■三国志キャラ伝>呂布・劉備と同じ穴の梟、太史慈(3)■丹楊太守、僭称
劉繇は孫策に破れ、豫章に逃げた。
太史慈は劉繇の供をしていたが、道中で姿を晦ました。きたないね。落ち目になった途端、劉繇を見限った。
太史慈は、丹楊太守を自ら名乗り、屯府(軍事的な行政機構)を作った。すなわち、独立だ。孫策が掌握し切れていない、揚州西6県と山越を味方に取り込んだ。
洛陽で上章をビリビリにしたときと、同じだ。州の役人と一緒に逃げると見せかけて、自分だけ戻って、きっちり自分のために仕事をしたんだ。
■孫策の捕虜
孫策は太史慈をいち早く撃破して、前に引きずり出した。孫策の攻撃に堪えられたら群雄の仲間入りなのだが、国の経営なんて出来ないのが、太史慈クオリティなんだ。
独立し損ねて、縄目の恥辱を受けるという意味では、呂布に似ている。呂布の方が、陳宮を少し用いた分だけ、長続きしたんだが。
孫策「太史慈の縄を解け。さあ、太史慈。あの神亭での一騎打ちを覚えているか。もしあの時、あなたがオレを捕えていたら、どう処分されていたか」
太史慈「分かりません」もちろん八つ裂きだったぜ!しかし今は、オレが捕虜なんだ。迂闊なこと言って、孫策の機嫌を損ねてはいけない。
孫策「はははは。今はこうしてオレが勝った。オレは、あなたがオレにしたであろう処遇と同じことを、あなたにさせてもらう」
太史慈「恩に着る」八つ裂きなんて言わなくて良かったぜ。じゃあ、孫策坊の好意を利用し、寛大な処置を口にしてやる。
孫策「太史慈は義の人だ。万事、ご心配は無用ですよ」
太史慈「私があなたを捕えたなら、門下督として兵を預け、折衝中郎将に任じたであろう」※ここまで具体的に言ったかは分からん笑
孫策「じゃあ、オレも太史慈殿を、そう遇しよう」
孫策がどこまで分かって、太史慈を優遇したのか、分からない。
投降者を鄭重に扱って、さらなる投降を誘うという政治的狙いはあるだろう。一騎打ちで引き分けた(片思いの)友情を大切にしたのかも。太史慈のこれまでの行動は、一見すると忠義だから、目を眩まされたのかも知れない。捕縛されて尚、太史慈が演じた、得意の詐術コミュイケーションに幻惑されたのかもね。孫策はただ、底抜けに明朗な青年だった、という理由だけで充分な気もするが。
とにかく孫策が、太史慈を重んじたのは事実だ。
■意外に冷静な孫策
豫章で劉繇が死に、一万余人が浮いた。
太史慈曰く「オレが、彼らを収容してこよう。オレは、何を隠そう、元劉繇の将だ。そして、孫策殿と一騎打ちをして兜を奪ったんだ」と。
最後の一言は余計で(それっぽいから、ぼくが追加した笑)、それが気に障ったのか、それ以前に「信用できない」という評は一般化していたのか、誰もが「太史慈はきっと、北に走って戻ってこない」と言った。
北とは、曹操と袁紹だろうね。
孫策は「大丈夫だ。太史慈は裏切らない」と言って昌門で太史慈を見送り、腕を取って別れを告げた。
孫策はこのとき「太史慈は、オレを棄てて、他に誰と力をあわせるのか」と発言してる。どうやら孫策は、太史慈のしたたかさを見抜いてる。
その上で、孫策は自信たっぷりに「オレが一番強いんだ。太史慈のような賢い曲者なら、オレに従うのが一番トクだと分かっているだろう」と言ったのでは? どうだろうねえ。
裴注『江表伝』は、このとき孫策にたくさん喋らせている。
「太史慈、宜しく頼んだぞ。オレはかつて袁術の手先となり、劉繇殿を攻めた。袁術に人質を取られていたから、仕方なかったんだ。しかし劉繇殿は意固地で、オレの説明を聞いてくれる風ではなかった。すでに劉繇殿がなく、和解できなくて残念だ。
ただ、お子の劉基殿が、華歆のところにいるはずだ。劉基殿に、オレの気持ちを伝えてくれ。そして、華歆殿の治めっぷりも、視察してきてくれ」と。
