■三国志キャラ伝>司馬師の11の罪。毌丘倹伝(4)
■淮南の願い 司馬師は各軍には城壁を守らせ、専守防衛させた。   毌丘倹と文欽の作戦は、さっそく行き詰った。 司馬師が多方面軍を展開してくれたものだから、身動きが取れない。項城から前進したら、淮水を隔てた寿春が落とされる。項城を守っていても仕方がない。進退窮まった。 「ああ、司馬師が攻めてきてくれたら、討ち取ってやるのになあ」なんて星を見ながら話してたのかなあ笑 っていうか、こうなることくらい、事前に分かっとけよ。   淮南の兵たちは北方出身。故郷が恋しくて離反、離反、離反。 ただし、ついさっき味方に付いたばかりの淮南出身の兵たちは、毌丘倹たちにあくまで従った。   淮南というと『蒼天航路』を思い出すんだよね。 袁術が搾取しまくり、そこに曹操の徐州虐殺から逃れた人民が乱入し、魏と呉の前線として常に危険に晒されて。曹操に舌打ちをした(という描かれ方をした)お土地柄です。   そんな荒廃した土地を王淩が長期的な視野で治めてくれて、住民はちょっと安心してた。でも王淩は戦いもせずに負けてしまった。いま毌丘倹が洛陽と戦っているんだが、彼に勝たせて安穏を手に入れるんだ!というのが淮南の人々の望みだったかも。 この魏に対する淮南の民の潜在的な不満が、淮南の三叛を可能にしたんじゃないか。洛陽に反感を持つ将たちに、拠って立つ基盤を与えたんじゃないか。がんばれ、ぼくらの毌丘倹!   ■水辺の草の中で 司馬師は、鄧艾を遣って(従軍してたのか鄧艾!)文欽を破った。 文欽と鄧艾の戦いは、文欽の伝を立てるときに詳しく見ることにします。   文欽が逃走したと聞いた毌丘倹は、夜逃げした。軍勢は崩れた。 慎県に達したときには側近も毌丘倹を見限り、人数が減っていった。典型的な落ち武者だよ。高句麗を征圧したのと同じ将とは思えないよ。毌丘倹は小弟の毌丘秀と孫の毌丘重だけを連れて、水辺の草に身を潜めた。   毌丘倹は安風津都尉の配下の民・張属に射殺された。   っていうか、張属がもしこのとき矢を放たなければ、彼の名前は200%残らなかったよね。安風津都尉でも名前が分からないのにさ、その下の兵でも名前が分からないのにさ、民だよ。真・三國無双で、HPのゲージがあるかないか分からない奴らだよ。 毌丘倹の最期は、民に名を成さしめました。 って、こんなオチはいらん! そうそう、司馬師の最期ね。毌丘倹の死後たった7日で目の上の瘤が破裂して(毌丘倹が望んだとおりに)司馬昭に後事を託して死にましたとさ。
  ■毌丘氏のその後 毌丘倹の子の毌丘甸は、洛陽で治書侍御史。おそらく毌丘重の父。 曹芳が廃されたときに「父上、司馬師をあんたが討たないでどうしますか」と急きたてた人物。毌丘倹の挙兵前夜に一族を連れて洛陽を脱出、新安霊山の山頂に逃亡した。楽しげな山だよね。きっと峻厳な山なんだ。 司馬師の別軍はこれを攻撃し、毌丘倹の三族は皆殺しにされた。   ただし、挙兵に際して呉に派遣された毌丘宗(おそらく毌丘甸の弟)、毌丘倹の最期を看取ってから呉に逃げ込んだ毌丘秀・毌丘重は、晋代に中原に帰ってきた。 毌丘宗は零陵太守、毌丘宗の子の毌丘奥は巴東監軍・益州刺史。すげ! っていうか、馴染みがない一族のくせに、珍しい漢字を名づけて、ぼくらを惑わせるんじゃないよ!憎むべし。   ■次回更新予告 司馬氏は順調に淮南の叛乱を治めているけど、直後に死んじゃうんだよね。次回のラストオブ三叛は、諸葛誕VS司馬昭なんだが、ちゃんと鎮圧直後に司馬昭は死ぬかな?お楽しみに。※死にませんが、続きます。
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