■韋曜の投獄
孫皓が宴会を開くと、全員に7升以上、必ず飲ませた。
飲めない人は、わざとこぼして(胸に浴びて)飲み干した振りをした。服が臭くなっただろうが、罰せられるよりはマシだった笑
重臣が酔うと、孫皓は、側仕え(宦官かも)に重臣を論難させた。重臣たちは酔って、難しい議論ができない。孫皓は彼らをからかったり侮ったりした。失敗したり、間違って「皓(ひろい・しろい)」を口にした人がいたら、縛り上げて誅殺した。※皇帝の名を口にするのは不敬罪。
韋曜は2升しか飲めず、孫皓もそれを許していた。孫和に仕えていた人物、ということで、韋曜を大切に思っていたのかも知れない。
しかし韋曜の「裏切り」で孫皓の寵愛が衰え、同じように7升を強いられるようになった。韋曜は飲めずに、いつも罰を受けた。おそらく「酒は、国家への貢献を妨げるものだ」なんて思って、ときにそれを正面から言ったんだろうね。
孫皓が「韋曜、ひとつ重臣たちを論破してくれないか」と言っても、韋曜は経書の議論をするだけで、リアルな政治の議論を避けた。
孫皓「オレの命令を聞かんのか、韋曜。真心がないのだな」
韋曜「こんな会は、辞めるべきだ」
孫皓「何だとっ」
韋曜「他人を傷つけ、内心の怨みを助長するものだ」
孫皓「韋曜を捕えよ。獄に放り込め!」
■獄中のあがき
韋曜は獄中から、上言した。歴史家というか、文筆家としての、ものすごい執念と情熱を感じさせる内容です。
陳寿は「書物を献上した手柄で、赦されることを韋曜は狙った」と書いてある。そう言われてしまうと、けっこうイメージが崩れて残念なんだけど笑、そうだったのかもね。
放免になったら、また編纂作業ができるんだもん。
韋曜曰く、
私は、世間に伝わる『古暦注』がデタラメなのを残念に思い、独自に研究して『洞紀』を著しました。しかし、北京原人から秦漢まで書いたのに、三国鼎立以後が未完です。あと1冊で完成するはずでした。
また、劉熙『釈名』にも誤りが多いので、『官職訓』と『弁釈名』をまとめて、献上するつもりでした。こちらはもう、脱稿まで進んでいます。
秘府(国の文書係)を遣って、私の家を捜させて下さい。
孫皓曰く、
韋曜が言っていた3タイトルが、オレの手元に届いた。
なんだ、あれは!
どれも汚い。古くて汚れているではないか。あんな紙くずを皇帝に見せるとは、どういう根性をしているのだ。さらに罪は重くなったと知れ。
韋曜曰く、
私は完成させてから上表文を付けて、提出しようと考えておりました。しかし、誤りがないか心配になって見直している内に、気づかず汚してしまいました。申し訳ございません。五百たび叩頭して、お許しを願います。
■華覈の弁護
一歩も譲らない儒者だけど、けっこうお茶目な韋曜。
孫皓が敬う華覈が、仲裁に入ります。
華覈曰く、
陛下が父君(孫和)の本紀を立てるよう、お命じになられたとき。韋曜は史官としての役目に拘泥して、聖なる意図を理解せず、至上の行為の顕彰を妨げました。あまりに愚昧で、死に値する罪です。
しかし、陛下が天下統一をされたら、韋曜のような古代の文化に精通したものに、儀礼のルールを決めさせねばなりません。伝統を踏まえつつ、適切にアレンジするのは、とても難しいのです。
国家プロジェクトである『呉書』は、まだ叙や賛がありません。ここで、韋曜の優れた才能を殺してしまうのは、王朝の損失です。
※末期なのに、まだ天下統一を前提に喋ってるのが面白い。狂言か?
孫皓曰く、
華覈が言うことも分かるが、とにかく韋曜は死刑だ!
生かしておいても、父の本紀を立てるとは言うまい。国家に無益だ。
■エピローグ
処刑されたとき、韋曜は70歳。
ほっといても長く生きられないし、生きていても編纂事業の堪える頭脳をキープできる年数は、もっと短いだろう。孫皓は、敢えて処断しないと、よほど気がすまなかったようだ。
韋曜の家族は零陵に強制移住させられた。
『呉書』は、「目鼻が付いたものの、まだまだ」という状態で、頓挫したままとなった。のちに陳寿が換骨奪胎し、理不尽なぐらいに勇気を振るって省略しまくり、『三国志』になるのです。
けっこうスポイルされたんじゃないかと、後世のファンの1人として、ぼくは韋曜のために嘆きます。おしまい。