■まるで諸葛亮の物言い
255年2月、毌丘倹と文欽が6万で背いた。
「誰か適当な将軍を送っとけ」という意見がある中で、
王肅・尚書の傅嘏、中書侍郎の鍾会が、「司馬兄さんが直々に討ちに行くのがよいでしょう」と言った。
「司馬師さん、あんたのせいで起きた叛乱だ」という含みがあるのでしょう。このとき兄は健康体じゃない。それを見越して、鍾会たちが仕返ししたんだろう。だが、ここで屈する精神の持ち主ではない。
毋丘儉・文欽は項城に入った。
兄は、荊州刺史の王基を南頓に置いて、持久戦に入った。例の如く、その他大勢たちが「攻めましょうや」と言い出した。
兄「キミらは、壱を知って、弐を知らんな。毌丘倹・文欽が誑かしたが、淮南の兵士はもともと戦意なんかないんだ。すでに、史招、李続が降伏してきたじゃないか。待ってれば、自然と瓦解するさ。諸葛誕に退路を絶たせれば、もうそれでいい」
戦術上の真っ当な判断だと思いますが、いわゆる放置プレイという奴じゃないのか。戦いたい相手を前にして、ちょっと距離を置いて、退路まで絶った後に、ただ傍観しているんだ。
文欽の子、文鴦。18歳だけど強い。
兗州刺史の鄧艾を楽嘉に進ませ、わざと弱そうに見せた。しかし文欽が動かない。文鴦が太鼓を連打しても、呼応しない。
兄は追撃に転じたが、その他大勢が「文欽も文鴦も強い。ヤバいですよ」と騒いだ。いつもこのパタンで飽きるが、兄が正しい眼識で宥めた。
「1発目の太鼓で、士気は上がる。2発目を聞けば、衰える。3発も鳴れば、間延びして軍勢はガタガタだ。文欽の軍はもう、腐っている。どうして追撃せずに捨ておけるか」
結果は、もう言うまでもない。
偏見かも知れませんが、「平定」「粛清」「征圧」「蹂躙」「圧殺」というイベントは、ドSによく似合う。
■兄の容貌
兄は癇癪持ちで、常に目つきが怖くて、イライラでピリピリしていたんだろう。眉間の皺なんて、いつものことで。
ルックスについては、「景王紀」の冒頭に「雅で風采があった」と書かれている。勝手な推測だけど、司馬氏は大柄だったから、兄も縦長の顔だったんだろう。アゴがしっかり張っていて、それなりに彫りが深くて、オブジェとして完成度が高かったんじゃないか。
そんな人が、ドSを発揮して目じりを吊り上げているから、そりゃ怖い。
腹を立てて、人を追い詰めるたびに、脳が膨張するような内側からの、押し出すようなエネルギーのほとばしりがあったのだろう。
■文鴦のせいで
あるとき病気の菌が目に入ってしまったら、もう目が、狭い頭蓋骨から膨れ出してくるしかなくて。
医者にメスで膿を出させてた。淮南の野営が続いて衛生状態が悪く、いきなり文鴦が軍勢を返してくるもんだから、兄は眼球が飛び出した。いくら物知り顔で追撃してても、いきなり馬首を返されたらビビるもんね。
伊達政宗が目玉が飛び出していたらしいが、あんな感じで、腐って出てきてしまったのかもね。そんなこと、正史に書くなよ笑
士気に関わるから被り物で隠していたが、痛すぎるから被り物を齧って、我慢していた。左右で異常に気づくものがいなかったというから、大した欺きのプロ根性です。
歯型がついて、ボロボロになった頭巾が想像つくね。頭の上から引っ張って、口にくわえているから、飛び出した眼球に当たって擦れたのかも知れない。膿が染み込んでたのかも。膿が気づかれないように、黒い頭巾を新調させてたりね。妄想を膨らませて、気持ち悪くなってきた笑
風貌が恐ろしく変化したことは、たいそう人を驚かすには便利だっただろう。しかし、決して見せないんだ。自分が道化になるようなことを、ドSの性分が許すものか。
■エピローグ
許昌まで引き返して、兄は死去。48歳。
ちなみに妻がすごくて、夏侯氏(夏侯尚の娘、夏侯玄の同母妹)、呉氏(呉質の娘、離婚)、羊氏(羊祜の同母姉)というメンツでした。曹氏の王朝の下で、父が念入りに配偶者を選定している様子が、想像できます。
「景帝紀」にしがみ付いて、ここまで書いてきました。
浮かんできた司馬師像は、司馬懿の正反対を行くドSであったこと。諜報や暗殺・押し込みなどを担当する、物騒な男達をたくさん飼っていたこと。
あとは、お互いに欺きあって腕前を競う、司馬一家の楽しそうな笑い声が聞こえてきてきましたね。合わせて「文帝紀」も読むことで、立体的に描き出すことが出来るでしょう。
この家庭行事が、やがて司馬炎・司馬攸の対立とか、八王ノ乱につながるのでしょうか。まあ、しゃあないのかも、と思えてきた。080104