■三国志キャラ伝>三国鼎立なんて笑止!曹叡伝(2)
■「明帝紀」を読むときの注意 「明帝紀」とは、平たく言えば「曹叡伝」ね。 陳寿は晋の史官だ。晋の正統性は魏から禅譲を受けたことが根拠だ。だから魏の2つの矛盾した面を強調する。まず魏が正統な王朝であること。同時に徳を失った王朝であること。 この両立がかなり微妙だが、陳寿はそれをやった。   「明帝紀」にはこの矛盾が顕著に同居してる。 肯定材料の中身は、以下のとおり。呉や蜀への優位(1回も負けてない)、内政の充実(法律関係が多い)、異民族の平定(マジすごい)など。そして漢から禅譲を受けた王朝であることは、献帝が曹叡在位中に死んだこともあって、くどいくらい確認される。 ※漢>魏>晋というバトンタッチをPRするのが目的。 否定材料は、大土木事業と天体などの凶兆だ。 農繁期にまで人民を借り出すから、魏は徳を失ったんだ!と書いてある。これで曹叡が暴君になる。また、あんまり吉兆が記されない。凶兆があるたびに重臣が死に、晋への代替わりを予告させるような宝物がどんどん出土した。※吉兆のバーゲンセールをやって、辛うじて国威を保とうとしている呉とは大違いだ。 ぼけっと読んでると「魏も落ち目なんやなあ、曹叡の次は三少帝だし、衰退も頷けるわ」と思ってしまう。危ない!それは晋が送った毒電波だ。幻術だ。惑わされてはいけない笑!   ■曹叡は暴君なのか 暴君じゃない。断じてちゃう! 諸葛亮が死ぬや、曹叡は土木狂になる。『秘本三国志』で、それほどキャラの色がなかった曹叡が、いきなり圧政を始めて悪者扱いになったときは驚いた。そんなキャラだったか?と。 ぼくは『秘本』の描かれ方は、適切さを欠くと思う。曹叡の暴走ぶりは、陳寿の筆を差し引いて読み取るべきだ。 魏は統一王朝だ。なぜなら、統一王朝だった漢から禅譲を受けたのだから。統一王朝の皇帝として、建築事業に励むのは当然のことだろう。 呉や蜀の虫けらどもが割拠してるが、彼らが祭る天を無効化するためにも、完璧な都が必要なんだ。「呉や蜀を攻めるとお金がかかるから節約しよう」では、すでに気持ちの面で賊徒に屈服したに等しい。三国鼎立という世迷いごとを認めたことになりかねない。   曹叡の仕事は、たった一人で天を祭ることなんだ。そのための舞台装置を作ることは、必須だ。豪奢な宮殿だって、華美な後宮だって、必要なんだ。「権力を握ると、土木工事が好きになる。権力者特有の病だわ、いやねえ」なんて筋違いの批判だ。 ※民主主義での為政者は、天を祭ってるわけじゃない。高い税率で搾取する権利なんてない。むしろぼくの給料を返してくれ!と思う。でも曹叡は皇帝なんだ。天を祭るという役割があるんだから、高率での徴収は許されるんだ。皇帝とはそういう存在だ。源泉徴収票を見て落ち込むのと同じ感覚で、曹叡の政治を批判してはいけない。    もうここで、発想を転換してしまう。 統一王朝の皇帝なら(相応に人力と資金をつぎ込んだ設備で)天を祭らないことの方が怠慢なんだ。曹叡は真面目に職務をまっとうしていただけじゃないか。批判には当らないんだ。 八百屋で野菜を勧められて「なんだキサマ!」と怒るのは筋違いだ。理容室でハサミを出されて「どういうつもりだ!」と青筋を立てるのもおかしい。例えがセコくなってしまったが、そういうことなんだ。   ■諫言に傾聴する賢明さ? 彼が、馬鹿みたいに暴走してなかった証拠もある。 「明帝紀」では、曹叡が何かをやるたびに諫言にくる人がいる。曹叡は彼らを殺さない。しかし「曹叡は違う意見にも耳を傾けられる、優れた性格の持ち主だった」なんてプラス評は、ジョークだ。 諫言は手続きという面もあるんだ。諫言をしている臣も、土木事業そのものに反対してるんじゃない。そのやり方に意見があるだけなんだ。ちょっとした微調整の提案なんだ。   臣たちは、土木事業に賛成だ。やっと全土統一を果たした皇帝には、きちんとした設備で天を祭ってもらわねば困る。そこの基本認識が共有されているから、曹叡は諫言をした臣下を殺さない。 乱世は(魏の廟堂では)終わっている(ことになっている)。諫言はそのことが前提だ。そこんとこ、誤解したらダメだ。   ■法整備に積極的 曹叡はたびたび、法をきつくしたり緩くしたりしている。 落ち着いたのは、謀反以外の罪は緩めで。そういう感じだろう。謀反人は誰かと言えば、劉禅や孫権のことなんじゃないかな。 中に優しく、外に厳しく。すでに天下統一が完成した皇帝だから、こういう政治をしたのだと思う。
