■三国志キャラ伝>王朗伝
■王朗から始める理由 このサイトで、記念すべきキャラ伝の1人目は王朗。 彼を選んだのは、ぼく(サイト制作者)と名前が似ているから。それだけの理由。王朗の名前を見ていると、他人な気がしなくて。 誰だそれ?という人が多いのかも知れない。魏の司徒。司徒だから偉いじゃん!と叫んでも、無意味かも。三国志を通読すれば、三公クラスは道ばたの石だから笑 司馬炎の母の祖父と言えば、ちょっとはメジャーにリンクするかな。
  ■王朗のワンポイント中国語 面白い会話を正史『三国志』の注『魏略』で見つけたので拾ってきました。曹操にこんなことを言っちゃう人物。彼の人間性が出ているんだろうな。 王朗「宜適難値!」yi2 shi4 nan2 zhi2(イィシィナンチィ) 曹操「言何?」yan2 he2(イエンフゥ?)   王朗「ほどよく振る舞うことって難しいですね」 曹操「何だって?」 NHKの中国語会話のスキット(ミニドラマ)に採用されないかなあ。曹操と王朗はオッサンの俳優がやる。王朗はマイペースで。言われた曹操は、青筋を立て気味に聞き返す。そんな感じ。   一連の流れは、こう。曹操は王朗をからかった。「君は会稽を治めていた頃、米を節約してたそうじゃないか。オレには真似が出来ないよ」。王朗はため息をついて上のセリフを吐く。 なんとなれば「私は会稽で、節約すべきでないのに節約をしてました。今の曹操さまは節約すべきなのに、節約していない。適切にやるのって難しいですね」ということだそうです。過去の自分の地方政治を馬鹿にした曹操に、やり返してやったという趣向かな。覇王曹操の態度をたしなめてるよ! ただし1500年くらい前の書き言葉だから、この言葉を旅行で使っても通じないかも。っていうか、王朗と同じことを中国人に言ったら、不必要に相手を怒らせるだろうな笑
  ■王朗のルーツは王厳 同じく『魏略』に言う。王朗はもとの名は「厳」だった。 王朗は高い才能と広い学識を持っていたが、性格は厳格で慷慨家だった。礼儀正しく、謙虚で慎ましかった。婚姻したときに、親類からの贈り物を断った。恵み深いという評判があるくせに、貧窮者を憐れまない世間の連中を非難していた。彼自身は、差し迫った者を積極的に救った。 ※慷慨は、悲憤慷慨と言えばピンとくるように、怒って嘆くことらしい。世の中のダメな奴らに対して、きっと怒りを募らせていたのでしょう。   名は体を表す。三国時代に言霊信仰なんてないと思う。だけどぼくは、名と人となりをリンクさせて考えたい。 李厳ははじめ厳格な男だったけど、ちょっと生きづらさを感じた。不器用だなオレ、と反省した。だから朗(ほが)らかな男を目指したんじゃないか。そういう改名じゃないか。 王朗と同じように「厳」の名を捨てた人物が蜀にいたよね。託孤を諸葛亮とセットで受けた李厳。彼は李平になった。考察はまた後日ですが、彼も波風を立ててた雰囲気はある。呉の陸議は名前を改め、遜(へりくだ)り作戦で関羽を破った。そう、あの陸遜のことである。
  ■みんなが知ってる王朗 『三国演義』でも、日本版の演義・吉川英治『三国志』でも、王朗は派手で見っともない死に様を披露する。歴史書には見えないフィクションだ。しかしぼくが初めに王朗を印象づけられたのは、あの場面だ。軽視できない。 吉川英治に沿って、その場面を読み返してみた。   諸葛亮の第一次北伐。夏侯楙はショボ過ぎて敗戦。代わって曹叡に出陣を要請されたのが、曹真さん。曹真は気が進まない。「だって諸葛亮は(小説では)最強なんだもん」とゴネる。 そんな曹真を励ますは、我らが王朗。「私も一緒にいくから大丈夫ですよ。軍師やります。っていうか、ベロだけで蜀軍を降してみせます」と。あんたはドラゴンボールの桃白白か。 王朗は諸葛亮に言った。「魏は正しくて、蜀は間違ってる。あんたは劉備の偽善に惑わされて、才能を誤用してるよ。劉禅への忠節心は立派だけど、魏を攻めちゃダメだ。蜀の国力を正しくない軍事行動に動員するなんて、むしろ蜀のためにならん。いい子だから、やめようよ」   尊敬する吉川氏の見惚れんばかりの言辞をそぎ落として、論旨だけ抜き出すとこうなる。王朗は2つのことを言っている。 1つ目は、魏は正義で蜀が賊であること。2つ目は、諸葛亮が優れていること。ディベートで陥りがちな、個人攻撃をしていない。諸葛亮の悪口を並べて圧倒しよう、なんて幼稚なことはしない。また、諸葛亮の北伐が蜀(益州)の国力を著しく消耗させるという指摘も正しい。孔明も李厳もそれを憂いていたし、後世の歴史家たちも同意見だ。   孔明のターン。孔明が何をしたか。徹底した個人攻撃!笑 まず諸葛亮は、蜀の正義を確認した。吉川氏は「正統論だけでは、魏には魏の主張があり、蜀には蜀の論拠があって、これは水掛け論に終るしかない」と言っている。それはそう。だが、これは必要なプロセス。 続いて孔明がやったのが、王朗の半生批判。 王朗よ。代々漢王朝の恩を受けただろう。あんたも献帝に会稽太守にしてもらったよね。でも献帝を助けず、「賢しげに理論を立てて歪曲の文を作り」、ダラダラしてただけ。曹操に諂って「華殿美食の生を、今日七十六歳の高齢まで保ち来たれる一怪物」じゃねえか。戦場にのさばってないで、いい加減に死ねよ「老賊」め。   「凛々たる終りの一喝は、矢のごとく、論敵の肺腑をつらぬいたかのように思われた」と。つまり「老賊」がトドメの一撃だった。「王朗は、孔明の痛烈なことばに、血激し、気塞がり、愧入るが如く、うつ向いていたと思われたが、そのうちに一声、うーむと呻くと、馬の上からまろぶ落ちて遂に、そのまま、息絶えてしまった」 孔明、オトナゲなさ過ぎ!哀れなり王朗さん!   孔明の顔を立てて説得を試みた王朗。ヒステリックに論理をすり替え、個人攻撃をした孔明。王朗の方が年長とはいえ、孔明だってイイ大人です。それどころか、一国の丞相です。この場面が魏ファンにとって、やるせないのは想像できなくない。でもこれって、蜀ファン的にもどうなん笑?
  ■陶謙の茂才 就職するときに、誰の推薦であったのかは重要な意味を持つ。自分を推挙してくれた人を大切にする。皇帝より大切にする、とも言われている。初めて推挙してくれた人は、その人の政治的立場を決める上で極めて重要。尊敬に値しない人物からの推挙は断るという例も多い。 王朗を最初に挙げたのは楊賜である。大尉の楊賜を師と仰いだ。楊賜は、鶏肋のクイズを解いた楊修の祖父ですね。楊賜が死んだので喪に服して、官を辞した。   王朗が再デビューするのは陶謙の推挙だ。 つづく。