■三国志キャラ伝>成都で暴発、ママへの叛乱。鍾会伝(2)
■虞松の告白 世説新語に曰く。 中書令の虞松は、上奏文を2回ほど司馬師に提出したが、差し戻しを食らっていた。権力者の「なんか違うんだ」的な漠然とした回答で、途方に呉れるしかない虞松。顔が曇ってた。 通りかかった鍾会が、たったの5字を直したら、司馬師が手を打って「これだ、これだ、これなんだ」と大喜び。誰が直したのかと問われて、虞松は正直に「鍾会くんです」と伝えた。 司馬師は「まさに。校正をプロ並にやってのけた鍾会なら、大きな仕事を任せられるぞ」と喜んだ。   ちなみに裴松之は、この世説新語のエピソードには否定的ですが笑   ■出世しても、母は怖い。 244年、20歳で秘書郎。 247年、23歳で尚書中書侍郎。母親に「若くして出世したんだから、周囲に妬まれますよ。落ち目の原因となる爆弾を背負ってることを、忘れないで。謙虚にね」と釘を刺される。。 249年、曹爽の油断たっぷりのお墓参りに随行して、司馬懿のクーデターを一緒に喰らう。母親は「司馬懿は大型兵器を持ってないそうです。息子が死ぬことはないでしょ」とコメント。。 254年、30歳で関内侯。 255年、31歳のとき、毌丘倹の叛乱。司馬師に寄り添って密謀をめぐらす。司馬師の死後は、本営で軍事を仕切り、黄門侍郎、東武亭侯。母親は「人を騙すような作戦を立てるのは、卑しむべき行為です。でも、心を正しく持てば、ご先祖様にも顔向けできるから、励むように。身分の低い人にも、コツコツと丁寧な言葉遣いで接し続ければ、君子になれますよ」と、魏で5本の指に入る息子を、ちくちくお説教。。 257年、33歳のとき、諸葛誕の叛乱。生母の服喪にて、討伐は欠席。でも呉の全氏をハメる作戦を、裏方として実行。   いつも母親は蒼か紺の地味な着物しか着せてくれなかったし、金銭や絹をどれだけ下賜されても、返却させられていた。それももう解放だね!   ■母亡き後の出世。 全氏をハメた功績により、幕営で「鍾会さんは、子房だ!」と称された。荀彧に追いついたわけです。荀彧が曹操のところにやってきたときに「我が子房(張良)」と叫んだのは有名な話です。 司馬昭は、鍾会を太僕に任じたが、辞退。中郎として、大将軍=司馬昭のブレインに徹した。陳侯も辞退。慎み深いのは、まだ母の墓の土が固まってないからですよ笑 やがて、司隷校尉に昇進。 この間に、せっせと母親の墓土を踏み固めているんだ。
  ■蜀の滅亡!本性むき出し! 262年の冬、38歳のとき、鎮西将軍・仮節都督関中諸軍事。蜀討伐の準備ですが、表向きは呉討伐のため。唐咨に海洋船を尽くさせたりしてる。カムフラージュです。 263年の秋、39歳のとき、十余万の軍勢を指揮って、斜谷道を下ることに。討蜀の総大将ですね。 遠征=母の墓から離れた開放感からか、母の喪が明けて安心したのか、このあたりから鍾会は、うるさい母親の教えを破るようになります。マザコンの反動って、怖いね!   進軍中、橋に穴が開き、馬の足がハマった。施工管理wをしたのは、あの許褚の子である許儀。まあ、建国の功臣中の功臣の息子です。しかし鍾会は「雑な仕事してんじゃねえよ」と言って、許褚の子を斬ってしまった!慎み深くねえ! 陽安口に出て、諸葛亮の墓参りを命じた。 陽安の関城を落とし、兵糧を奪った。それを聞いた姜維は、しょんぼりしてUターンし、剣閣に籠もった。   鍾会と別働していたのは、諸葛緒の三万余。鍾会は「諸葛緒は、やる気ないっぽいから、囚人として洛陽に送り返すからね。