三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
死ぬまで魏の純臣なり、司馬孚&司馬望伝(3)
■姜維を防ぐ
255年、雍州刺史・王経が姜維に敗れると、関中に駐屯した。征西将軍・陳泰安西将軍・鄧艾が進軍し、姜維を破った。

256年、京師に帰還して太傅になった。
姜維を防いだのは、本当に255年のピンポイントだけ。さらに実戦は、陳泰と鄧艾がやってしまった。姜維万歳の三国志の漫画で、憎たらしく出張ってくる強敵として、司馬孚が描かれていた気がするんだが、『晋書』には細かい記載はないのだね。

■魏の皇帝、惨殺
260年、曹髦が殺された。
百官莫敢奔赴、孚枕尸於股、哭之慟、曰:「殺陛下者臣之罪。」
誰も駆けつけるものは居なかったが、司馬孚は屍骸の太ももに頬を寄せて、慟哭して言った。「陛下を殺してしまったのは、私の罪です」と。

奏推主者。會太后令以庶人禮葬、孚與羣公上表、乞以王禮葬、從之。
参考にしているサイトでは、「奏推主者」の意味が分からないとされているが、ぼくは「司馬昭が主(太后)に推して奏上し」と訳せばいいと思う。マズいことだから、司馬昭の名前がないんだろう。司馬昭は、太后に「曹髦は庶人の礼で葬れ」と命令させたが、司馬孚は群公とともに上表し、王の礼で葬って下さい」と願った。
太后は、OKしてくれた。

■司馬懿の遺志をほのめかすもの
「司馬懿に簒奪の意志はあったか」というのが、よくテーマになる。
ぼくが思うに、『晋書』のこの箇所を書いた人は、「なかった」という考えを持っているようだ。そして、ぼくもそれに賛成したい。
どういうことか。

曹髦の事件の後、「司馬孚伝」は、こんなことを言い始める。
「司馬孚の性格は慎み深く、司馬懿が執政しても、自分から一歩下がった。天子廃立の謀議には参加しなかった。司馬師・司馬昭は長老として敬い、強く迫ることはしなかった」と。

前にぼくは、司馬孚は「司馬懿」という政治的人格の片割れだ、と仮説した。生物学的な司馬懿と司馬孚が2人で協力し、政治的な「司馬懿」という人格を作ったのだと。
1歳違いの兄弟で、もしかしたら同母弟かも知れない。むしろ「同母弟ではないという史料的根拠がない」と言った方が正確か。年子だから、母親の負担は大きかっただろうが、可能性はある。そうしたら、まるで双子じゃないか。
この二人三脚がうまくいったということは、2人の意見は元から近く、また常に打ち合わせしていたに違いない。

司馬懿は251年に死んでしまったが(それでも諸葛亮に対比すると、かなり長生きなんだが)、司馬孚は生き延びた。その後の司馬孚の行動は、もしも司馬懿が生きていたら、司馬懿が取った行動と言ってよいだろう。
もっとも、司馬師と司馬昭は、実父が生きていたら、(実父の意思に反して)好き勝手はやらないだろうが。すなわち、「曹髦の遺骸に取りすがる司馬懿」というのは、見られないということだけど笑
司馬師と司馬昭は、司馬孚の意に反したことをやってるから、「景文二帝以孚屬尊、不敢逼」という遠慮をした。もし賛同を得ていたら、こんな表現にならないよ。

■司馬懿の声
265年、禅譲。曹奐を金墉城に移すとき、司馬孚は曹奐の手を取って涙し、感情を抑えられなかった。そして、こう言った。
「臣死之日、固大魏之純臣也」と。すなわち、私は死を迎えるときまで、ずっと魏の純臣です。

これは、司馬懿の声でもあったんだろう。死ぬ日まで純臣ということは、死んだら純臣ではいられない。つまり、魏を守ることが出来ない。さらに、簒奪の準備者のレッテルを貼られるかも知れない。
これは、司馬孚の無念であり、司馬懿の無念でもあったとぼくは思う。
■晋朝での司馬孚
司馬炎は詔した。「太傅(司馬孚)は、光導弘訓で宇内を鎮めているので、不臣之禮で奉じる。安平王・邑四万戸とし、進めて太宰・持節・都督中外諸軍事とする」と。
司馬孚は祖父の弟。司馬懿との二人三脚は知らなかろうが、それ抜きでも、充分に畏敬の対象だったのでしょう。元会では、司馬孚に輿車に乗って上殿するよう詔命し、帝は阼階において迎拜した。司馬炎は、司馬孚に対しては「如家人禮」を取った。皇帝と臣下ではなく、一族の年長者として、礼を払ったようです。

