■三国志キャラ伝>病欠で冴えわたる頭脳。郭淮伝(2)
■2回目の病欠 220年、曹丕が即位し、郭淮は関内侯。 ※郭淮が守った漢中は、曹操が放棄しちゃってる。 鎮西長吏と、征羌護軍を兼務した。張郃と楊秋を監督して、関内の叛乱分子を征圧。この楊秋って、関中十部の楊秋だろうか?うーん。。 「関内侯」になっても、いまいち旧秦の領域と関係が薄い人も多いけど、郭淮は名実を一致させてくれました。   曹丕即位を嘉して、郭淮は洛陽へ使者に立った。 道中で病気になり、祝賀ノ宴の乾杯に間に合わず! 陳寿の「郭淮伝」のちくま訳を見てると、イヤらしい。「途上で病気にかかったため、〔都までの〕距離を計算して滞留した」とある。何のための計算なんだ。そりゃ、頭の中で小石がバチバチッと弾ける人です笑。整備された街道を、平服で進む日数なんて、簡単に暗算できたでしょう。 「病気だから、少しでも休みたい。でも遅刻は許されない。だから、ギリギリに到着すればいいと判断して、休み休み行った」ということかな。   まあ、お誕生日会への出席とかなら、郭淮のノリでも充分です。 でも違うんだ。400年続いた漢王朝が傾き、30年に渡って曹操が転戦して補佐し、やっと次代で禅譲を受けることが出来た(簒奪に成功した)歴史的なイベントなんだ。 即位の祝賀へは、もう死んでもいいから、駆けられるだけ駆けるのが、正しい臣の判断でしょう。曹丕の同母弟の曹熊なんて、お祝いに遅れたという因縁を付けられて、死を賜ってる。   郭淮を鈍らせたのは「第六感が、ダルいと言ってる。曹丕、どうせ殺気立ってるし」だ。血生臭い正念場は、どうも郭淮的には、いまいち好きじゃないんだよね。 北方謙三『三国志』では、郭淮は「ビビらせておかないとサボる」人物として描かれている。「脅せば、とてもいい仕事をする」んだそうで。どこに根拠を置いて書かれた記述かは知りませんが、当たらず遠からずですね。   ■生命を賭けた言い訳 郭淮の特徴として、仮病が発動した翌日は、やたら冴え渡るらしい。夏侯淵の死の翌日は、勝ちに乗じる劉備を止めた。今回は、曹丕への遅刻の弁明に、その才が発揮されます。 曹丕「郭淮じゃねえか」 郭淮「ゴホゴホ」 曹丕「かつて、禹が諸侯を集めたとき、防風氏が遅刻した。禹は、防風氏を死刑にした。いまキミは、遅れてしまった。死んでも文句は言えんな。どうだ」 ただ難詰すればいいものを、いちいち故事を持ち出すところが、大変にイヤミですね。だから郭淮は、曹丕が苦手なんだよ。 郭淮「天下万民に徳義が行き渡っているとき、刑罰なんて行われません。政治が衰えたとき、刑罰は行われるものです」 曹丕「かもな」 郭淮「いいですか。陛下が治めておられるこの国は、堯や舜のときのように、恩徳に満ちたベストな状態です。ですから、刑罰なんてあるわけがない。私は、処刑を免れると承知しておりました」 曹丕「うぐぅ。よく分かった。キミに雍州刺史を代行させよう」   すごいね。 ちなみに「堯」と「舜」は人名です。絵に描いたような、というか、字に書いてある理想的君主です。曹丕が持ち出した「禹」の先代ですね。 郭淮の答弁は、曹丕の政治を褒めているんだが、それだけじゃない。私を処刑してしまえば、陛下の治世がショボいと暴露するようなものですよ。いいんですか?と、諸侯の前で脅したに等しいんだ。ドSの曹丕としては、一本取られて悔しかったんだろうけど、あまりに上手な切り返しに、反論がすぐに浮かばなかったんだろう。   この機転は、漢中のとき同様に不自然でしょ笑 前日まで、輿車での旅程にも耐えられないほどに、衰弱していた男がですよ、なんでこんなに堂々と皇帝に逆らっているんだ。ゴメンの一言も発さずに、追及をまんまと逃れることが出来たんだ。
  ■郭淮の性格 五年を経て、郭淮は正式に雍州刺史に就いた。   その後は、陳寿に嗅ぎ当てられるような病欠はない。でもおそらく、たびたび仮病を発動し、その翌日に冴え渡っていたのでしょう。 きっと郭淮は、かなり頭脳明晰なんだが、微妙に肝っ玉が据わってないから、決断に時間がかかってしまうんだ。   後年の戦ぶりから分かるが、情報分析に得手で、相手の心理を読むことにも長けている。「あらゆる状況を想定できる」というと長所に聞こえるが、「余計なことまで、いろいろ考え込んでしまう」というと短所っぽくなる。 考えすぎて、考えすぎて、ときどき憂鬱になってしまう。憂鬱になって、足が止まってしまう。そんな人だったんじゃないかなあ。 司令官としては、とても繊細にできた人だ。ただし、実力は本物だった。   ■姜維のウソつき 三十余年、255年に死ぬまで、郭淮は羌族にアメとムチの政策で挑み、対蜀戦ではほとんど勝った。 『演義』では、蜀ファンの鬱憤を晴らすために、姜維に矢を射返されて死んだことにされる。これは逆に、蜀の北伐にとって郭淮が、決して乗り越えられない峻険だった、憎らしいほどに強かった、という証明になるでしょう。   車騎将軍、儀同三司、陽曲侯。大将軍を追贈され、貞侯。 北方から曹丕に召されて上京し、ビビりまくっていた青年は、いつのまにか魏の大功臣になりました。輝かしい戦果をまるまる省略してしまったから、スゴさがこのサイトだけでは伝わりませんが笑   おしまいです。
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