■三国志キャラ伝>孫権が絶対服従のオヤジ殿、朱治伝(2)
■諸葛瑾の仲裁
ぼくが今回、朱治伝を書いてみようと思ったのは、陳寿の諸葛瑾伝を読んでいて、以下の記事を見つけたからです。決して、朱治伝の単体が面白かったからじゃない笑
孫権が、朱治に強い不満を持ったことがあった。しかし平生より、孫権は朱治に礼を尽くしていたため、みずから詰問することは憚られた。孫権は言いたいことが言えず、怒りが内攻するばかりであった。
諸葛瑾はそれを勘付き、あからさまに指摘せず、「自問自答してみたい」と言い出した。諸葛瑾は、孫権の面前で手紙を書くと、ひろく道理を論じて朱治を責めた。次に諸葛瑾は、朱治になり代わって、弁明の手紙を書いた。
2通の手紙を書き終わると、諸葛瑾は孫権に差し上げた。孫権は笑って、喜んだ。
「納得がいった。顔回の徳は、人に親密な関係をもたらしたと言うが、諸葛瑾が今やってくれたようなことを指しているのだろうか」と。

めでたし、めでたし。
  
傍若無人でストレスフリーに生きた孫権を、ここまで苦しめた朱治って、どんな人物だろう?
そんな興味から朱治について、詳しく見てみたわけです。
 
■憎きオヤジ殿へ
さて、孫権は朱治に、なぜ腹を立てていたのでしょう。
どこにも書いてないし、いつのことかも分からないから、想像するしかないのだけど。
「もし文台殿がご存命なら、若君の行動をどう思うでしょうな。文台殿なら、そんなことはしないだろうに」みたいな感じで、孫堅のカゲをチラ付かせたんじゃないか。
これに基づけば、諸葛瑾が「自問自答」の振りをして書いた手紙は、こんな感じになるのでしょうか。
 
「朱君理には4つの越度がある。
1つ、君臣の道理を弁えていないこと。
いくら功がある者と言えど、いくら年長であると言えど、臣は臣である。君を侵すことは、亡国の兆しである。もっと慎み深く、へりくだって振る舞うべきである。
2つ、父上の名を、容易に口にすること。
父上は董卓を破った唯一の英雄であり、父上への敬慕ノ念が、孫氏三代に仕える者を固く結び付けている。軽々しく持ち出して、色を付けてはいけない。威を借るなど、諸将の和を乱す行いである。
3つ、反証ができない論法を操ること。
オレは、幼くして父上を亡くした。父上は転戦につぐ転戦で、故郷に戻られなかった。オレは、父上を知らん。父上に託して物事を述べられると、反論ができない。正しさを考える余地すら、許されていない。これは、公平性に欠く。
4つ、周知の功績を、敢えて口にすること。
オレは、朱君理がどれだけ果断で有能な人物であるか、充分に認めている。三代にわたる忠勤も、よく分かっている。今更くどくどと、自ら誇るようなことをしても、煩わしいだけだ。朱君理は、オレに対して、あたたかく導くような度量を身に着けなければならない」と。
 
■愛苦しい愚息、権くんへ
これに対して、朱治の弁明はどうなるかな。
私が権くんを諭すのは、心から孫氏を思うためである。
権くんは、幼少にして父を亡くし、若くして兄まで失い、諸将を率いる立場になった。私は成長を望むし、孫権くんには成長する義務がある、と思っている。私は、もう主君の死を体験したくない。そのための教育なのだから、不足することはあっても、充足することなど、あり得ない。
江南の覇者となるには、帝王学を習得してほしい。権くんにとって、お父上の孫堅様について知り、袁術から独立するまでの戦歴を知ることが、帝王学の基礎となる。だから、こうして噛んで含めるように、繰り返し過去のことをお話しているのだ。
私の態度が、育ち始めた権くんの矜持に障るのであれば、謝らねばなりません。すまなかった。ただ、私から見ると権くん、いや仲謀殿は心もとないところが、まだ少し残っているのだ。僭越は許してほしい」と。
 
孫権は、諸葛瑾が書いた「朱治の弁明」を、ときどき読み返して、愛情を感じていたんだろうねえ。陳寿の「朱治伝」曰く、
孫権は呉王になったが、朱治が目通りにやってくると、自ら出迎え、笏を執って互いに拝礼を交わした。朱治のために宴会を開き、賜り物をするなど、厚い待遇を加えた。
朱治に付いている役人までが、みな奉げ物をして、孫権に個人的に目通りすることを許されていた。

いいねえ。あの孫権が、孝行しちゃってるよ!

 ■孫氏のご意見番
孫堅が早くに死んじゃったから、朱治が次代の孫氏に対して、いろいろとアドバイス(苦言とも言う)をしたことが、陳寿の朱治伝にある。
孫翊(孫権の弟)が、性急で容赦がない性格で、喜怒の感情に任せてムチャばかりした。朱治はそれを責めて、道義を諭した。
孫賁(孫権の従兄)の娘は、曹操の子に嫁いでいた。曹操が荊州を下すと、孫賁はビビって息子まで人質に出そうとした。朱治は出張って、孫賁に時流を説いた。
「孫堅様は、曹操より強かった。孫策・孫権の兄弟も、才能に恵まれた。いま劉備が助けを求めてきたのも、曹操がバカでヒドいことの証拠だ。長江に拠れば、曹操を破ることが可能だぞ」と。
つまり、国家のために娘を見捨てなさい、と言っているんだ笑
 
■朱治の晩年
朱治は国家に尽くしたが、慎ましい性格で、贅沢もしなかった。
孫権は、朱治に自治権を与えた。すなわち、督軍と御史(どっちもチェック係)に命令して、「朱治の城の文書は、彼らだけで処理を完結させなさい。朱治には4郡の租税を扱わせて、自活してもらおう」とした。
もし孫権が皇帝で、異姓の王侯を認める体制になってるなら、軽く朱治を封じちゃってる勢いです。
 
朱治の城には、孫氏や呉郡ノ四姓たちが押しかけて、数千人も集まっていた。数年に1回、朱治が孫権にご機嫌伺いの使者を出すと、その人数は数百人になった。朱治が呉郡から故ショウ(朱治の故郷)に国替えになると、古老や友人達が詰めかけ、一緒に酒を飲んだ。
 
朱治が死んだとき、69歳。
なかなか子が出来なかったので、姉の子である施然を養子にもらってきてました。朱治を継ぐとき、姓を改めて、朱然とす。
あのセンセーショナルなお墓の主、朱然の誕生です笑 おしまい。

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