■鍾会からのラブレター
263年、姜維は上表した。鍾会が、関中で蜀を攻める準備をしてますよ、と。黄皓は鬼神や巫の言葉を信じて「魏の侵攻はあり得ない」と結論した。ゆえに、群臣は魏の侵攻を知らなかった。そう「姜維伝」は言う。
これが、蜀の滅亡の直接の原因になる。何が問題か。黄皓が姜維の上表を握りつぶしたことではない。姜維はもう、家出した少年なんだ。彼が何を言ってこようが、劉禅に伝える義務はない。魏の息がかかった虚報という可能性もある。
責められるとしたら、成都の情報に対する疎さだ。姜維からではなく、独自に鍾会侵攻を知るだけのルートを確保していなければならなかった。黄皓が何をどうしようが、そんなものに影響を受けない諜報機関が必要だった。
※成都の重臣は降伏を願っていた人も多いから、知ってても敢えて無策だった可能性はある。
鍾会と鄧艾が侵入を開始して初めて、防衛を固め始めた。ゴッテ後手!廖化が姜維の援軍として、加わった。姜維は鄧艾に破れ、陰平に退いた。張翼・董厥らと合流し、さらに退いて剣閣に籠もった。攻め手は鍾会。鍾会から姜維に手紙が届いた。
「姜維さん、ものは相談です。あなたは文武に優れ、蜀での功績はすごい。名声は魏にも届いてる。人々はあなたを心を寄せているよ。所属勢力を異にしても、友情というものは成り立つんじゃないか」
男女の間に友情は成り立つのか、という議論ではないが、似た危険さを感じる。こういう議論が出てくるということは、2人は一線を越えようとしている笑 少なくとも鍾会は誘っている。
鍾会は、春秋時代に国境を越えて友情を育んだ故事を持ち出した。誰々のとこもやってるんだよ、私たちもいいでしょう、という論法です。
姜維は返書を出さず、守りを堅くした。それってOKってことか。恋愛に置き換えたら、どっちになるんだ笑
■石割りの願掛け
鄧艾は西の脇をすり抜けて、諸葛瞻を撃破。諸葛瞻は諸葛亮の息子です。姜維は彼の危機にも、違うところで戦っていた。師弟愛を疑いたくなるが、これは戦術的には不可抗力。戦略的には、疑問が残るけどね笑 劉禅は鄧艾に降伏してしまった。
「姜維伝」にある。将兵は怒りの余り、剣を抜いて石を叩き割った。名場面です。劉備が孫権と遊んでいて、石を叩き割ったエピソードともリンクしてるんかな。※これは『演義』だったか。
劉備がやった「オレが天下を取れるなら、石よ割れろ」という願掛け。成都陥落の情報を受け取って、姜維が石を割ったなら、何を考えていたんだろう。「ああご主君!」じゃなかろう。「劉備と同じ願掛けをしてやろうじゃねえか!これが割れたらオレの天下だ」じゃないか。
姜維は劉備を功名の先輩として見てたと思う。石が割れたから、少なくとも蜀での独立は保障された!みたいな。穿った見方をし過ぎかなあ。
劉禅の勅令を受けて、姜維は武装解除。鍾会のもとに出頭した。
『晋紀』にいう。鍾会が姜維に言った。「どうして来るのが遅かったのだ」。姜維はきりっとした表情で涙を流し「今日ここでお会いしたのは、早すぎると思っています」と返答した。鍾会は彼を非常に立派だと思った。
※もっとじらすつもりだったんだけど、という意味か笑
ここで、大義名分がまるで重ならない二人の「功名心」が共鳴していく。鍾会の任務は、司馬昭に功績を立てさせるための蜀討伐軍の指揮官。姜維は蜀を守るための将軍。だが、狙いは同じ。
劉備になること。すなわち益州の地の利に拠って独立をすること。
■鍾会と姜維の共闘?
「姜維伝」曰く、鍾会は姜維を手厚く持て成した。印璽・旗・車蓋をみな返却。外出するときは同じ車、座るときは同じ敷物。これって、曹操と劉備に自分達を投影してないか?オママゴトだ。
鍾会「姜維くんは、劉備の役ね。徐州を呂布に追われて降伏したとこ」
姜維「えー!カッコ悪いよ。やだ」
鍾会「だってリアルに、キミは降伏者だろ。逆らうなら印璽を返せよ」
姜維「分かったよ、やるよ…」鍾会くん、ジョークが通じない(>o<)
鍾会「天下広しと言えども、英雄は二人だけ。誰だか分かるか、劉備」
姜維「そ、曹操殿。ぼく、わかんない。袁紹(司馬昭)殿か」
鍾会「あんなのは、クズだ」
姜維「じゃあ呉の孫策(孫休)か」
鍾会「あれもゴミ」
姜維「えー!もう思いつかないよ」
鍾会「キミとボクだ。はーっはっはっはっは」雷鳴カットイン!
