■三国志キャラ伝>君主が重宝する、怒りの太守。賈逵伝(3)
■曹休、石亭の敗戦 豫州は孫権と境界を接した。 賈逵は「賈侯渠」の普請なんかしちゃって、民政に努めた。 「長江まで、直通の道を作るべきです。そうすれば、孫権は自ら守りに出るしかなく、東西の守りが薄くなります。いま孫権がいる、東関を奪えます」と進言し、曹叡は喜んだ。   228年、賈逵が55歳のとき、孫権の東関を攻めるよう命じられた。賈逵の下には、満寵・胡質が付けられた。並行して、曹休は皖から、司馬懿は江陵から進発した。 曹休「周魴という孫権の部将が、降伏してきました」 曹叡「投降してきたか。よくやった。じゃあ、司馬懿はストップだ。賈逵は東に移り、曹休と合流せよ」 曹休「諒解した。よし、一気に攻めて、孫権を殺してやろうか」 賈逵「お待ちなさい。曹休さん、それは罠だ」   曹休「え?退路を絶たれただと?もうダメだ。援軍を待とう」 賈逵「曹休さんは敗れ、洛陽に帰る道もない。敵の不意を突いて、状況を打開しよう。倍速で進み、曹休さんを救え。旗指物と陣太鼓は8割増だ」   曹休はかつて「賈逵はダメっすよ。あいつに、節を与えるなんてダメっすよ」と曹丕に言ったことがあった。そのせいで賈逵は軍事裁量権をもらい損ねたことがあった。 しかし今回の戦では、賈逵の救いなしでは、曹休は助からなかったと陳寿は結論づけている。   ■賈逵の意地 『魏略』が、石亭の戦後処理を伝える。 曹休「賈逵の野郎が来るのが遅かったせいで、オレは負けたんです。賈逵は、せいぜい捨ててきた武器を拾いに行くがいいさ」 賈逵「国家のために、オレは豫州刺史をやっているのだ。捨ててきた武器を拾うために、刺史を務めているのではない」 曹休「賈逵め、生意気を言うな。陛下、賈逵を裁いてくれ」 曹叡「どうなのだ、賈逵」 賈逵「(無言)」 曹叡「わかった。賈逵は(采配が適切だったから)不問だ。また、曹休も(皇族として重責を担っているから)不問だ」   賈逵は、曹休を怒鳴りつつ、自分を絶対視して見せた。自分への絶対視と、刺史としての自覚が癒着しているから、(性格はともかくとして)君主受けはいいんでしょうね。 曹休は辛く当たったが、賈逵は無言だった。これをして人々は「賈逵さんは立派だ」と言ったそうだが、これは誤解かも。あまりに怒りが昂ぶりすぎて、言葉にならなかったんだ。コブの中に怒りが流入して、ぐらぐらと沸騰をしていたんだ。   この後すぐ、曹休は背中に腫瘍ができて、死んじゃう。曹仁と同じパタンです。長江周辺には、ストレスを抱えた曹氏に感染しやすい、新種のウイルスでもいるんだろうか笑
  ■みじめな怒死。 賈逵は曹休が負けたのと同じ年、危篤になった。 「孫権を斬って、地下で曹操様・曹丕様にお目通りできないのが残念だ」 これだけ聞くと、どれだけ忠義に厚い人なのか、と感心するね。でも、豫州刺史である自分の職務を阻み、思いどおりに処分できなかった孫権への怒りが、賈逵にこんなことを言わせたんだ。   「もしオレが死んだら、祭るために何かを建てることは許さん」 またまた、これだけ聞くと、倹約して民に貢献した人物のようだ。だが、自分の手が及ばない死後の処遇について、云々されるのが腹立たしかっただけなんだ笑   これ以降の死に様は、ぼくが適当に作りました笑 子の賈充が、賈逵の寝台に取り付いた。 「質素な葬儀を望むなどと、そんな惨めは仰らないで下さい。ご遠慮は無用です。父上の死後は、石に名を刻み、祠を建てて、国家への誠を後世に伝えていこうと思います」なんて言った。 賈逵はきっと、高血圧なんだ。「逆らうか、このバカ息子」と手を上げようとした瞬間、ドモって言葉にならず、怒りが内に籠もった。賈逵のコブが、ひときわ膨らみ、一気に弾けて死んだ。   賈充たちは、亡き父のため、生前の豫州刺史としての駐屯地、項(地名)に祠を建てた。   ■祠の呪い 251年、王淩の叛乱。王淩は敗れて、賈逵の祠に祈った。 「司馬懿は、魏国を乗っ取るつもりです。社稷に厚く仕えた賈逵殿ならば、よくご存知のはずです。司馬懿に鉄槌を」と言って、道中で服毒自殺した。 司馬懿はその年内に、賈逵に殴られる夢を見て、死んだ。   257年、曹髦は諸葛誕の叛乱のとき親征して、賈逵の祠に参った。怖いもんだから「よく祠を清掃し、雨漏りをするようなら、修繕せよ」と命じた。こうして賈逵の祠を貴んだ曹髦さんは、賈逵の子の賈充に殺された。   死してなお、不服があれば怒り散らす賈逵。まるで平将門です。 いまの中国には、賈逵の祠は残っているのかなあ。祟りそうで、すごく怖いです。「賈逵伝」なんて書くんじゃなかったかなあ。おしまい。
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