■三国志キャラ伝>逆天下三分、逆出師ノ表。司馬昭伝(4)
■7度目のオネスティ 10月、蜀の降伏を聞き、弟は相国・晋公・九錫ノ礼を受けた。 侍中、大都督、録尚書の号を返上した。   「文帝紀」は、ここで長々と退屈なことになる。  期待を裏切らず、「私のような下らない人間が、ろくな功も立てていないのに、このような栄誉を受け取っていいものか」「いえいえ、あなたは、いついつにしかじかの成功をされて、いついつにも素晴らしい王朝への貢献をして」「そんなそんな、とんでもございません」という調子だ。 歴史家さんたちは、こういうところで張り切って、あることないこと、書いてしまうから困るよね。 王公就任の記録は、名文の展覧会、腕の見せ所だと想っているんだ。   以後、弟のことを、敬意を払って「晋公」と呼ぼうと思います。やっと受理してくれたんだから、使わないともったいないもん。
  ■鍾会の最期 鄧艾を太尉とし、鍾会を司徒とした。 あまりに安直ですが、蜀を滅ぼしたことを褒めるには、三公になってもらうしかない。良かったね鍾会。やっと父親(鍾繇)に追いついたじゃないか。   264年正月、鄧艾は鍾会に「異心あり」として、檻車で送り返されてきた。鄧艾には異心などなく、異心があるのは鍾会なんだけど。言葉では、何とでも言えてしまうんだ笑 晋公は曹奐を連れて、長安に移った。 洛陽がお留守になるもんだから、やっぱり皇帝は同伴なんです。   晋公は、万全の体制で国土を固めて、長安に来ている。   鄴:曹氏(諸王侯)を集め、従事中郎=山濤が行軍司事として鎮める。   漢中:持節、督諸軍として、護軍=賈充が抑える。   成都:監軍=衛瓘、右将軍=胡烈が、鍾会を破る。 ここ数十年はなかったような、超ピリピリの厳戒態勢なんだ。   これを鍾会視点から論ずると「オレを討つために、ここまで司馬昭はやるのか」という絶望材料になる。鍾会が自棄を起こして、乱戦の末に死んでしまったのは道理だ。 しかし、それはあまりに一面的な見方なんじゃないか。   ■蜀を倒した、魏の危機 鼎立のバランスが崩れたのは、呉蜀にはそりゃ一大事だろうが、魏にとっても大事件なんだ。この変化は、曹操が漢中を放棄したとき以来の動きでしょう。下手したら、魏もコケるよ! 「失敗しても、劉備くらいにはなれるだろう」とは、鍾会の言葉。鍾会の離反は、単体では不発に終わった。でもそれは、大乱世再来の前兆に過ぎないのかも。晋公は、そこまで見ていた。 蜀が潰れたときの戒厳令は、リアルだったんだ。   だが途中から、晋公がパニックを演出したと思う笑 「今は国難だ。やばいよ、やばいよ!今こそ、強力なリーダーの元で、全土が団結して事に当たる必要がある」という、ナレーションが流れるショーなんだ。これまで、相国・九錫をネチネチ辞退してきたわけだが、今なら昇ってしまっても批判が少ない。   ■晋公の予言 西曹属の邵悌は、鍾会出陣に先立って、晋公に言った。 「鍾会は信用できない。行かせてはいけません」 晋公曰く、 「オレは、蜀取りは簡単だと思う。しかし皆は無理だと言った。ただ鍾会だけがデキマスと言い、オレの考えと同じだった。だから行かせるのだ。もし蜀を滅ぼしたら、鍾会が連れて行った兵士は、故郷(中原)に帰りたいと思うはずだ。鍾会が異志を持っても、従わないだろう。失敗するよ」   こんな話を聞くと、長安親征が、全て狂言だったと思えてくる。
  ■エピローグ、晋王の誕生 3月、司馬昭は「晋王」になった。 ローマ字入力を焦ってやると「死のう」になる笑   5月、父の司馬懿を「晉宣王」、兄の司馬師を「晉景王」とした。   7月、初めて「五等の爵」を立てた。 司空の荀顗には礼儀を、中護軍の賈充には法律を、尚書僕射の裴秀には官制を、それぞれ検討するように命じた。太保の鄭沖には、これらを書きまとめて上奏するように命じた。   同じく7月、孫休が死んで、孫皓が皇帝になった。 10月、晋王は、孫皓に使者を送った。即位を祝うとか、「平蜀之事」を伝えるとか言って、「次はお前の番だ」と伝えるのが目的だ笑   翌8月、晋王は死んだ。享年55。   兄は勢いのあるドSの一発屋のイメージだったが、弟は司馬懿の陰険な部分をよく引き継いだ、恐ろしい人物だったんじゃないか。 晋の成立において、司馬懿の役割は当たり前にデカいが、それはあくまで魏臣としての活躍に留まるものだった。手にした権力を簒奪に注いでいったのは、弟の仕事だったんじゃないかな。   「文帝紀」は、読んでいて、すごく面白かった。 偽黒武堂の三国志探訪 http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/ このサイト様には、本当に感謝しています。080104
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