三万余は、オレが仕切るぜ」と独断専行。慎み深くねえ!   もう1人の別働隊は、鄧艾の三万余。なんと、毛氈(モウセン=毛布のイメージしかないんですが笑)に包まって難路を突破し、劉禅を降伏させてしまった。しかし鍾会は「オレより目立ってんじゃねえよ。諸葛瞻を斬るなんてハイライトまで、さらいやがって。囚人として洛陽に送り返すからね。三万余は、オレが仕切るぜ」と独断専行。慎み深くねえ! 世説新語曰く、鍾会は人の筆跡を真似るのが巧かった。鄧艾の筆を真似て「が、がい、艾は大した功績はありません。しょ、蜀が滅んだのは、す、すべて鍾会殿のおかげです。っていうか、し、しばしょ、司馬昭の、ば、ば馬鹿野郎」なんて書いた。 これにより洛陽(=司馬昭政権)では、鄧艾は大した働きもないのに不遜な奴だ、ということになった。適当に想像して書きましたが、いくら鄧艾が吃音だからって、書面までドモらないか笑   ■ついに建国のとき 263年12月、蜀を討った功により、司徒・県侯。 「もう人の下で、穏やかな人物のふりをする必要はないぜ。強大な軍は、オレの手中だ(諸葛緒と鄧艾から奪った)。地の利も、オレにある(蜀は守りやすい土地)。もし天下を統一することは出来なくても、せいぜい劉備くらいにはなれるなあ。オレの作戦は、毌丘倹を討ったときから、1度も失敗してないし」   264年正月十五日、成都に到着。 蜀の政堂に、かつて劉禅に仕えた文武百官を集めて「先月お亡くなりになった太后(曹叡の正室の郭氏)の喪に、みんなで服そうね。それから、太后が死ぬ直前に、司馬昭を廃せよとお命じになったからね。」と発表した。 郭氏、よく偽勅がクーデターの名分にされるねえ。奇縁の人です。司馬懿とか、淮南の三叛とかで、よく名前が出てくる笑 しかし、蜀の人たちにいきなり「敵国の太后の死を悼め」と命じるあたりが、傍若無人ぶりがよく表れてて好き。
  ■この世で母より強いヤツ。 蜀の軍を解体して、自分の手のものを付けた。 しかし、鄧艾を捕縛するという「目的」で、司馬昭が長安に駐屯。おまけに帳下督の丘建が裏切った。 鍾会は、丘建の旧主である胡烈を、罪に落としていたんだね。だから、丘建としては、鍾会を許せなかった。でも鍾会は「ぼくは丘建が好き。信頼している。それで何か不足がありますか」という程度の認識だった。っていうか、そこまでも考えてなかった。意識の外だった。   内から外から攻められた鍾会は、「やっべ、敗れちまう」なんて焦ったが、新しい盟友の姜維は「攻めればいいんとちゃいますか」と、まるで要領を得ない。戦うことしか考えていない! 鍾会は、城壁を挟んで大乱闘に挑み、五人くらいを格闘で倒したあと、斬られた。享年40歳。母親が死んでから7年しか持ちませんでした。   鍾会は、母親の窮屈な教育に対して、ずっと打開策を考えていた。心の中の母親を乗り越えるには、倣岸にリベルを起こすくらいしか考えられなかった。やっと母親に克ったけれど、「君主として立つ」ことの難しさに、まるで気持ちが回っていなかったね。 あえなく、鎮圧されて、終わってしまいました。あーあ。 「もし」を持ち出すのは反則ですが、鍾会が「丘建くんのために、胡烈の罪は許しましょう」なんて処置をしていたら、鍾会&姜維が率いる「蜀」軍と、司馬昭が率いる魏軍の衝突が見れたんだろうね。つくづく、惜しいことをしてくれました。おしまい。
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