■最期の戦い
曹丕の死を受け、曹叡が即位した。
このとき曹休は40歳代半ばで、気力充実。
曹休は呉領に入り、皖城で審徳を破った。呉の韓綜・テキ丹が曹休を怖れ、降伏してきた。これにより、大司馬。ついに三公就任。
7通の書状が届き、周魴が曹休に降伏を申し出た。寿春にいた曹休は「皖城を再び攻めたい」と提案して認められた。
曹叡は荊州方面は司馬懿、揚州方面は曹休に任せて、出陣。
曹休が周魴を信じたのは、呉郡を奪還するという人生で最も大切な目標が、ついに実現しようとしていたからだ。興奮して、目が眩んだ。
■本当のわけ
孫権は僭越にも「呉」で王を名乗り、祖父の恩沢ある聖地を穢している。また、曹休の祖父は曹鼎という。孫権は自ら三国の一角となり、天下を支えている気だ。これは、「鼎」の字を侵している。
孫権を討てば、呉郡の奪還に成功し、賊分子による「鼎立」などという虚構も崩れる。孤立した劉禅は、益州の山奥に逃げ込むしかないだろう。
だから曹休は勝ちを妄信して、深入りをしてしまった。
孫権は陸遜を大都督とした。曹休と陸遜は石亭で会戦した。陸遜は朱桓・全琮を両翼とし、曹休が伏せた兵を看破し、斬首捕虜1万余、馬も武器も無数に奪った。
曹休は賈逵に救われたが「賈逵の援軍が遅いから負けたのだ、賈逵は我々が落としてきた武器を拾ってこい!」などと、まるで要領を得ない。もう人として終わってしまった。
曹仁・曹丕の最期を知ってるから、自棄になっても仕方ない。まだ40歳半ばで、若い曹叡を守る仕事が残っているんだが、もうダメなんだ。
■千里ノ駒の死
無様に逃げ帰り、曹休は生ける屍となった。
曹仁・曹休を苦しめた「背中の腫れ物」だが、その正体を、ぼくは「床擦れ」だと思ってる。
柔らかいベッドですら、1日中寝てるだけで、なかなか立ち上がれないほどに背中や腰が痛くなる。ましてや、三国時代のインテリア事情で1ヶ月も横になってれば、死の遠因くらい生じてくるよ。
所注『魏書』曰く、
曹休は母が死んだとき、親孝行の限りを尽くして、哀悼した。憔悴して痩せ衰えたので、曹丕が心配して「酒と肉を摂るように」と送ったが、ますます弱っていった。譙に帰って母を埋葬すると、やっと落ち着いた。
父には複雑な感情を抱いていたが、曹休が肉親を慕うさまは、このように厚かったんだろう。だから、敗戦のダメージと、祖父からの永遠の離別をダブルで食らった曹休は、そら、復活が難しいよ。
■寝台で思い出す
曹休の母が死んだときは、曹丕が立ち直りを支援してくれた。
「母の喪には、気が済むまで服せ。勅使をやり、オレも文烈の母を悼もう。悲しみを抑え、葬儀を執り行ってくれ。埋葬がすんだら、オレのところに来てくれ。話を聞いてやる。せめてもの、慰めの言葉をかけるぞ」
曹丕、キャラ変わってるじゃん!と言いたくなるが、帝位争いがなければ、曹丕も肉親には優しかったのだろう。
ただすでに、起居をともにした「弟」の曹丕はなく。。
曹休は、寝台で何を思ったのだろうか。
「父」の曹操に従って、曹丕と東奔西走した。曹操に「千里ノ駒」と可愛がられた。董卓ノ乱に喘ぐ荊州を、偽名を使って母と走った。祖父の肖像と対面した。あの呉郡の太守府はいま…
そこまでループして、繰り返し絶望したんだろう。ずっと横たわっていると、ろくでもない考えとか、トラウマのような負の衝撃とかを、短い周期で夢に見るように味わうんだ。
■エピローグ
石亭で敗れた年の内に、曹休は洛陽で死去。諡号は壮侯。
あとは曹肇が継いだ。曹肇というのは、孫資・劉放にハメられて、曹叡の遺言騒動のときドジって免官される人だ。
遺言騒動については、このサイト内「孫資伝(附劉放伝)」に書きました。