■恐ろしきは仲達なり
虚実を操る司馬懿の恐ろしさが炸裂します。
諸葛亮を困らせた軍師も、これが引退試合。MAXパワーで「叛逆者」王淩をいたぶってくれます。諸葛亮は五丈原で力尽きたけど、司馬懿は王淩の乱が最後の華なんだね。
中軍を率いて水路を東征開始。死すべし!王淩。
王淩殿のご乱心は、これまで功績に免じて見なかったことにします。
ご子息(王広)を説諭に遣わします。まずは悔いて下され。
まるで矛盾した3つの対応が、司馬懿から発信されて、王淩に届いた。
王淩は、軽くパニクって。
「1人で出て行って謝罪すれば、悪いようにはされないだろう」
王淩は腹臣の王彧をやって謝罪させ、印綬と節鉞を返還した。王淩自身は手を後ろで縛り、1人で司馬懿を出迎えた。降伏するときのマナーに則ったんだね。「ごめんなさい。許してくれてありがとう。もうしません」という感じだ。
「もし許してもらえる見込みがなかったら、徹底抗戦をしようとも思った。淮南に扶植してきた私の軍は、自分で言うのもナンですが、強いです。でも、太傅(司馬懿)殿は寛大であらせられるから、私も素直に従順になれました。余計な血を流さずに済みました。ふふん」と。まあこの王淩の心境も、ぼくが勝手に書いたんだけどね笑
捕虜みたいな恰好を自らしているけど、これはポーズですよ。分かってるよね、という余裕が王淩にはあるはずで。
『魏略』が載せた王淩から司馬懿への書簡曰く「つまらん計画を練ってすみません。あれは令孤愚の馬鹿が考えたことです。太傅殿の神軍をお迎えしたくて、つま先だって今か今かとお待ちしてます。私を生き永らえさせてくれるのは、あなた(=司馬懿)です」と。
これを読む限りでは、完全に気を許している。まるでNHKのオンエアバトルのエンディングみたいになってる。
■司馬懿と王淩の接触
司馬懿は主簿を遣って、王淩の縛めを解いてやった。
官服に戻してやった。
司馬懿は王淩を労い、印綬と節鉞を返してやった。
600名の歩兵と騎兵を付けて、洛陽に王淩を移送した。
王淩は途上、毒を飲んで死んだ。
何がどうなったんだ?という展開。陳寿の「王淩伝」だけ読んでも、何だかよく分からないよ。裴松之はこれに、『魏略』の注を付けてくれた。
司馬懿は人を遣って、王淩の縛めを解いてやった。
王淩は恩赦を与えられたので、小舟で司馬懿に会いに行った。
司馬懿は部下に命じて、王淩の舟を離れたところに止めさせた。
王淩は、自分が冷たくされてると気づいた。
遠くで停泊する、司馬懿が乗っている大船に向かって叫んだ。
王淩「卿は手紙で私を許すといったのに、軍隊を率いてくるとは、どういうことか」
司馬懿「あなたは、従順な人間じゃないですから」
王淩「裏切りだ。これは裏切りだ」
司馬懿「私はあんたを裏切っても、国家を裏切ることはしません」
ここで司馬懿は、王淩が曹芳を廃そうとしたことを、なじったんだね。司馬懿の孫が曹氏に禅譲を迫ることは、もちろん司馬懿は知らないのだから、にやっとすることを許されたのは、後世の読者のみ笑
王淩は洛陽に送還されながら、「私は私の罪の重さをよく分かっています。棺に打つ釘を頂けないか」と司馬懿に要求した。
もし釘を与えられなければ「あなたは死ぬ必要はありません」となる。もし釘を押し付けられたら「死ね!老いぼれ!」ということになる。結果は推して知るべし笑
■司馬懿の戦後処理
戦らしい戦はゼロで、王淩を片付けた司馬懿さん。
これで意気揚々と凱旋してしまっては、並の将軍なんです。王淩が地盤としてした淮南を、清掃することを忘れなかった。
淮南の中心地の寿春に南下。令孤愚から曹彪にお遣いをしていた、張式らが自首した。皇帝になりそこねた曹彪が殺され、加担した者は三族皆殺し。これで、淮南は良くも悪くも魏の直轄領になるのかな?それは次回以降のお楽しみなんだが笑
