■三国志キャラ伝>呂蒙の二枚舌遺言の真相は?朱然伝(3)
■阿蒙は阿蒙 呂蒙は、気合だけが売りの軍人だった。孫権に諭され、魯粛にたしなめられ、学問を励んだものの、本性は簡単には変わるものではない。   魯粛の死後、その後任になったが、すでに国家戦略は周瑜と魯粛が描きあげた後だった。そのため、荊州の陣取り合戦にだけ専心することが、呂蒙の仕事だった。それは、生粋の軍人だった呂蒙にとっては、身の丈にあった仕事だった。 「呉下の阿蒙にあらず」で名を挙げたものの、国家レベルの補佐なんて出来るわけなく。   ■魯粛の臨死ビジョン 魯粛は、呂蒙に全ては語らなかったが、こんなことを考えていたのかも知れない。あくまでぼくの妄想ですが。 すなわち、 益州を執って天下を二分するという、稀有壮大な事業を狙った周瑜。 益州を掠め取った劉備に、協調路線で余裕を与えるという「投資」を行った魯粛。劉備がどれだけ曹操を揺さぶって、孫呉にリターンをもたらすか、観望していたんだね。   しかし、投資にはリスクが付き物。劉備を放置することに、思いのほかメリットがないと判断した魯粛は、死に臨んで「損切」を決断する。 損切とはすなわち、境界を接する荊州で、じわじわと劉備にプレッシャーをかけること。その役には、兵法も分かる(それなりに無鉄砲で非常識な)強い軍人が適任だった。だから、呂蒙を後継にした。 もし呂蒙が武運に恵まれていれば、荊州を征圧し、益州も手に入れるだろう。そうなれば、周瑜の狙いが成就することになり、大変な儲けモノじゃないか。呂蒙なら、やってくれるかも知れない、と。   ■阿蒙の遺言の真意 呂蒙は、自分に与えられた役割が何だかよく分からないが、とにかく「劉備を討つべし」とだけは理解していた。周瑜の背中を見て育ったのだから、なんとなく益州も(夢想として)視野にあったのかも知れない。   呂蒙に語ってもらうと、 自分は関羽を追うように死ぬことになったが、次は長江を遡っての決戦になるだろう。巴丘の悲劇を雪げるときだ。弱気の益州を掃討するならば、軍人として粘りと根性のある朱然が、自分の後任として相応しい。 陸遜は、関羽を欺くために総大将をやってもらったけれど、名族の風を吹かせて(いるような気がして)虫が好かない。強敵をいなす戦、欺いて矛先を逸らす戦なら、陸遜だ。だが、次の戦に陸遜は使えない。   こうして、確かな人物眼を持ちつつも、微妙に大局を見誤ったまま、阿蒙は死んだんじゃないかな。劉備が2年のブランクを経て長江を下ってくるところまでは、病床の阿蒙にとっては見通すことができなかった。
  ■もう一つの、夷陵ノ戦 劉備が攻めてきたとき、朱然は江陵にいて、当然に自分が総大将のつもりだった。だが、孫権の経営判断により、陸遜が総大将になった。 怒涛に攻めてきた歴戦の梟雄が相手なんだから、「踏ん張ってれば、道は開けるさ」という戦い方しかしない朱然では、孫権は心もとなかったのでしょう。もっと創意工夫のできる、頭脳派に頼りたかった。呂蒙の見積もりとは、状況が違うわけで。   陳寿「陸遜伝」には、陸遜が従えた部将の筆頭に、朱然の名前がある。 韓当みたいな宿将も名を連ねているのに、朱然の名がトップにあるのは、不自然です。なんか、総大将を誰にするか葛藤した爪痕のようで、ぼくはちょっとテンションが上がったりするのです。   朱然は荊州の自陣で、自分が単なる「別働隊」になってしまったことを知り、複雑な気持ちになったんじゃないかな。「聞いてませんが!」と怒ったに違いない。孫権のやり方は、卑怯と言えば、本当に卑怯。巧妙と言えば、また巧妙です。 陸遜が諸将の突き上げに遭って「孫権様から任されたのは、この陸遜です。命令違反は処罰します」なんて見得を切らざるを得なかったのは、こういう状況があったのかも。 みなの言い分としては、 「朱然殿に、総大将をやらせるのが道理ではないのか。死んだ呂蒙も、そう言っていたはずだろう」と。さらに悪いことに、持久戦なんていうストレスのたまる戦術を展開するものだから、不満が暴発寸前になったのは、仕方がないことです。 陸遜は、若いと言っても40歳前だし、無名と言っても山越の討伐は順調にこなして来ている。まして、血統がいい。孫策の娘も娶っている。総大将として問題があるとしたら、朱然との総大将問題くらいじゃないか。   ■孫権の匙加減 陸遜は孫権の期待に応え、劉備に勝利した。そして、単なる将軍ではなく、国家を経営していく立場の人間に、華麗なる転進を遂げていくのでした。 戦功があるのだから、陸遜の出世を誰も咎められない。それは孫権にとって、とてもやりやすい状況だったはず。 孫権と朱然は、机を並べて学んだ仲だから、決して嫌い合っているんじゃない。でも、向き不向きがあるわけで。朱然は、あくまで「強い軍人さん」以上ではない。朱然の顔を潰さずに、有能な陸遜を上に上げていくには、たびたび陸遜に戦をさせ、勝ってもらうっきゃないのです。   孫権はそれとなく、惚けたのかも。 「呂蒙が病に倒れるとき、言っていたじゃないか。私の後継に相応しいのは、陸遜です、と。だから陸遜が、いま国家を取り仕切っているんだ。何か問題でもあるのか?」なんてね。   呂蒙自身、病状に波があったのでしょう。苦しくなったら、その場その場の最適解を遺言していた。それが後年、(結果論として)失言になったり、二枚舌っぽくなったり、利用されたりもしたのかな。
  ■朱然伝のエピローグ 245年、陸遜が憤死した。 建国に携わった武官・文官たちが、みな死んでしまっていた。朱然は宿老として、2世たちを率いた。諸葛融(諸葛瑾の子、諸葛恪の弟)や、歩協(歩騭の子)などが朱然に従った。朱然は、篤い礼遇を受けた。 朱然の子の朱績が、諸葛融と対立しますが、それは別の話です笑   陸遜の死の翌年、朱然は病に倒れた。 孫権は節食し、眠らず、医薬や食物を朱然に届けさせた。朱然の病状を伝える使者には、直接面会し、酒食を与え、布帛を授けて帰した。孫権の心配ぶりは、呂蒙や凌統が病気のときに次いだ。っていうか、呂蒙や凌統には及ばないわけね笑 陸遜に遅れること3年で、朱然は248年に死んだ。後は、子の朱績が継いだ。話が二転三転して、お見苦しかったと思いますが、おしまい。
トップ>三国志キャラ伝>呂蒙の二枚舌遺言の真相は?朱然伝(3)