三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
呉に益州は獲らせぬ、羅憲伝。(3)
■成都の混乱
永安を堅守する羅憲。鎧を繕い、城壁を修復し、兵糧を集め、節義を説いて激励したところ、兵士はみな命令に従った。
成都では、鍾会が鄧艾を送り返し、姜維とプライベートに密約して独立を図るなど、混乱が続いていた。おそらく羅憲に耳にも入っていただろうが、永安にじっと留まったのだろう。
劉禅はすでになく(死んでない笑)、前門の虎=孫休、後門の狼=鍾会ということで、全て自己責任で判断せざるを得なかった。

鍾会は、曲がりなりにも、かつて同じ君に仕えた将軍だ。鍾会は北へと奔り、羅憲は東に飛ばされたが、どんな気持ちで姜維を見ていたんだろう。鍾会と結ぶなど、なりふり構ってないじゃん。
「己の野心よりも、守るべきものはあるんじゃないのか」と大人な反応だったのか。「黄皓に遠ざけられ、無念そうにしていた姜維よ。少なからず、共感がないでは無かった。だがあなたが溜め込んでいたのは、そんなものだったのか」という落胆か。
少なくとも、防戦の雑務に忙殺されて、まったく目が行っていなかった、なんてことは、羅憲に関してはなさそう。

■呉のマジ攻勢
孫休は、盛憲が苦戦すると見るや、ダジャレ攻撃をした。
歩騭の子である、歩協を補強してきた。なんと、誰でもすぐに思いつくような作戦ですよ。当然、羅憲はこれを破った。
孫休は怒った。『晋書』本文に「孫休怒」と書いてあるから、すごくシンプルに何の韜晦もなく、怒りを顕わにしたシーンが思い浮かんで嬉しい。

学問皇帝は、かなり本気だったらしく、次は陸抗を投入してきた。
劉備が最期を迎えた地を、劉備にとどめを指した陸遜の子が攻める。切なさを誘う設定で、舞台装置は万全。もう、ここで城が抜かれてもぼくは文句ないんだが笑、羅憲は守りきった。

訳の妥当性が分からないけど、「經年」とあるから、1年以上は守ったのかな。12月をまたいだだけ?
全く救援がなく、城中の大半は病気で死んだ。「南中か上庸に逃げちゃいなよ」という人がいた。自然な発想だ。
だが羅憲は、「夫爲人主,百姓所仰,既不能存,急而棄之,君子不爲也。畢命於此矣」と言った。こういうキャラを代表するセリフは、人さまの訳文より原文で楽しみたいものです。
人の主たるものは、百姓(ひゃくせい、と読めば原義に近いか)に仰がれるものだ。もう生きられないからと言って、百姓を棄てて逃げるとは、君子の行いではない。ここで死ぬつもりだ」

魏の荊州刺史・胡烈が救援に来たので、陸抗は撤退した。

■晋からの褒賞
羅憲は晋より、陵江将軍・監巴東軍事・使持節を加官され、武陵太守を兼任した。
『解体晋書』さんによれば、『三国志』蜀書「霍峻伝」の注に引く『襄陽記』より、羅憲は267年冬に晋に入朝し、山玄王佩劍を賜った。

268年3月、華林園の宴に出席した。司馬炎が「蜀の逸材について教えて」と、羅憲に聞いた。
「蜀郡の常忌・杜軫がいいですよ」と答えたらしいが、誰やねん、というレベルの名前で。ぼくの単なる勉強不足なのか。
270年に死に、使持節、安南將軍、武陵太守を贈られた。西鄂侯を追封され、烈と諡された。

■晋への貢献
わざわざ『晋書』に列伝があるということは、「晋にメリットをもたらした人物だから」です。決して「蜀の最後を飾った人物だから」という観点ではないことに注意したいですね。
羅憲その人は、べつに司馬昭のビジョンに共感していたわけでも、司馬炎に仕えたいと思っていたわけでもないだろう。というか、魏の内情に、それほど詳しかったとは思わない。
ただ、乱世がそのまま続くのを厭う気持ちから、永安城という密閉された空間で、防戦という選択をした。それがたまたま、晋を作ろうとしている人々の利益になった。変な感じだ。

■子は羅襲
羅襲は、給事中・陵江将軍を歴任し、父の部曲を統率し、広漢太守にまでなった。 穏当に継承したようですが、正史の記述はこれだけなので、メインキャラとして扱うまでも無いかな。
それにしても、一族で継承する「部曲」って、晋でも認められていたんだね。蜀から連れてきたんだろうな。
羅襲よりも、兄の子である、羅尚が活躍をしたようなので、『晋書』から分かる範囲で見てみましょう。
呉に益州は獲らせぬ、羅憲伝。(4)附羅尚伝
■晋の官僚たちとの絡み
羅尚、あざなは敬之で、一名は仲。
若くして父の羅式を亡くした。父はショウカ太守。羅憲が城を守っていた気に、ショウカか上庸に逃げましょうと提案した人がいたが、ショウカはそういう縁のようです。上庸は本籍地に近い。

