だいたいの人物像は知っているけど、詳しくは語れない陳式と陳武。べつに混同することはないけど、彼らについて知らないことが残っていれば、いつか間違えるかも知れないよね笑
あんまり豊富ではない歴史書の記述を網羅して、このモヤモヤと決別しようと思います。
■陳式の全記述
魏書「徐晃伝」曰く、
曹操は、徐晃と夏侯淵に、陽平で劉備を防がせた。劉備は陳式ら十余軍を派遣して、馬鳴閣を断ち切った。徐晃は別働して、これを打ち破った。陳式らの軍は、山野に身投げして、死ぬ者が多かった。
曹操は喜んで、徐晃に節を与えた。
布告するには、「馬鳴閣は、漢中と中原を結ぶ喉首である。劉備はここを断とうとしたが、徐晃が失敗させた。善のうちの善だ」と。
蜀書「先主伝」曰く、
222年春正月、劉備が秭帰に帰還し、呉班・陳式の水軍が夷陵に駐屯し、長江の東西岸を挟んで陣取った。
蜀書「後主伝」曰く、
229年春、諸葛亮は陳式に武都と陰平を攻撃させ、勝利を得て2郡を平定した。
蜀書「諸葛亮伝」曰く、
229年、諸葛亮は陳式をやって、武都郡と陰平郡を攻撃した。魏の雍州刺史ノ郭淮が、陳式を討とうとした。諸葛亮は自ら出撃し、建威まで行ったので、郭淮は退却した。かくして、2郡を平定した。
■少ない陳式
以上で陳式の記述は終わりです。『演義』では、漢中で黄忠の将として夏侯尚との人質交換があり、のちに諸葛亮の怒りに触れて死刑になりました。人質交換では、2人が馳せ違った瞬間、双方から矢がピュンピュン飛んでたね。
陳寿の父という俗説があるが、特に根拠はなし笑
キャラ立ちする要素が、まるでないじゃないか!『晋書』にある、馬謖の参軍だったという、陳寿の父と合体させて、『演義』のように仕立てるのは、非常に上手くやった創作ということになる。
■陳武の全記述
蜀書「董允伝」の裴注曰く、
子の陳表は、父の陳武をしのぐ才能の持ち主だったが、伝記を別に立てていない。陳武と陳表はともに偏将軍であって、位階が同じだった。だから、陳武と陳表はセットなのだろう。
※単なる陳寿『三国志』への史書学的考察。事績を伝えてない。
呉書「孫皓伝」処注の陸機「弁亡論」曰く、
董襲と陳武は、我が身を殺して主君を守った。
※孫呉が滅びた原因を論じる中で、「昔は良かったなあ」と語っていく内に、陳武の名前も出てきた。
呉書「陳武伝」曰く、
陳武、字は子烈。廬江郡の松滋の人。寿春の孫策に拝謁した。
18歳で185センチ、孫策に従って長江を渡って転戦し、別府司馬。孫策が劉勲を破ると、廬江の人が多く捕虜になった。捕虜から精鋭を選りすぐり、陳武が指揮をすることになった。最強だった。
孫権に代わると、陳武は五校尉の目付役になった。思いやりが篤く、気前が良かったので、同郷や遠方から流れてきた者に頼られた。孫権も、幾度も陳武の家を訪ねた。偏将軍になった。
215年、合肥で戦死した。孫権は葬儀に臨席した。
呉書「陳武伝」処中『江表伝』曰く、
陳武が死ぬと、孫権は陳武の愛妾を殉死させ、部曲=二百戸の租税を免除した。
■少ない陳武
陳式と同じように、めちゃめちゃ記述が少ない。これじゃあ、よく分からんよ。『演義』では、黄色い顔に赤い瞳という修飾が付くんだが、本質的なキャラ立ち問題の解決になってない笑
■疑わしきは孫権
裴松之が残してくれたんだが、孫盛は、殉死させた孫権を批判した。
(先例1)秦では、穆公に3人の有力な臣が殉死し、外征ができなくなった。(先例2)魏君の愛妾は、殉死を免れて再婚できた。秦が魏を攻めたとき、秦の杜回は草に足をとられて、捕えられた。草を結ぶ罠を提案して国を救ったのは、殉死を赦された愛妾の父だった。
以上、殉死なんてろくでもない。孫呉の短命も、当然だ、と。
孫権がなぜ愛妾を殺したのか分からない。ただ、陳武の妻たちは、えげつない嫉妬や見栄の張り合いをしてたみたい。
陳武の正妻は、まず陳脩を生んだ。妾は、次に陳表を生んだ。陳脩が陳武を継いだが、若死にし、陳表が後を継いだ。
陳表の母は「家を継いだのは私の子だ」ということで、正妻の言うことを聞かなくなった。陳表は、実母に警告した。「もし正妻たる義母に従って頂けないなら、別居して下さい」と。
こういう家の面倒を嫌って、孫権が火種を始末したのかな。
それとも、孫権がたびたび陳武の家に行ってることから、妾のうちの1人と密通があったとか笑
陳武はそれに気づいていたが、孫権の顔を立てるために、妻たちを抑えていた。でも、陳武が亡くなって、妻たちの喧嘩の中から「実は私は、呉王と」なんて飛び出してくるのを、怖れたんじゃなかろうか。
こういう下衆の勘繰りを招いてしまうから、孫盛は、孫権のとった処置を批判したんかも知れないけどね笑
以上、かなり空腹のままの放置になってしまいますが、歴史が陳式と陳武について、ほとんど伝えていないから悪いんだ。
それが分かっただけでも、良しとせざるを得ないね。080210