■三国志キャラ伝>三国一、空気読める孫資伝/附劉放伝(4)
■死床の曹叡 239年。司馬懿が遼東遠征をしているとき、曹叡が病に臥せった。 曹叡「燕王曹宇を大将軍とし、政治を執らせよ」 曹宇「畏れ多いことでございます」 ちくま訳には恭謙善良な曹宇は、誠心誠意固辞したと書いてある。   さらに曹叡は、曹氏の血縁のみで、廟堂を固めようとした。 曹叡「領軍将軍夏侯献(曹操の実家一族)と、武威将軍曹爽(曹真の子)と、屯騎校尉曹肇(曹休の子)と、驍騎校尉秦朗(曹操の側室の連れ子)には、政治補佐させよ」と。   曹丕がドSだったせいで、魏には皇族の藩屏がとても薄い。 若くして即位した曹叡は、自分は中華唯一の皇帝なんだと励ましながら頑張ってきたが、身体がもたなかった。35歳くらいで、すでに死にそうなんだから! 「やっぱり皇帝の周りには、血縁者がいなくちゃね。そうしないと、プレッシャーで若死にしちゃうよ」と実感していたのだろう。孤高に天を祭ることを期待される皇帝にとって、拠り所になるのは血縁なんだ。   ■「曹宇は自分の小ささを弁えています」 燕王曹宇は、曹操の九男。 母親は環夫人だから、若くして死んだ天才、曹沖の弟。時代の時の流れを感じますね。象の重さを計るアイディアを出していた、利発そうな子の同母弟が、いきなり表舞台に登場ですよ。   これまで曹宇は、魏の皇族にありがちな鉢植え人生を歩んでいた。 ただ、短い「燕王曹宇伝」で特徴的なのは、明帝(曹叡)と曹宇は若いときから行動をともにしており、曹叡は曹宇に特別な親愛の情を抱いていたという記述。おそらく同年輩だったのでしょう。曹宇と曹叡は1世代違うが、全然ありえる話です。さすが曹操。。 曹宇は、後事を託したいという曹叡の願いを、4日間も断り続けた。こんなだから、曹叡は孫資・劉放に相談を持ちかけてしまう。   曹叡「ぜえぜえ」 劉放「陛下、しっかりして下さい」 曹叡「オレはもう死ぬ。しかし燕王は、なぜ大将軍を受けてくれないんだ」 孫資「燕王は、ご自身が大任を担いきれないことを、弁えておいでです」 曹叡「じゃあ、曹爽に燕王の代わりは務まるだろうか」 劉放「はい。ただし、曹爽殿のみでは、国家の支柱には足りません」 曹叡「どうすればよいか」 孫資「司馬仲達殿を、洛陽に召し返しましょう」 曹叡「オレの亡き後は、曹爽と司馬懿だな」 劉放「御意。すぐに詔勅を、私が作成します。サインだけは、宜しく」   曹宇は、本当に自信がなかったんじゃないだろうか。曹叡のお友達としては機能していたけど、大将軍が務まるか否かは別の話だし。孫資・劉放が、自らの保身のためだけに曹宇を退けた、とは言えないだろう。 曹宇が任に堪えず、司馬懿が任に堪えた。孫資・劉放は、曹叡のために、魏に臣民にために、客観的に分析して答えたのだろう。「司馬懿に乗っ取らせましょう」と進言したなら論外だが、本心も額面どおり「助けさせましょう」なんだ。   ■司馬懿の名を出したのはなぜか? 孫資・劉放が司馬懿を推したことには、3つの理由があると思う。 まず、曹爽をセンターに持ってくるという曹叡の提案に、孫資・劉放が逆らえなかった。本当に魏の行く末を思うなら、いくら皇族に準じる曹爽でも、人選としてはミスなんだ。 しかし、これまで空気を読む・顔を立てることで曹叡の歓心を得てきた2人が、臨終の床にある皇帝の提案を、却下したりできない。却下できないなら、何かをプラスして補うしか手がない。   