  ■曹叡の死 もう殺すのかよ!かなり端折って書いてきてしまった笑 いっぱい文献を引用して、ぼくがこれまで書いてきたことの根拠を示したかったんです。でも言い訳があって笑 歴史書の構成として「本紀」は目次の役割を果たすんです。まず「本紀」で時代の流れを把握して、そこから気になったところだけ「列伝」に飛ぶという作られ方。だから曹操の「武帝紀」を読むのは大変だし、曹叡の「明帝紀」だってそれなりにしんどい。ちくま文庫で65ページ。マークしながら通読するだけで、疲れちゃったのです笑 夏侯惇、思った(書こうと思った)ことの3分の1くらいしか書いてないけど終わり。郭図(書くと)けっこう疲れちゃって。キーボード打ち過ぎで、手のひらの筋が痛い。   曹叡は36歳くらいで死んだ。享年が怪しいのは、誕生の秘密ゆえ。 内政の整備と呉蜀への対応で、曹叡は有能な部下を巧みに使いこなした。すぐれた采配だと思う。その部下たちが、死後に権力争いをして魏を弱らせちゃうんだよね。司馬氏が、やがて台頭する。   ■帝王の証明 曹叡が死ぬ前に、いかにも皇帝らしいことを言うので、それを引用します。曹叡は司馬懿を呼び寄せた。司馬懿の手を取って言った。 「死すらも堪えて引き伸ばすことが出来るものだ。朕は死ぬのを我慢してキミを待っていた(原文:死乃復可忍、朕忍死待君)」と。 人為が及ばないことを全てひっくるめて「天意」だとして、それを祭る(向き合う)のが皇帝の役目。死は、人間が最も克服するのが難しいこと。人間側の主観で勝手なことを言えば、死は、天が人間に強いる一番のワガママだ。死は絶対に避けられないし、制御できないことだ。 曹叡のセリフは、まるでトイレでも我慢していたみたいじゃないか。死の宿命すらも、そう言って退けた。筆を取れない(脳の血管がヤバい)状態でこんな言葉が出た。常日頃、たった一人で中華全土を代表して天と向き合っていた証拠だと思う。曹叡は、統一王朝の皇帝なんだ。   司馬懿の返答はこうだった。「陛下は、先帝が陛下のことを私にお頼みになったのを、ご覧になったではありませんか(原文:陛下不見先帝属臣以陛下乎)」と。曹丕が40歳で死ぬとき、司馬懿に曹叡を頼んだ。曹叡はこのとき22歳くらい。司馬懿は曹叡をちゃんと盛り立てた。いま曹叡は36歳くらいで死にそうで、皇太子の曹芳は8歳だ。今回も大丈夫だから、安心して死んでちょうだい。 むしろ、司馬懿は言いたかった。私は諸葛亮の侵攻を食い止めたじゃん?と。曹丕はそこまで見込んで、私に遺言したのか。違うよね。私は曹丕の言いつけ以上に働いたんだ。派遣契約だったら、絶対にボイコットするような重たい仕事をやったんだ。司馬懿は、それをアピったんだ笑   司馬懿にしてみれば、曹叡の「死を我慢してた」発言は、プレッシャーをかけるための(文字通りに死力を尽くした)レトリックだと感じたんだろう。司馬懿に後事を託すという信頼、ちゃんと補佐に徹してねという牽制。両方の要素が入り混じった、26歳も年下の皇帝の断末魔。 曹丕と曹叡。こいつら、寿命がもたねーなあ、と思ったんかも。「皇帝って楽してるように見えるけど、激務やねえ」と思ったのかも。曹操はあらゆる戦地を踏破したけど、皇帝にならなかったから、けっこう長生きだったし。オレも皇帝になるの、やめよっかな※そこまでは考えてないはず笑   話が脱線したけど再確認です。曹叡は、統一王朝の皇帝だった。以上です。
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