■諸葛恪、跋扈!
252年、朱績は鎮東将軍。年末、諸葛恪が東興で大勝利した。朱績としては、面白くないよねー。
諸葛恪はヒドい人物なんだが、それを孫亮の後見とした孫権も孫権だ。諸葛恪への怒りは、孫権=国家への不満として蓄積していくシステムです。
253年春、諸葛恪は調子に乗って、合肥新城を攻めようとした。年末と春っていうと、現代日本では半年弱くらいブランクがありそうだけど、旧暦では「直後」ですよ。
諸葛恪は、朱績に言ったんだろう。
「諸将らは、私の功を妬んで、今度の出兵に反対している。非常に残念だ。だが、この戦で魏を討ち滅ぼせると、ボクは踏んでいるんだ。そこでだ。かの呉の名門、朱氏の血を引く朱績殿には、作戦の策定の段階から加わってもらいたい。是非とも頼む」
なんて、巧みに自尊心を踏みにじりながら、いちいち癇に触れながら。
朱績としては「知るか!自分で考えろ!私は、紀南のことを忘れていない」と言いたいところだっただろう。だがそこは大人になって、あれこれ意見を述べたんだろうね。
どうせ諸葛恪のことだから、朱績にさんざん発言させておいて、後からそれを言葉巧みに否定して見せて、「まだ何か反論はありますか」なんて皮肉っぽく笑っていたんだろうが。
きっと朱績の発言には、それなりに良いアイディアが含まれていた。諸葛恪は全て却下した振りをして(内緒で)採用した。急ごしらえの出兵だし、賛同者がほとんどいないし、ネコの意見も借りたかったんだ。
しかし諸葛恪は、机上で空理空論を弄び、朱績の提案をつまみ食いのように採用したんだろう。だから、朱績が建策したときの作戦の長所が、殺されてしまった可能性は大。だって、諸葛恪なんだから!
■諸悪の根源は諸葛
ついに出陣の段になって、諸葛恪は朱績にお手紙を書いた。幕営の間を、短文の木簡を持った使者が、せわしく往復するのです。
※全部想像の会話です。
諸葛恪「朱績殿は後方で、半州を守っていて下さい」
朱績「今さら、何を。私が第二陣では?」
諸葛恪「いいえ。第二陣には、ボクの弟、諸葛融を宛てます」
朱績「諸葛融殿は、第四陣ではなかったか」
諸葛恪「二陣と四陣を、諸葛融が兼ねるのです」
朱績「兼任が務まるほど、軽い場所ではない。精兵を宛てなければ」
諸葛恪「そう。だから、あなたの兵は我らが借り受けます」
朱績「何ということか」
諸葛恪「(手柄を立てるのは、我々なのだ)」
とまあ、非常に邪悪なわけです笑
さらに悪いことに、諸葛恪はこの対陣で病を流行らせ、大敗した。まるで、逆赤壁ですよ。しかし恪は「ボクのせいじゃない」と嘯いて、人々の反感を買った。さすが、大物は違います。好きです。
■朱績の謀反モーション
253年冬、諸葛恪と諸葛融は、孫峻に誅殺された。
このころ朱績は、「朱」姓を捨てて、施績に戻る念願を果たした。
256年、孫峻が諸葛恪に殴られた夢を見て笑、急死!従弟の孫綝が執政。
257年、施績は驃騎将軍。
施績は、身内で潰しあってる執政官たちを見て「この国は、もうダメだ。朽ちるところまで、朽ちてしまった」と思った。
ひそかに書簡、蜀漢に送った。
「いま曹魏が攻め下って来たら、この国は滅んでしまうかも知れません。あなたの国と私の国は、長江で繋がっています。兵を荊州の境界に集め、曹魏に牽制をかけて下さい」
これを受け成都では、右将軍の閻宇に兵5000を付け、白帝城の「守備」を強化した。閻宇は、施績からの指示を待っていた。
このときの蜀漢は、諸葛亮、蒋琬、費禕が死に絶えて、姜維がバグって北伐を繰り返していた。もう国家の体(てい)を成していないんだが、いつでも公然と攻め下れるということだよね。
蜀漢の侵攻を許すほうが、腐敗臭のキツい建業を野放しにするより、施績にとってはマシだったんだろうか。末期ですね。
■蜀漢の断末魔
258年、上大将軍・都護督。巴丘から西稜(江陵)までの守備にあたった。副官は、陸遜の末子である陸抗が担当していたようです。
施績は、そろそろ60歳。長江下流では諸葛誕が挙兵し、洛陽では司馬昭が晋公をこれ見よがしに辞退した年だ。
同年9月、孫綝は2世皇帝の孫亮を廃して、孫休を立てた。同年12月、3世皇帝の孫休は、孫綝を殺害。もう、なるようになれ!という感じです。
263年10月、蜀漢から「鍾会・鄧艾が攻めてきた。助けて」との連絡が入った。施績が整備した連絡ルートが、有効に機能していた証拠です。連携が取れています。
丁奉には「寿春へ進め」との、施績には「荊州から、魏を侵攻せよ」との指示が下った。丁奉も施績も、ともに老将の域です。
しかし、劉禅が早々と降伏してしまったため、戦は起きず。孫呉は指をくわえて、鼎の脚を失ってしまった。二国時代というか、統一王朝とただの賊ノ国という構図になってしまった。
264年、孫皓の即位により、左大司馬。ただの名誉職でしょう。
■エピローグ
270年、死去。
孫皓の暴政に亡国の旋律を聴きながら、いたたまれない気持ちになっていたんだろうねえ。この年、孫皓の弟の孫秀が、東晋に投降しちゃってる。
施績は「朱績」から解き放たれ、穏やかに目を閉じた。朱治が孫堅に合流してから、およそ85年。3代で、孫呉の盛衰を見てきたねえ。おしまい。