■三国志キャラ伝>ひそかに献帝討伐、劉焉伝(2)
■舌戦のプレイバック
董扶「洛陽を憂うお気持ち、よく分かります」
劉焉「そう?」
董扶「現在の洛陽は、汚吏だらけです。交州に逃れるのは名案です。さもなくば、あらぬ疑いを掛けられて、不当な仕打ちを受けるでしょう。殿下のように徳のある方なら、なお危険です」
劉焉「ありがとう。でも、交州に行きたいというぼくの本心は内緒ね」
董扶「ええ。ただし交州は、蛮族が跋扈していて危険ですよ」
劉焉「まじか」
董扶「はい。ときに、益州はいかがですか。関中とは秦嶺山脈で隔てられて、交州と同じように、洛陽からの距離は充分に保てます。ましてや文明化が完了していて、安全です」
劉焉「ふーん」
董扶「ご存知のとおり、益州漢中は高祖劉邦の創業の地です。関中の項羽から独立し、天子への偉業を開始した土地です。益州は、新たな天子を生む地です。その証拠に、食べ物も美味です」
劉焉「何が言いたいの?ぼく、洛陽を攻めて皇帝になるつもりとか、ないし。ましてや、ぼくは劉氏だし。陛下の親族なんだ。易姓革命じゃないじゃん。佐藤さんが佐藤さんと結婚しても、変わり映えしないよ!というのと同じジレンマを抱え込むのは御免だ」
董扶「これは失礼しました」
劉焉「それに、漢中から関中に戻るには、青天に昇るよりも困難な蜀の桟道を進むんでしょ。ありえなくね?」※ぼくの諸葛亮への当て付け笑
董扶「おっしゃる通りです。ただし、先の見えない時代だからこそ、漢王朝のメッカで実力を蓄えることに、損はないと思いますが。もし洛陽に変事があれば、真っ先に藩屏として駆けつけるのが、殿下のお役目でございますでしょう」
劉焉「それは、そうだけど」
董扶「もし皇帝に万一のことがあれば、四百年の貴き劉氏の天を支えるのが、殿下の―」
劉焉「だから、それは言わない約束」
董扶「(まんざらでもないみたいで。ちょろいなあ)」
劉焉「董扶さんがそこまで言うなら、益州牧希望ってことで、異動申請書を書いてくるから。そこで待ってて。1つ確認したいんだけど、ぼくは甘党だよ。辛いものとか、NGだからね」
董扶「・・・」

 ■劉焉のこもりっぷり
異動申請書が無事に受理されて、劉焉は益州に赴任。
董扶が期待したとおりに、益州の在地勢力を転がしながら、兵乱を抑えてくれました。有力者を味方に付けて反乱を抑えた後、その有力者すら滅ぼして「自分が一番」になっていったという。劉焉のやり方は、うまい!というか、せこい!というか。
 
霊帝は、劉焉が益州に入った翌年に、約束どおり死去。
話題の帝位は、劉弁が継いだ。
劉焉は張魯を漢中に派遣して、桟道や橋を落とさせた。洛陽には「米賊のせいで、道路が遮断されてしまいました」と言ってるけど、軽く独立宣言です。劉邦だって項羽から「もう関中や中原には干渉しないから」という宣言として、桟道を焼き払ってるね。
 
劉焉が嫌ってた外戚も宦官も滅びて、董卓が洛陽に殴りこんだ。董卓は劉弁を配して、弟の劉協を皇帝に立てた。あれだけ劉焉が離れたがった洛陽を焼き払って、廃墟にしてしまった。長安に遷都です。
パワーのある人間がやることは、発想そのものが違いますね。劉焉は王朝から逃げて、遠隔地から観望。対して董卓は、全部自分で作り変えちゃったよ。まあ、劉氏という血筋が、劉焉の強みでもあり足枷でもあるんだが。
諸侯が反董卓に立ち上がっても、劉焉はスルー。董卓からの侵攻には防戦に成功。※守りやすさが益州のメリットだからね。
 
劉焉の息子3人(劉範・劉誕・劉璋)は、長安で劉協(献帝)に仕えた。
『英雄記』によると、董卓は劉焉に人夫や軍需品を差し出せといったが、劉焉が断った。そこで3人の息子を郿の「秘密の牢屋」に監禁したそうです。変態的な絵が浮かぶけど、気のせいだよね笑
献帝から(というか実質は董卓から)劉焉に、自分だけ安全なところに籠もってるんじゃねえよ!という問責のメッセージが到着。「一緒に袁紹たち関東の諸侯をつぶそうぜ」的な内容だろう、たぶん。
メッセンジャーは劉璋。劉焉は喜んで、劉璋の回収に成功。もう劉璋を長安には返しませんでした。奇縁とはこのことで、劉璋がこのとき長安から回収されていなかったら、後に益州牧を継ぐこともなかったんだよね。
 
■劉焉の野心の最後
董卓が呂布に殺された。董卓の腹心である李カクや郭氾が、長安を奪還。
献帝の保護者は、李カクや郭氾になりました。
おそらく火薬職人の董扶は死んでいるはずだけど、劉焉の耳元で董扶の声が甦ったんだろう。即位のチャンスですよ!と。
なぜなら、圧倒的に強い董卓が死んだ。董卓が兄の劉弁を殺しちゃったから、暫定的に劉協が皇帝をやってるけど、なんの正当性もない。むしろ、王朝の敵である董卓が立てた皇帝なんて、世論が認めない。現に袁紹は、劉焉と同期で州牧に就任した、劉虞を皇帝にしようと動いたんだし。※劉虞本人の事態で実現せず。
 
益州に入ったゆえに、董卓の乱から危険回避した劉焉。その間に洛陽は荒廃。正統な皇帝の不在。董扶が(本気かどうかは別にして)劉焉を口説いたときのストーリーそのままじゃないか。
敵の敵は味方ということで、李カクと郭氾に敵対する涼州軍閥の馬騰(馬超のパパ)と同盟し、関中にいる2人の息子(劉範・劉誕)を使って長安を攻めた。李カクと郭氾を攻めたんだが、まあ平たく言えば、劉焉は劉協(献帝)を攻めたわけです笑 すごく露骨だよ。
 
しかし劉範の計略が洩れてしまい、馬騰は逃亡。失敗!
劉範も劉誕も殺されました。
さらに悪いことに、劉焉は州府にしていた緜竹に落雷を食らった。まあ天子の気という言葉を信じて、縁もユカリもない益州に押し込められて(被害妄想)ましてや天の鉄槌を食らってしまったのだから、そりゃ落ち込むよね。
劉邦の創業の地に近い漢中から遠ざかるように、成都に州府を移しました。
背中に腫瘍を発症して、子供たちの死を悲しみながら、劉焉さん絶命。
献帝殺害計画の失敗から、落雷・病死まで全てが1年以内の出来事だというから、急な話だよね。つらいなあ。

 唐突な幕引きですが、次回の劉璋伝をお楽しみに。
まだ劉備が徐州を拾った!曹操が死に物狂いで勢力を拡大中!みたいな時期に、劉焉は中華大陸から退場してしまったんだね。覇気や才能も違ったんだろうけど、まずは世代が違ったんだね。

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