■包囲されて半年が経ちました。
ここまで長い戦いは珍しいのだが、狂戦士の姜維をいなしておけば、魏朝は諸葛誕の面倒に集中できるのです。司馬昭が皇帝を連れてきたのは吉と出ています。
年が明けて258年正月。
文欽「敵は油断しています。攻めましょう」
まあ、何と陳腐な戦機の見極め方でしょう。こっちは降伏者が続出し、敵はきっと慢心しているはずだ、という甘い見積もり。
暇つぶしに作った大型兵器で、昼夜ぶっ通しで6日間も攻撃をしかけた。しかし包囲軍は高い櫓を築き、上から諸葛誕たちの抵抗を圧殺した。
文欽「北方人(=毌丘倹のときも足を引っ張った、魏からの借り物の兵)は城外に出しましょう。食料を食いつぶすばかりです。呉の人(=私が亡命した先で親しんだ兵)と団結して固守すべし」
諸葛誕「勝手なこと言うんじゃないよ。死ね」ザシュッ!
文欽の子、文鴦と文虎は小城を支えていた。
父親が殺されたことを知り、司馬昭に降伏した。司馬昭は、これを許した。
数百騎を率いて、文鴦に寿春城の周りを走らせた。「私は首謀者・文欽の子でございます。ご声援ありがとうございます。このたび、私ですら赦されました。皆さんが赦されないわけが、ございません。清き降伏をなされてはいかがでしょう。宜しくお願い致します」
■諸葛誕の三族皆殺し
文鴦の揺さぶりで、寿春の戦意は氷点下。
司馬昭はBGMの最大音量で(陣太鼓と喚声MAXで)総攻撃を四方からかけた。諸葛誕は飢餓で智力が果て、邪神に頼っても霊験虚しく、単騎で逃亡した。
司馬昭の司馬(ジョークみたい)胡奮は、諸葛誕を捕まえて斬った。三族皆殺し。三族とは、祖父の兄弟まで男系を遡り、そっから分岐した血縁者全員のことらしいです。先週の土曜日に習った笑
諸葛誕の旗下の数百名は「諸葛公のために死ねるのだ。悔いなし」と言って斬られた。
『晋紀』曰く、彼らは胸の前で手を組まされ、列を作って1人ずつ斬られていった。1人斬るたびに「降伏するなら、助命してやるが」と言われたけれど、誰も降伏しなかった。
諸葛誕が集めた彼らの忠義は、本物だったんですね、という話。
っていうか、決死の連中は死に場所やカッコ良さを求めて已まないから、諸葛誕の人望をこの事実のみで評価するのは間違いだと思うんだけど。
このとき、258年2月。
諸葛誕はきっと50歳になる前くらいでしょう。
彼はついに大戦術家に生まれ変わるチャンスを引き寄せることなく、ずるずると滅びていった感じだね。
■文欽と唐咨のこと
最後まで寿春城に残っていた文欽と唐咨について、陳寿は「附」として人物伝を書いています。
立体的に淮南の三叛を見るには不可欠な2人なんですが、またの機会に譲ります。特に法螺吹きの文欽が気になって仕方がない。
■司馬昭の徳政
司馬昭は寿春城内の自壊を待ち、無理に攻めなかった。
けっこう評価が高いようです。
また、諸葛誕の乱を治めた後、論者は言った。
「淮南は頻繁に叛逆します。孫呉も治安を乱します。加担した奴らは、全員穴埋めにしてしまえば良い」
これに対して司馬昭は、
「中国(中原=魏朝)の度量を示す良い機会だ。穏当に行こうぜ」と言い、淮南や孫呉の捕虜を三河(河南・河東・河内)に分散して移住させた。
淮南の清掃、やっと完了。長かったね。
これで反司馬氏の芽を積んだかと思いきや、まだまだスッタモンダを繰り返すんだから、さすが三国志が三国志たる所以です。
まだ適切な評価を与えられたとは全く思ってないけど、王淩・毌丘倹・諸葛誕の人生を、陳寿に寄り添って見てくることが出来ました。お付き合いありがとうございました。
次は、魏の初代三公とか、三少帝紀とかをやってみたいけど、どうなるかは未定です。せっかく三国志なので「三」に因んだシリーズがいいなあ、と思ってます。