孫策はしっかりしたもので、劉繇への信頼を口にすると思いきや、劉基の取り込みと部曲吸収、華歆攻略の情報集めを命じてる笑
■太史慈の約束
孫策は太史慈に「いつ戻ってくるだろうか」と問うた。
太史慈は「最長で60日です」と答えた。
先の『江表伝』には、みなの率直な太史慈へのイメージが語られている。
「華歆と太史慈は、同郷だ。華歆の参謀になるだろう」
「太史慈は、黄祖に身を寄せて、北方に帰るだろう」
これを受けて孫策は、
「太史慈は、権謀術数の人じゃない。約束を守る。心配無用」
とフォロウをした。しかし、それは孫策の本音とイコールではないだろう。配下たちが対立していては、これから外征を繰り返すとき、組織が持たない。だから、こうして宥めたのだ。
別のシーンに当てられている話だが『呉歴』では、太史慈の「走れメロス」ぶりが描かれている。
孫策は、太史慈の帰還予定日に、部将を呼び集めて酒食を準備し、竿の影で時刻を測った。正午になると太史慈は帰ってきて、孫策は大喜びして、太史慈に軍事に関する意見を求めたという。
ただの宴会で終わらず「今回約束を守ったから、キミの意見を聞くのだぞ」という報酬の与え方が、成長期の勢力らしいですね。
『江表伝』では、戻った太史慈が「華歆はろくに政治を出来ず、徴用もままなりません。将来を見通して行動する能力がありません」として、調査結果を緻密に緻密に報告した。孫策は手を打ってゲラゲラ笑った。
なぜ笑ったのか?1つは、『江表伝』が伝えるとおり「豫章を平定できるぞ」という見通しだ。
しかしもう1つは、「太史慈の奴は、華歆とオレを天秤にかけたな。華歆を値踏みして、頼るには足らないと判断したから、戻ったんだ。やたら詳しく視察したようだが、仕官するかどうか判断するためだろう」だ。太史慈の本音を見透かして、若き天才は愉快で仕方がなかったんだ。
■この病に効くのは、あの薬だけ
劉表の従子の劉磐は、しばしば孫策を侵した。孫策は、太史慈を建昌都尉にして、防がせた。
太史慈は腕が長く(劉備と同じだ)弓術が得意で(呂布と同じだ)楼上で悪口をあびせる賊の手を、柱に矢で縫い付けたほどだった。鎮西八郎為朝は、馬に武将を縫い付けていたよね笑
曹操は、太史慈に手紙を送った。開封しても白紙で、当帰(薬草、当ニ帰ルベシという謎かけ)だけが入っていた。曹操が「故郷に帰っておいで=オレに仕えないか」と言っているんだ。
太史慈はきっと「帰りたい!」と叫んだんだろう。このとき孫策はすでに倒れ、曹操は袁紹を破っていた。どう見ても、華北に行ったほうが栄達できるんだ。めちゃめちゃチャンス!
しかし孫権も立派なもので「劉磐を破ったあなたには、南方全般の統治を任せる」なんて言って、彼を曹操から隔てた。甘寧が黄祖と衝突して脱出できなかったという逸話があるくらいだから、赴任地の位置は、投降の成否に大きく関わるんだ。
2年後に赤壁(呼応のチャンス)を控え、まだ曹操は壷関で高幹と向き合っているとき、太史慈は病に倒れた。
所注『呉書』には、臨終の太史慈が嘆息して「男に生まれたなら、七尺の剣を帯びて、天子へのきざはしを昇るべきものを!実現せずに死ぬとは、何ということか」と言った。享年41。
おそらくこの太史慈に効く特効薬は、当帰だけだったんだろうね。いちおう孫権は悼み悲しんだことになってるが、そんなのはマナーの範疇だ笑
■エピローグ
赤壁をきっかけにして、同類たる劉備が、荊州4郡に根拠地を得る。そして、望蜀の野心をむき出しにして、鼎立に持ち込む。ああ、悔しい。
太史慈の息子、太史享は、尚書を経て呉郡太守、越騎校尉。そんなこと、何の慰めにもならん笑
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