姜維「ひええ」※この寸劇はぼくの妄想
鍾会は長史の杜預に言った。「姜維は、諸葛誕や夏侯玄よりすごい」と。
姜維に匹敵する者は魏にもいないよ、すごいんだよ、と単純に読んではいけない。姜維は司馬昭を倒す戦力になる、という意味だ。諸葛誕も夏侯玄も、司馬氏に反抗した人物だ。どちらもミスに終わったが。
魏と言っても、実質は司馬氏の独壇場。鍾会はそれに甘んじる気はなかった。詳しく検討しないと分からないが、鍾会も野心家だ。
諸葛誕・夏侯玄に勝る姜維を手に入れた(と自己暗示をかけた)鍾会は、ついに司馬昭に反旗を翻す。鄧艾に罪を与えて送り返した。鍾会は益州牧を自称し、姜維に兵士五万を与えて先鋒を任せた。姜維に北伐させるのは、ちょっと…とツッコミたくなる。しかしその間もなかった。鍾会が連れてきた魏兵が従わず、二人は殺された。「姜維伝」はこれで終わり。あっけない!
■姜維の最期の評価
この反乱には諸説ある。姜維の役回りや動機について、定説を見ない。
『漢晋春秋』にいう。姜維は鍾会の本心を見抜いた。騒乱状態を作り出して、蜀復興の道を開こうと思った。そこで鍾会を炊き付けた。親密になった二人は決起した!というシナリオ。
『華陽国志』にいう。姜維は鍾会をそそのかし、同士討ちさせようとした。魏将を一掃した後に、蜀を復興させようとした。劉禅に密書を送ったとある。「光を失った日月を再び明るくしてみせます」と。美しい例えだ。
『晋陽秋』は姜維を愚かだと言う。成都陥落を許し、魏に帰順し、鍾会の反乱に加担し、鍾会の厚情を裏切ることを考えた。行動に一貫性がない。滅亡した国の微弱な国力で、運任せの成功を目指した。ダメじゃん、と。
これは姜維が「殺っちゃった」費禕の批判と同じだよね。費禕の死後も、姜維は同じ過ちを繰り返したことになる。
ぼくは『晋陽秋』に反対である。
姜維の行動原理は、その場限りの功名のために命を投げ出す「死士」の性分だと言ってきた。だから、場当たり的な行動は、非難することじゃないと思う。彼にとってどの作戦も「死に場所」のつもりだから、後先はないのです。長期的な戦略を期待することが、お門違いなんじゃないか。
28歳で諸葛亮に見出されて、死んだとき63歳。意外と長く奔り続けた人でした。言いようによっては、なかなか死ねなかった。
この反乱の実態は、鍾会の人生を追ってから決めようと思う。二人が人生を持ち寄って、この反乱になったんだから。ただ姜維としては、功績を立てるチャンスだと思って動いただけだろう。
もし成功したら、劉禅を迎えることはせず、鍾会をぶっ殺して、自分で割拠するつもりだったんだと思う。劉禅のため、蜀漢のため、と連呼してるのは、計画遂行のための方便でしょう。
劉備は、死んでもいない献帝を「殺し」て、自らが皇帝になった。漢室復興を志しているなら、矛盾した行動である。しかし(姜維目線では)劉備はあの時点で充分な功名を立てていたので、支持を勝ち取った。姜維が蜀獲りに成功したなら、きっと同じことをしただろう。生きている劉禅を「殺し」てでも、益州牧や皇帝を宣言したはずだ。
■エピローグ
『世語』にいう。姜維は死んだときに腹を裂かれたが、その肝は一升ますほどの大きさがあった。
キャラ伝を書く前に、一度は「姜維伝」を通読するわけです。この記述を読んでから、もう頭の中はこのことでいっぱい。赤黒いタプンタプンした肝臓が離れないのよ。
『真・三國無双』のイケ面のお兄ちゃんのイメージがあったのに、一瞬で破綻ですよ。
特大のレバサシがさ、タプンタプンとぼくを待っているような気がして、気持ち悪くなってきた。歯ごたえを想像したりね。
姜維は、常人離れした度胸がある人物だった。それを誇張するための逸話なのは分かるよ。分かるけどさ?ねえ!ねえ?…おええ。