■テキストの説明
今回は、考察文形式になってません。
2005年秋に司馬懿を主人公にした小説を書こうと思い立ちました。
董卓の乱を避けて、司馬朗や崔琰と絡むところまで書いたんですが、途中でリタイア。曹操という人物を描けなかったのが原因です。
結果、中途半端な序章だけ残ってしまいました。
未完成の断片ではあるものの、そこそこ読めるテキストだと思うので、載せてみました。司馬懿が生い立ちを語り、自己紹介しています。続きはありませんが、おいおい書けたらと思います。
それでは、短いですが、どうぞ。
私は司馬懿、字は仲達と申します。
幼少の折、学友から言われた言葉がございます。
「君は物事を悩み過ぎる。顔を憂いに染めていて、何か楽しいのか。もっと陽気に生きられないものか」
「ありがとう。気をつける」
私はこう答えましたが、彼の提言を受け容れる気は、毛頭ございませんでした。彼は私のことを、殆ど理解していませんでした。不断に思考を巡らすことは、私の快楽でした。その思考には、多分に苦痛が伴いました。その苦痛も含めて、心地よいものでした。
私の性癖を誤解されてはいけませんから、もう少し詳しく申しましょう。何も考えずに漫然と過ごす方が、常に理屈を頭に泳がせておくよりも、よほど地獄だということです。
人が生きるとは、思いどおりにならぬ現実と折り合うことと同義です。
私が生まれた司馬氏は、名族でした。
この中華で王朝の営みが始まって以来、司馬という名の示すが如く、軍の顕職に就いて参りました。近くでは、始皇帝が建てた秦が滅びた際に、司馬卬が趙の武将として武名を博しました。
司馬卬より十一代の孫が、私の父司馬防です。
父は厳格な人間でした。
この父の下で私は、落ち着いて学問に励める好環境を得ました。同時に、儒教道徳が小うるさく宣撫される、耐えがたい閉塞感も強いられました。
血筋と環境。どちらも、私が自力で会得したものではありませんでした。天から降ってきたように、物心附いた時には、既に厳然と在りました。司馬の家に向けられる羨望や反発に応えるのは、避けられない責務でした。
私が十五の時でした。
董卓が殺されて後、長安に出仕していた父が、司馬氏の本貫である河内郡温県孝敬里に帰ってきました。「孝敬里」とは、いかにも父が好みそうな地名であります。
数年ぶりの父でした。こんな私でも嬉しくて、そわそわと父の居室に覗きに参りました。すぐさま、大きな叱責を食らいました。
「こら懿、それが男子たる者の振る舞いか」
父は官の道に熱心で、故郷を長らく空けておりました。
父を知らずに育った私は、理想の父親像を勝手に温めて、司馬防という人物に投影していました。そんな私の妄想を、彼は恥辱まみれに斬り捨ててくれました。
半日ほどして、私は父に召し出されました。座すことすら許されず、冠を糺し、粛々した対面を強いられました。それが彼なりの教育でした。
「懿、久しいな」
「はっ」
「天下の趨勢をどう眺めるか」
「混沌としております」
「質問を変えよう。見所のある人物は、あるか」
「諸将、一長一短でございます」
「敢えて名を挙げるなら誰か」
「定見を持ちません」
「馬鹿者」
「申しわけございません」
私は床を舐めるように頭を下げ、退出いたしました。生意気な子供だと言われましょうが、先天的な運命に対する、精一杯の抵抗だったように思います。
なぜこの男が私の父なのか、と腹で思いながら、ひたすら従順に徹しました。頭を低くしていれば、何も見なくて済みました。私は、父を憎みました。父の人柄が憎かったのではありません。自分では如何ともしがたい現実の象徴として、父の存在こそを憎んだのです。
長じた私は、せめて自分の力が及ぶ範囲において、納得のゆく生を送りたいと考えました。一挙手一投足、いかなる片言隻句にも気を配り、運命を操ることに熱中しました。
当然のことながら、あらぬ誤解を受けることも、努力の甲斐なく挫折することもありました。ですが、熟考の末に招いた失敗ならば、それを自らの落ち度として受け容れることが可能でございます。
最も恐ろしいのは、漫然と振る舞って日々を過ごし、例えば私が父の息子になってしまったように、抗う余地すら与えられない現実に飲み込まれてしまうことです。
額を曇らせて悩み続ける。この苦悶が快楽だと申し上げた意味、お解りいただけましたでしょうか。
この私の態度が、後世の史家や講談師にどのように冒涜されようと、知ったことではありません。況してやこの深謀遠慮と称されるものが、我が司馬の家に天下をもたらすなど、預かり知らぬことでございます。
司馬懿の慎重さ、屈折した性格、憎たらしさ、などが伝われば成功です。
読んでいただいてありがとうございました。
やっぱ司馬懿はMだと思う。書きながら、そのことばかり考えていた笑