次に、司馬懿を置けば、曹爽への適度な牽制になり、曹爽の教育にも有効だと判断したからだ。司馬懿は有能な戦争屋さんであるが、宮廷政治への造詣は深くない。曹爽が自立するまでの錘(おもり)として機能してもらい、曹爽が自立したころに引退するだろう、という読みだ。 司馬懿はこのとき、60歳過ぎ。今後の魏朝にとって、それほど毒にも薬にもなるまい。ね。   これまで王朝に尽くしてきた司馬懿への(ほぼ形式だけの)褒賞というニュアンスもあったんじゃないか。司馬懿の貢献度は、曹叡のそばにベッタリ侍っていた孫資・劉放が一番知っている。 そもそも司馬懿は、曹丕が死ぬときも「後を頼む、ガクッ」というのを経験している。曹丕が40歳、曹叡が35歳前後で死んだという皇帝の短命にも越度があるが笑、1人の人間が2代から後事を託されるというのは、普通は不自然なんだ。 曹丕のときはマジに頼まれたから、司馬懿はマジに奮起した。しかし2回目ともなれば、託された方としても、社交辞令で頷いて受け流すのが礼儀なんだ笑 普通の根性の人間ならば!
  どれくらい時間差があったか分からないが、曹叡が前言を撤回する。   ■曹叡の心変わり 曹叡「やはり司馬懿を呼んではいかん。劉放に、詔するのを辞めさせる」 こうして再び孫資・劉放が呼ばれ、曹叡は説得を受けた。 彼らがどうやって曹叡を納得させたのかは、陳寿は筆を控えているので、小説家に頼るしかないのですが。曹叡は、孫資・劉放に再び賛同した(丸め込まれた、ともいう)。 曹叡「オレ自身の意思で、司馬懿を呼ぶと言った。でも、曹肇らが後から入ってきて、それを辞めさせようとした。曹肇たちは、オレのやることを、ほとんどダメにしてしまった」 孫資「お気を確かに。まだ間に合います」 曹叡「すまんが劉放、再び詔勅を起草してくれないか」   曹宇、夏侯献、曹肇、秦朗は免官。 駆けつけた司馬懿に「あ、あとは頼んだ」と伝えて、曹叡は崩御した。   ■宮廷の秘密博覧会 臨死の曹叡の周りで何が起こったか、ぼくらが知ることが出来るのがおかしい。でも、裴松之の注は面白いので、読んで想像を膨らませたいですね。   『世説新語』曰く、 夏侯献と曹肇は、劉放・孫資をこころよく思っていなかった。殿中に「鶏棲樹」という木があった。夏侯献と曹肇は「この古木は、いつまでもつのか」と会話した。孫資と劉放は、心配になった。 孫資・劉放が、木に暗示して皮肉られた、という話です。まあ「ありそうな」話を載せるのが『世説新語』の趣旨なので、本当に言った・言わないという論争は無意味ですね笑 自分たちに対する僅かな反発でも聞きつけた、孫資・劉放。いかにも彼ららしい。そして、悪口を言った夏侯献・曹肇を退け、代わりに司馬懿を推薦したんだそうで。この因果関係は短絡的で、やり過ぎだろう。。   同じく『世説新語』より、 曹叡は、孫資・劉放に質問した。 曹叡「司馬懿と張り合えるのは誰か」 劉放「曹爽です」 曹叡「わかった。曹爽、できるか」 そこにいた曹爽は、冷や汗を流して返答できなかった。劉放は曹爽の足を踏みつけ、耳打ちをした。 曹爽「臣は、死を覚悟で国に仕えます」 裴松之の言うように、司馬懿が先に後見として決まっているから、任官の順序が逆ですが笑 曹爽の足を劉放が踏みつけて、ちゃんと答えるように吹き込んだのが面白い。 きっと曹爽が言ったのは、耳打ちの内容そのままなんだ。劉禅と同じかもね!「巴蜀には先祖の墓がありまして、ときどき恋しいのです」的な。   さらに『世説新語』より、 曹肇の弟は、曹纂といって大将軍ノ司馬。 曹纂が皇帝の部屋から退出すると、曹肇も出てきてしまっていた。兄弟は顔を見合わせた。「陛下が危篤なのに、どうしてみんなして、出てきてしまったのです。戻りましょう」と。しかし劉放・孫資がブロックして、もう皇帝には会えなかった。 曹肇・曹纂の兄弟は、ともに免官になった。 まぬけだねえ。門の外で、2人がキョトンとしてる絵が浮かぶ。。