荊州刺史・王戎は、羅尚と劉喬を参軍とし、軍事を預けた。
王戎(巻13)が上司で、横に並ぶのが劉喬(巻31)です。彼らの列伝を読んでから、羅尚を立体的に肉付けしていきましょう。現時点では、彼らのことをよく知らないので、荊州時代の勤めについて、イメージが湧かない。王戎と劉喬。忘れるなかれ。
太康末(289年)、梁州刺史になった。漢中を中心に切り取られた、三国時代にはなかった州ですね。
出世がすごく早い気がするんだが、羅憲のおかげだと思われる。それだけ、「天下二分」を阻止した叔父の功績は、晋にとって大だったんだ。
■益州刺史時代
304年12月、趙廞が叛乱を起こした。
羅尚は「廞非雄才,必無所成,計日聽其敗耳」と言って、討伐を申し出た。趙廞のやつはビビりだから、コケるでしょう。カレンダーを眺めて待ってれば、奴の敗報が届くでしょう、と。かなり低く趙廞を見積もったものです。
羅尚は、ちゃっかり仮節・平西将軍・益州刺史・西戎校尉となり、成都に向った。これで輝かしい戦果が書き連ねられていれば、「さすが羅憲の甥ですね」となるんだが、違うようだ。

■なぜか評判が悪い
羅尚は欲張り(性貪)で、決断力がなく(少断)、蜀の人に嫌われた。
「羅尚に愛されるのは、邪と佞。羅尚に憎まれるのは、忠や正。金にがめつくて、門前は市を成し、豺狼のような奴だ」と。豺狼と言われて思い出すのは、後漢の梁冀だったりするのですが、とにかく評判が悪い。
趙廞の方がまだマシで、羅尚は蜀の民を殺す。かえって益州を乱している」と。
現地の人々の発言(の引用という体裁)だから、割り引いて読む必要がある。でも、趙廞よりもヒドいというのは、どういう評価か。
羅尚が現地の有力者を取り込むのに失敗したとか、西晋そのものが支持を失っているとか、そういう可能性はある。そうでもなく、ただ単に羅尚がメチャクチャをやらかしただけかも知れないが。

乱世になると、人は国を頼らず、「万が一に備えて」保身や蓄財をする。羅尚は、まるで羅憲が横目で軽蔑した鍾会や姜維よろしく、益州の地で割拠しようと思ったのかも。割拠はしないまでも、圧倒的に資産を蓄えておこうと企んだのかも。しかしそのやり方が拙かったので、反感を買ったんじゃないか。
平安時代の尾張国司のように。リストラ時代に、社内で「キャリアアップ」に励むビジネスマンのように。例が卑近だな笑

益州の民たちも将来が心配なのに、ただ羅尚の将来の備えに「奉仕」させられては、たまったもんじゃない。だから、「貪」だと嫌い、将軍として無能だという世論を形成して、解任を要求したんじゃないか。
■李特との争い
李特という名前を見ると、西晋末期の匂いがすでにしています。さっき羅憲が、呉を防いだばかりなのに笑
李特は趙廞を討った。趙廞に引導を渡したのは、けっきょく羅尚ではなかった。あの啖呵は何だったんだ!
つぎに李特は、羅尚を成都に囲んだ。羅尚は、新時代の創始者と競い合う器じゃなかったらしく、江陽に退いた。四方の地方官に「助けて!」と泣きついた。

荊州刺史の宗岱(宋岱)と、建平太守の孫阜が助けに来て、勢いを盛り返した。兵曹従事の任鋭(叡)が、李特に偽って投降した。周囲の村々には、内緒で呼応の期日を伝え、李特を破った。李特のクビは、洛陽に送られた。
羅尚がどこまで指揮をしたか分からないが、やれば出来るじゃん。

■益州の喪失
李特の子・李雄は、大都督・大将軍・益州牧を名乗った。羅尚は隗伯に命じて攻めさせたが、失敗した。310年7月、羅尚は死んだ。
『晋書』の締めくくり方が、「俄而尚卒,雄遂據有蜀土。」というもので、ドラマチックです。にわかに羅尚が死んでしまったので、李雄は蜀の国を手に入れました、と。
羅尚本人の動機は、個人の殖財だったかも知れないが笑、晋から益州が分離するのを引き止めた人物として位置づけられているのです。

周辺背景を抑えていけば、「羅尚の死=益州の分割」が有するドラマチックさへの反論は、いくらでもできる。
羅尚があまりに下手を打ったから、洛陽から次の益州刺史が来る機会を潰してしまった。ちょうどこのとき西晋は滅亡しているから、時期が一致しただけだ。洛陽に任官能力がなくなっているから、ズルズルと羅尚が6年も益州に留まってしまったんだ、などなど。

羅憲といい、羅尚といい、ただ近視眼的に行動したにも関わらず、歴史の立役者になってしまった。それは、 益州が「中原から切り離されやすい」という地勢を持っているからだと、ぼくは思います。080712
前頁 表紙 次頁
(C)2007-2008 ひろお All rights reserved. since 070331xingqi6