■司馬孚の死
司馬孚は、新しい皇帝に尊寵されても「常有憂色」だった。
踏ん反り返っても許される立場だろうに、魏臣として一生を貫きたかったんだから、そりゃあ無念でしょう。苦々しいのでしょう。
272年、質素な埋葬を命じて死んだ。93歳だった。
司馬炎は、3日間の挙哀の礼を行い、漢の東平献王蒼(劉蒼)に倣って、葬送された。

■目の上のコブ、司馬望
司馬孚の次男は、義陽成王・司馬望。あざなは子初。
205年生まれだから、司馬師より3つ年長、司馬昭より6つ年長。
父の司馬孚に似て、寬厚だった。

伯父の司馬朗のあとを継いだ。
懿と孚にしてみれば、10近く年上で、「父代わり」の恐ろしさがあった兄の家を乗っ取ってやったという爽快感か。
だが、司馬師と司馬昭にしてみれば、司馬望のほうが本家筋にあたるから、目の上のコブか。司馬師には目の上にコブがあったが笑
おまけに司馬望の方が年上だし。

はじめ、郡の上計吏、孝廉、平陽太守・洛陽典農中郎将。
251年の王淩討伐に従軍した。このとき司馬望は47歳だった。
■曹髦の寵愛
曹髦は好才愛士。司馬望(散騎常侍)、裴秀(散騎常侍)、王沈(侍中)、鍾会(黄門侍郎)を寵愛した。しばしば宴筵を囲った。

曹髦は性急(せっかち)だった。あの死に様=逆クーデターを見ても、いかにマイペースで周囲を急かしたかが知れるが。おかしなもので、『魏書』の本紀を読むよりも、こういう周辺情報の方が、曹髦その人の性質がよく分かるから面白い。
曹髦は、「話がしたい」と思ったときに、その相手がすぐに駆けつけてくれないと、不機嫌になったようです。ケイタイを持たせてあげたい笑
裴秀は宮中に着任していたので、お召しがあればすぐに参上できた。しかし司馬望は、宮外の官で勤めていたため、「遅刻」した。
曹髦より、特別に追鋒車一台と武賁五人を給わった。お呼びがかかり、御者を励まして駆けてる図を思い浮かべると、おかしい。
死ぬまで魏の純臣なり、司馬孚&司馬望伝(4)
■意外な『晋書』の記述
ケイタイ電話を差し出す曹髦。
「これを渡すから、いつでも連絡をくれ。基本料金も通話料も、朕(魏朝)が持つ。ミコトノリして時代考証スタッフを罷免した。心配ない」

そういうわけで司馬望は、司馬昭よりも曹髦に近かった。
実権が司馬氏に移っていくのが、(自分も司馬姓のくせに)不安だった。まだまだ健在の父・司馬孚と話して、「嘆かわしいことだ」と言い合っていたに違いない。
ウソみたいな話だが、『晋書』に書いてある。
時景文相繼輔政、未嘗朝覲、權歸晉室。望雖見寵待、每不自安、由是求出。すなわち、司馬師と司馬昭が政治の実権を握り、(郡臣は)皇帝に目通りができず、権力は晋室に帰していた。司馬望は、曹髦に寵待されていたが、いつも心は安らがなかった、と。

■関中独立計画
司馬孚は、征西将軍・持節・都督雍涼二州諸軍事になった。

255年に父の司馬孚が、関中に援軍してる。その流れで、このポストに落ち着いたのでしょう。
父が、移れるように調整をしてくれたのだと思う。255年、陳泰(陳羣の子)が征西将軍・都督雍涼諸軍事に着き、同年か翌年のうちに尚書右僕射に昇進したらしい。この、短すぎる任期が不自然だが、この不自然さが、司馬孚の影をぼくにチラつかせる笑
ちなみに陳泰は、曹髦が殺されたとき、「賈充を殺して、天下に謝罪して下さい」と司馬昭に詰め寄った。司馬孚に心を寄せており、魏室のために協力しても、おかしくない。

司馬孚が、蜀の外征の執拗さを見て、策略したのかも。
「司馬昭の器では、洛陽で曹氏としのぎを削ることで精一杯だ。彼は、関中守備の重要さを認識している。だが、彼の手駒では、関中を守ることはできない。もし我らが関中で成果を出せば、司馬昭は、雍州の司令官をおいそれと挿げ替えることが出来ない。戦国の秦のごとく、独立勢力を築けるぞ。万一のために、扶植せよ」と。

