■三国志キャラ伝>「私は、馬鹿は嫌いです」陳羣伝(3)
ガキ皇帝の曹叡が即位した。   ■忠臣とは、陳羣のことだ。 祖父や父がそうであったように、学者官僚としての上表が目立つ。王朝の重石として、慎み深く働いていたようです。   裴注『魏書』に曰く、 陳羣はたびたび、政治の得失について密奏した。 提出後、陳羣は下書きを廃棄した。だから(皇帝以外)誰も陳羣が何を言っているのか、知らなかった。 心ない論者の中には「陳羣は高位を占めてるだけで、何もしてないんだろ」と言う人がいた。 240年代、曹芳のとき、『名臣奏議』という、上書のダイジェストが発行された。郡臣は初めて陳羣が作成したドキュメントを見て、感嘆した。   裴注『袁子』にある。 Aさん「楊阜は何でも正面から諌める。彼は忠臣か」 Bさん「ちがう。楊阜は、ただの直士である。忠臣には足りない。愛のある仁者が相手の欠点を指摘するとき、会いに行くことを迷い、門に入ることをためらい、門に入っても数回引き換えし、苦しんだ末にやっと、こっそり口に出すものだ。これを忠臣という。忠臣とは、陳羣のことだ」   Bさんの説明には、ぼくがテンポを加えてみたものの笑、 『袁子』にこのような会話が収録されたところから、陳羣は儒家の、正統な後継者だったと感じられる。   ■陳羣の上表内容 おそらく『名臣奏議』があるから伝わっているんでしょうが、陳羣の上書を、陳寿を書き留めてくれました。これは訳文で読んでも、良さが70%減とかなんだろうね。 結論だけ見れば、けっこう当たり前のことを、長々と言ってる。 「新皇帝・曹叡は、正しい心構えで政治を始めよ」 生返事。 「曹真は、諸葛亮を攻めに行っては行けない」 却下! 「苦戦している曹真を、早く呼び戻せ」 しぶしぶ了承。 「曹叡は娘の弔いを大袈裟にやり過ぎだ」 却下! 「曹叡は宮殿造営などの、浪費を辞めた方がいい」 ほぼ却下!   忠言は耳に逆らう、ではありませんが、ほぼ採用されてない笑 まあ、歯止めとして文句を言うのが仕事だから、これでいいのかなあ。
  ■陳羣のハートの中身 なぜか陳寿が「陳羣伝」の最後に、回顧的に書いている。 曹操のとき、劉ヨクは、弟が魏諷に加担した。これは死刑に値したが、陳羣は劉ヨクを弁明した。劉ヨクが御礼に行くと、陳羣は首を横に振った。 「私が刑罰について論じたのは、あなたではなく国家のためである。そして、お許しになったのは、君主殿だ。私は関係ないよ」 陳羣の度量の大きさ、奢らない性格は、このようであった。   うーん。陳寿のような文官肌には美談かも知れないけど、ぼくは「うわっ、付き合いづらっ」と思ってしまう。はたから見れば「ただの建前だろう」みたいな屁理屈を、本心に根ざした信念として貫いたんだ。   陳羣のハートには、何が詰まっていたんだろうか。 (儒教を体現した)祖父・父への尊敬と、(親孝行を含む)儒教の教義が、循環を繰り返してより強固になってく機関があるだけかも。もう第三者が入る余地はないねー   ■九品官人法の狙い 漢代の「郷挙里選」も、陳羣が作った「九品官人法」も、ぼくから見たら大差ない。人事評価権を持っているヤツに力が集まり、金が集まり、人が集まって、誰もが既得権に執着し、腐敗しただけ。   しかし陳羣にとっては、大きな違いがあった。「郷挙里選」は、儒教道徳に軸足を置くから、儒教をおとしめるもの。「九品官人法」は、儒教とは関係がないもの。という。 人間のどうしようもない本性は変えることが出来ないので、世俗から切り離して、大好きな儒教を純化するための方便が、「九品官人法」であるようにしか見えない。言いすぎかなあ笑
  ■余計な心配 『名臣奏議』が出たのは陳羣の死後だ。 陳羣さんは一度も、自己顕示欲を自ら満たそうとしなかった。そして、他人から満たしてもらうことも、なかった。 もし陳羣が、生まれながらの完成された儒徒ではなく、人並みに「褒められたい」「認められたい」という気持ちの持ち主だったとしたら、そうとうな重い人生だよ。心が歪むよ。 陳羣は、「馬鹿」な劉備に見切りをつけた。この出来事から見て、それほど陳羣が滅私的な人物だったとは思えない。 曹叡に却下されまくって、心ない論者に「陳羣さんは、このごろ進言が少ないね。枯れたか」なんて言われて、大丈夫だったんかなあ。   235年、陳羣は死去。後は子の陳泰が継いだ。 陳泰については、また書くかも知れません。おしまい。
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