■三国志キャラ伝>孫策+周瑜+張昭≠諸葛恪伝(6)
■親友との天運問答 ここで諸葛恪の親友が登場します。丹楊太守の聶友(ジョウユウ)です。遠慮なく解説抜きの文章の書き方をしてきたけど、彼の姓には思わずルビを振ってしまった。諸葛恪の友達だから、名前が「友」だとか、そういうしょーもない役どころのキャラじゃないと思う。それにしてもマイナーだなあ。 聶友曰く「孫権さまは東関で魏を食い止めようとしていたが、実現しなかった。きみは孫権さまの遺志を継ぎ、みごと東関で魏の撃退した。これは、宗廟のご先祖・山川天地の神霊・社稷の神々のご加護だ。これ以上攻めようとしても、天の時がそれを許さないだろう。魏を攻めるのは反対だ」と。   なんだか神がかりの諌め方だけど、ぼくはこう読み替える。「孫権さまは、東関さえ確保しておけば、充分に国を保つことが出来ると考えていた。東関という場所のセレクトは、長年の分析の成果を反映したものでしょう。安易に無視していいものじゃない。もうちょい落ち着いて、考え直せよ」かなあ。   しかし聶友の手紙は、諸葛恪の反論魂に火をつけた。 諸葛恪はまず、自著を書き写した。前述のちくま訳4ページ半に相当する「魏を攻めるべし」という話ね。陳寿が意訳してまとめてるんだろうから、原典はもっと長かったはずだ。それをわざわざ書き写したということは、よほどその内容が自分で好きだったということだね。ぼくだって、自分でうまく書けたと思う文章は(迷惑をかえりみずに)たくさんの人に読ませてしまうから。 自著を書き写した後に、諸葛恪は手紙をくっつけた。 「きみには自然の道理が分かっていても、大きな天運の移り行きが見えないのだ。私の著作を読んでくれれば、ご理解いただけるだろう」原文では「足下※有自然之理、然未見大数。熟省此論、可以開悟矣」 ※のところには「口」の下に「虫」と書く漢字が入ります。何かの簡体字かも知れないけど、知識がなくてこのまま。おそらく理解するという意味の動詞のようです。   いいねえ。滅亡の兆しが見えてきたよ。自分が全てを理解したように振舞う人間には、必ず天からの制裁が下るんだ。べつに天が狙い撃ちして雷を落とすわけじゃない。自分から、破滅の道を歩んでしまうんだ。 天は人間が思うとおりには物事を運ばない。それは不易の鉄則なんだ。謙虚に生きてれば、その天意と人為の相違の深淵に、足を踏み入れることがない。だが諸葛恪みたいになった途端に、天と人とのギャップを一身に背負い込んで圧死する。 諸葛恪は人々の反対を押し切って、20万の軍勢を繰り出した。人々の間には騒動が起こり、諸葛恪は支持を失っていった。   合肥新城で戦が始まるのは253年5月。ほぼ我慢することなく、出発しちゃったんだね。欲しいものがあっても誕生日まで待たなければならない、とかそういう教育を施さずに育てると、こういう人間が出来上がるんだろう笑   ■自分勝手な不敗神話 包囲すること数ヶ月。生水を飲んで下痢に、栄養不足で脚気に。多数の死傷者は泥だらけで、打ち捨てられた。この惨状を聞いた諸葛恪は「ウソの報告ばかりしやがって」と、役人を斬ろうとした。でも自分が失敗したことを知っていて、内心は恥じていた。 合肥新城攻めを批判した朱異は、兵士を取り上げられた。蔡林は作戦中止が容れられないので、魏へ逃亡した。 魏が反撃にかかったので、諸葛恪は撤退した。撤退のとき、士卒たちは隊列を組んで進むことも出来ず、路傍で倒れたり略奪を受けて捕虜になったりした。諸葛恪は、それを無視った。 諸葛恪は長江の岸辺まで戻ると、1ヶ月屯田を起こそうとした。何をやってるんだろうねえ。わずかでも結果が欲しかったんだろうか。いじけてただけ?しかし矢継ぎ早に詔が発せられて、都に帰った。   同じ年の秋8月に、中書令の孫モクを呼びつけた。 「お前たちは勝手に詔を発して、なぜ私を呼び戻したんだ」 諸葛恪ワールドでは、おそらく戦はまだ負けてなかったんだね。屯田で食料補給をして、兵士の数と士気を復活させて、また攻め上る途中だったんだね。あまりに自分勝手な理屈だよ。諸葛亮は李厳に呼び戻されて撤退したけど、あれは23%くらいは惜しかった。でも諸葛恪の場合は、1%も惜しくないから。 諸葛恪は「私が出払っているときに任命された人事は、全部無効だからね」と言い、親しいものを任用した。再び命令を出して、青州・徐州に攻め入る準備を始めた。 253年の戦は、まだ負けてない、という意識だろう。自分の願い=天意になっちゃってるから、他人からは理解不能な理屈だって、一点の曇りもなく信じられる。そして、自分に迫る危機に鈍感になる。   ■暗殺にまつわる怪奇現象 諸葛恪ほどの人物になると、暗殺に逸話を欠かない。あるキャラが死ぬとして、ここまで伏線や伝説が生まれるってことは、かなりの特別待遇ですよ。それを陳寿が残してくれてる。孫呉の人々にとって、諸葛恪の存在が大きかったことが偲ばれるね。 もし全部がウソだったとしても、口伝えで興味深く語られているうちに、どんなことでも真実(だったこと)になるんだ。   皇帝の孫亮と孫峻は、諸葛恪の暗殺計画を立てた。 諸葛恪は孫亮に目通りする前日、胸がざわついて眠れなかった。顔を洗った水が生臭かった。侍者が着せようとした上衣も生臭かった。水と衣を代えさせても、臭いは変わらなかった。※きっと衣は部屋干ししたんだ。そうでなくても、長いこと皇帝に拝謁してないから、服がかび臭かったんだね。一見すると下らない話だけど、諸葛恪が皇帝を蔑ろにしてたことが分かるエピソードなのかも。 門を出ると、犬が諸葛恪の着物をくわえて引っ張った。諸葛恪は「犬が行くなと言ってる」として、家に帰った。思いなおして再度外出しようとすると、また犬が邪魔をした。※出勤したくない日は、ぼくも同じことが起きる。黒猫が横切るのと同じだね。 かつて諸葛恪が遠征するとき、喪服を着た男が諸葛恪の役所に迷い込んだ。迷い込んだ張本人に聞いても「自分でも知らぬ間に入って来てしまいました」と言った。厳重な警備をなぜ突破できたのか、誰にも分からなかった。諸葛恪が遠征してるとき、諸葛恪が務める建物の屋根の棟が真ん中から折れた。撤退のとき白虹が諸葛恪の船に現れ、帰還後に孫権の墓参りをしたときも白虹が馬車にまとわり付いた。   張約や朱恩が諸葛恪にメモを見せた。「宴会の準備が尋常ではありません。ご警戒あれ」と。諸葛恪は引き返そうとしたが、滕胤と鉢合わせした。諸葛恪は「腹が痛い。でも途中下車したら間に合わないしなあ」と言った。滕胤は孫峻の企みを知らず「あなたは遠征より戻られてから、まだ陛下に会ってない。行くべきです」と言った。   諸葛恪は毒殺を警戒して、酒に手をつけなかった。孫峻は「お腹が痛いらしいですね。だったら普段から飲んでる薬酒をお取り寄せ下さい」と言った。諸葛恪は、信頼のおける持ち込みの酒に酔った。持ち込みが発覚した場合は1万円だが、彼は堂々とやらかした。 孫亮が奥に入った。孫峻は厠へ立ち、武装して再登場すると諸葛恪をめった斬りにした。『呉録』では孫亮が暗殺に居合わせたことになっており、「私には関係がない、私には関係がない(非我所為、非我所為)」と怖がったので乳母が奥に連れて行ったことになる。このとき孫亮は、11歳。孫権晩年の息子である2世皇帝には、是非とも暗殺現場に立ち会ってもらいたいね。   『捜神記』にいう。諸葛恪が殺されたのと同じ頃、諸葛恪の妻は婢女に言葉をかけた。「どうしてお前は血の臭いがするの」。婢女は「そんなことございません」と答えた。時間が経つと、血の臭いは酷くなった。 妻は婢女に聞いた。「お前は目がギョロギョロしてて、普段と違います。なぜですか」と。婢女は急に躍り上がると、身長が大の男並みになっており、腕まくりして歯軋りをし「諸葛さまは孫峻に殺された」と言った。    ■諸葛恪の暗殺からの宿題 孫亮と滕胤と孫峻、それから先ほど保留にしてた孫弘はまた後日考えましょう。そうしないと、暗殺現場が立体的に描き出されない。 またこのサイト内「諸葛恪伝」の冒頭でぼくが引用した『志林』では、諸葛恪の暗殺と費禕の性格が同じものであるとしている。最高権力者が軽率な振る舞いをしたために、暗殺されちゃったんだよーという話です。費禕を(間接的にでも)殺したのは諸葛恪だということにぼくは位置づけたので、『志林』の指摘はより意味深なものになるよね。   おしまいです。 諸葛恪は孫呉の国是に挑戦した人でした。確立した地方政権としての孫呉は、ずっと孫権を君主が務めていた。例外がなかった。孫権が死んだとき、孫呉がどういう国家になるのか誰も分からなかった。 孫呉は君主が誰であろうと守る国なのか、それとも(守るという方針は孫権の個人的な性質に属しており)君主が代わったら孫呉は三国統一を目指せる国なのか。 諸葛恪は後者という仮定のもと、孫策+周瑜+張昭の才能を全て自分が持っていると信じて合肥新城を攻めた。孫策+周瑜+張昭を合体させれば、天意に限りなく肉薄できると思っただろう。万能だと思っただろう。しかしミスって暗殺されちゃった。 一休問答も勘違いによる突っ走りぶりも、すごく好きです。
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