  ■あいまいな孫資・劉放 『孫資別伝』は、曹叡に「誰を後見にしたらいいか」と聞かれても、孫資は答えなかったと書いている。 むしろ、ちくま訳2ページに渡って「人の価値を論ずるなど難しい。まして指名など出来ますか」と喋っている。それだけ孫資は、謙虚&博識だと言いたいのだろう。病人相手に、演説なんかするなよ笑 前に見たとおり、『孫資別伝』は、孫資を讃えようと力みすぎて、逆に孫資を貶めてる笑 このお茶目な不器用さが、ぼくは好きですが。   裴松之は、孫資・劉放は専権の任を負っているのに、誰に後見を任せるべきか明言しなかったのは悪だ、と言っている。 これは婉曲表現なので、注意が必要だと思います。 裴松之は、孫資・劉放を糾弾して「曹爽・司馬懿に任せてしまい、魏朝を滅亡させたから、極悪人だ!」と言っている。すなわち、孫資・劉放が後見人を指名しなかったことを怒っているんじゃなく、魏朝を永らえさせることができる後見人を(明確に)指名しなかったをと怒っているんだ。 そんな結果論で喋られてもねえ、困っちゃうよね。   陳寿は、以下のように評している。 孫資・劉放は主上の気持ちに従順で、是非の判断を自分からはっきり述べなかった。しかし阿諛ってたばかりじゃなく、長所短所を説明することもした。 陳寿は、孫資・劉放が「司馬懿がいい」と進言したと「劉放伝」本文に書いたが、これは要約した記述で、本来はもっと細かい遣り取りがあったはずだ、という見地なんだろうね。孫資・劉放がほんのりと司馬懿のことを仄めかし、曹叡が自ら結論を出した。ただし宮廷の中のことなので詳しい会話は伝わっておらず、結論だけ記した。結論だけ見れば、2人が「司馬懿を」と口に出したに等しいのだ。ということか。 クールな陳寿が、孫資・劉放の国家への忠誠を最も伝えている。ぼくの孫資に対する印象は、陳寿の評に最も近いかなあ。   著者は三者三様に「孫資・劉放は結論めいたことを言わなかった」と伝えているが、この混線ぶりが面白いね。これが、陳舜臣『曹操残夢』になると、劉放が曹叡の手を握って、後見を司馬懿にすることを「代筆」しちゃうのです笑 小説ゆえの演出だけどね。
  ■エピローグ 曹芳が即位すると、孫資・劉放は、加増・加官が繰り返され、三公待遇。 246年、2人とも老年ゆえに退官した。司馬懿が曹爽を処刑したときも、蚊帳の外から様子を見守っていたようです。   孫資の子は、孫宏で南陽太守。孫宏の子は孫楚で、「天才にして英邁博識、郡を抜いている」と晋代に評された。討虜将軍・ヒョウ翊太守。孫楚の子は孫ジュン、孫ジュンの子は孫盛。 孫盛は『異同雑語』『魏氏春秋』『魏世譜』『蜀世譜』を著した。これらは、裴松之が『三国志』の注によく引用している。   文学・論理学に優れた一族だった、というのは重要ですが、 それよりも、孫資が守りたかった家族が、魏晋という大国に守られて、生き続けたということが嬉しいね。よかったね、と思うのです。おしまい。
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