後に朝廷で議論され、『春秋』に基づいて皇帝廃立を画策した罪で、王淩と令孤愚の墓を暴き、棺を叩き割り(せっかく釘を打ったのに勿体ない)死体を市場に3日間晒した。そして印綬・朝服を焼き捨ててから、死体を直接土に埋め込んだ。おっかないねえ。
■三国版、囚人のジレンマ(『魏略』より)
司馬懿は事後処理でも、ねちっこく責めました。
単固は、令孤愚の別駕でした。兼治中従事の楊康も、令孤愚に仕えました。単固と楊康は、令孤愚の腹心として秘密を打ち明けられるような仲でした。
令孤愚が病に臥した後、2人は令孤愚から離脱。
楊康は洛陽に招かれたとき、司馬懿に密告しました。「令孤愚が天子を代えようとしてます。王淩もその気です」と。
司馬懿は寿春に殴りこみをかけたとき、単固に問いました。「キミはこの事件のことを知っていたのかね」と。もしハイと言えば、大逆に加担したことも同じ。単固は「知りません」と言った。司馬懿は波状攻撃で「最近のことは別におこう。では、かつて令孤は謀反したかね」と聞いた。単固は「しません」と言った。司馬懿は楊康から、単固が関わっていることを聞いていたから、彼の一族を逮捕した。
司馬懿はまた、楊康も逮捕した。
司馬懿は単固と楊康に、討論をさせた。陰険!
楊康は単固に「お前は令孤愚の謀反に加担しただろう」と問い詰めた。単固は言葉に詰まった。だって、謀反は本当のことだし、楊康は全てを知り尽くしているわけだから、どうはぐらかしても逃げ切ることが出来ない。
単固は楊康に「老いぼれが。王淩様を裏切った上に、わしの一族も滅ぼすんだなな。お前が生き永らえることが出来るかどうか、冷静になって考えてみろ」と言ったのを最後に死刑判決。
楊康は列侯に取り立ててもらう心積もりで、英雄気取り。でも申し立てには事実との食い違いが発見されて、単固と一緒に斬られることになった。
処刑場で一緒に首を差し出しながら、単固は楊康を罵った。「下種め、お前の死は自分の責任じゃ。もし死人に知覚があるなら、お前はどの面を下げて地下を行くのだ」
その様子を見て、司馬懿がニヤニヤしていたかどうか。それは歴史書には書いてない笑
■蒋済のためいき(『魏氏春秋』より)
蒋済は司馬懿と歓談していた。
司馬懿は蒋済に「王広はどんな人物かな」と聞いた。蒋済は揚々と「王淩は偉人ですが、息子の王広は父以上に素晴らしい」と褒めた。蒋済は、ふと思い返して「ああ、わしのこの言葉は、ひとの一門を滅ぼすことになるな」とため息をついた。
司馬懿こええ!
ちなみに父親を諌めた王広は、四十余歳で死んだ。殺されたのか病没したのか書いてないんだけど、他の兄弟の末路を見る限りでは、おそらく捕えられるなり冷遇されるなりして、寿命を縮めたようです。
■王淩の逆襲
『晋紀』曰く、王淩は死を賜る直前に、賈逵の祠に参りました。賈逵はかつての王淩の先輩で、曹操の時代から魏に使えた仲良しで。
「ああ賈逵殿!淩(わたし)は当然ながら魏に忠誠な男です。願うことは、魏の興隆のみ。かつて供に語りましたね。もしあなたが死して神格を備えたならば、淩のこの気持ちをお分かりになるはずです」涙涙
司馬懿は4月に王淩の乱を治め、8月に死にました。枕頭に王淩と賈逵が立ち、祟りを為す夢を見たそうで。
まあ、そんな逸話を生み出すくらいに、王淩は実力を備えながら司馬懿の餌食になって、その人格と功績を惜しまれたということで。
■おわりに
皇帝を交代させる企みというのは、やっぱり穏便じゃない。勝っていれば正当化の方法はいくらでもあったんだろうけど、失敗してしまっては完全に分が悪いね。
司馬懿が曹芳(現皇帝)を守るために身を挺して活躍した、と言われても何も違和感がないからねー
しかし彼の志(というよりは地政学的な戦略)は、毌丘倹と諸葛誕に継がれます。次回以降で扱う予定です。