は、決して挫けたりしないから、濮陽後の程昱の励ましが抹消された。あげく「大した功を立てていない」なんて程昱にボヤかせていた。
なぜ程昱が功を立てるチャンスを奪われたか、ちゃんと分かっていて書いてるなら、自己作品へのすごい批判と皮肉だ。よく出来ているなあ笑
孫の程暁(字は季明)は文書をいっぱい書いた。
しかし裴松之が引いた『程暁別伝』が編まれたとき、すでに10分の1も残っていなかったそうだ。校事(監察官)が気ままに振る舞っているので、それを諌めた文章だけが引用されて残っている。080120