■蜀ファンの障壁
もし司馬望が「陛下(曹髦)が心配です。快速馬車までもらったのに、お側を離れたくありません」とゴネたとしたら、司馬孚はこんなふうに説得したに違いない。
「陛下は、わしが洛陽でお守りする。お前が洛陽にいるのと、長安にいるのとでは、どちらが陛下のためになるのか」と。
完全にぼくの想像ですが、司馬懿の「双子」が、こんな風に息子を諭す絵も、いいかも。
こんな約束があったから、司馬孚は曹髦の死体にすがって泣いたのだろう。「すみません、陛下。すまん、息子よ。約束を違えてしまった」と。いくら政治的対立が厳しくなっても、玉体に剣を貫通させられるとは思わないから笑、後手に回ったのでしょう。

姜維はたびたび侵攻したが、司馬望がいるから、勝てなった。これが、蜀ファンを歯噛みさせる働き。 晋書によると「8年」関中におり、威令は行き届いたという。
255年に8年を足すと、263年。すなわち、蜀の滅亡だ。このタイミングが、どうもきな臭い。

■司馬昭に取り上げられる
司馬望は、蜀を防ぎ続けた功績で、順陽侯に進められた。洛陽に召されて衛将軍となり、中領軍を領して、禁兵をつかさどった。
これだけ読むと「ご栄達、おめでとう」で終わってしまう。だが、いくらか周辺事情を思い出すと、意味が違ってくる。

鍾会の挙兵があった。彼が成都で独立しようとしたとき、司馬昭は自ら長安に進軍してプレッシャーをかけ、乱を不発に処理した。鍾会の側から見れば「オレの野心は読まれていたのか、畜生!」というエピソードなんですが、司馬望から見ると、別の意味を持つと思う。
長安と言えば、これまで司馬望が拠って立っていた根拠地だ。ここに司馬昭が乗り込むということは、「蜀漢は潰れた。もうあなたの役目は終わった。8年も手塩にかけて錬兵し、関中で信頼を勝ち取ったキミの強い軍勢は、逆に(洛陽で禅譲を狙う)私にとって脅威になるのだよ」と。

鍾会の軍は、司馬昭の長安入城で恐慌をきたしたが、これはオマケ効果だったんじゃないか。
司馬昭が、成都暴発の知らせを聞く前に長安に進んでいた目的は、「平定後の蜀を牽制する」ではなく、「無用の長物になった、司馬望の関中軍を接収する」だったと思う。

■司馬孚の昇進の意味
司馬昭の野心(長安を奪った意図)を隠すためには、司馬望をつぎつぎと昇進させねばならない。264年、驃騎将軍を加えられ、開府を許された。265年9月(司馬昭が死んだ翌月)何曾の代わりに司徒になった。司馬炎が禅譲を受けると、義陽王となり、邑10000戸と兵2000をプラスされた。
267年、詔があった。「司馬望は血筋が近く、中央でも地方でもよく助けた。太尉に進め、中領軍は留任とする。あなたの下には、太尉軍司1人・参軍事6人・騎司馬5人を置く。また官騎10人を増置し、前と併せて30とし、羽葆鼓吹を假す」と。
どう間違っても、西方を再び任せるような人事にはならない笑

■呉を防ぐ
268年、呉ノ左大司馬・施績が江夏に進軍。司馬望は20000で龍陂に駐屯、仮節・大都督諸軍事になった。荊州刺史・胡烈が、呉ノ右丞相・万彧を襄陽で撃破した。司馬望は、洛陽に凱旋した。
同じ年、呉ノ右大司馬・丁奉が、芍陂に進軍。司馬望が迎撃に向う前に、丁奉は撤退した。268年、大司馬となった。
271年、孫皓が集団ヒステリーで寿春に向かった。司馬望は、中軍二万・騎兵三千を進めたが、孫皓は疲れて帰っていった。
戦歴は書いてあるけど、1回も衝突していないのがポイントだ笑

■蓄財は何のため?
271年、67歳で司馬望は死去。
父の司馬孚は、1年後の272年まで生きている。67歳まで生きても、なお賽の河原に行かねばならんとのは、ちょっと酷だろう笑

司馬望の性格は、儉吝而好聚斂で、死後は金帛盈溢だったので、そしりを受けた。
思うに、司馬師・司馬昭が叛逆を企んでいるのを苦々しく思い、司馬師・司馬昭と一戦を交えることになっても、充分に与党を獲得できるように、準備していたんじゃないか。もしくは、司馬の嫡流がいつ自分に移ってきてもいいように、準備をしていたんじゃないか。
父の司馬孚は倹約家とされ、賜った器物を使わなかったので、評判が高かった。でも、「あまり消費しない」と「蓄える」という行為は、道徳上は正反対に見えて、実は同じことなんだよね笑
父子で最低限の生活をしながら、「(一族内の問題として)師と昭と炎を粛清する」機会を待っていたのかもしれない。080719
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