■黄皓元年
246年、蒋琬も董允も死んでしまった。この年が、蜀にとってのターニングポイントだね。
董允に代わり、陳祗が侍中となった。黄皓と陳祗はつるみ、黄皓が位を上り詰めた。「董允たん、カムバック!」と追慕しないものはなかった。
■陳祗の登場
陳祗、字は奉宗。汝南郡の人で、許靖の兄の外孫。
つまり、許靖の兄の娘が、陳氏に嫁いで、そこで陳祗を生んだということかなあ。
許靖は中身がないけれども、虚名だけあったことで有名。法正が「許靖は、成都の城壁を乗り越えようとした、クズ人間だ。でも、蜀を占領したばかりの今は、しゃあないから太傅にしてやろう」と推挙した話は有名。
幼少で(きっと陳氏が没落して)孤児になり、許靖の家で育てられた。ほおら、こんな環境だから、カラッポ人間が伝染しますよ!
20歳で名を知られ、選曹郎。慎み深くて、威厳がある容姿をしていた。これこそ、後漢の悪風じゃねえか。見かけだけなんだ。
多芸で、天文・暦学・占術もできた。そうそう、こんな家で出来ることを、ひけらかすのも、末世の風潮なんだ。
蒋琬を失った費禕は(一見すばらしい)陳祗を評価して、順序を飛び越して侍臣とした。費禕さんは、けっこう適当なところがあるからね、何となくの雰囲気で騙されてしまったのだろう。
陳祗は、董允がやっていた、侍中守尚書令をもらった。
■費禕のやけくそ
251年に呂乂が死ぬと、呂乂の分まで役職を吸収して、鎮東将軍を加えられた。費禕さんは、もう判断能力があんまりありませんね。
劉禅に気に入られ、人受けが良く、多芸多才の陳祗は、見ていてとても愉快だったのでしょう。もう蜀にろくに人がいないものだから、費禕もポンポンと陳祗に役目を与えてしまう。
陳祗に飛び越されたのは誰かといえば、他ならぬ姜維さんです。彼はつねに軍勢を率いて外にいたので、朝政から遠ざかった。
姜維が批判の的を引き受けてくれてるものだから、費禕は姜維以外がすばらしく思えた。大したことがない陳祗の評価が高まってしまった。そんなものだと思うんですが。
敵を絞ることで、人間は判断の速度があがる。仕事が効率化する。誰かを吊るし上げれば、その他大勢が、団結する動機になる。
でも、大勢の中で、互いの小さな欠点が見えなくなる。ときとして、全体が道を誤る。仲間割れをしている場合じゃなくなる。よくある話だよねえ。
■作敵
劉禅に関して言えば、過去に董允というコゴト魔がいたものだから、陳祗が「いいですよ、いいですよ」と言うたびに、親愛の感情が増していったのかな。陳祗も心得たもので、自分への寵愛が薄れそうだと思うと、「董允はどうだったでしょうね」なんて言ったのかも知れない笑
陳寿は「劉禅は、亡くなった董允に憎しみを募らせ、董允は自分を軽んじたと思い込むようになった。それは陳祗と黄皓のせいだ。彼らの媚び諂いと告げ口が、染み込んで行ったためだ」と言っている。
本当にそのとおりだ。
口無しになった死人に対して、新たに怨みが増えて行くなんてことは、まずあり得ないもんね。生前の悪事に後から気づくというパタンが唯一考えられるが、そんなに積もり積もって行くものでもない。
何でも諸葛亮のせいにしてしまうのは、正確ではないだろう。
でも、諸葛亮が董允に発破をかけるものだから、董允は道徳人になるべく気張り過ぎて、こんな反動を招いてしまった。許靖の薫陶を受けた、陳祗が付け入る隙を与えてしまった。
■一言ごとに涙涙
253年に費禕が殺されて、もう末期。
258年に陳祗が死んだとき、劉禅は痛惜して、言葉を発するたびに涙を流した。ここまで来ると、儒教的なお付き合いじゃなくて、本当に悲しんでいたことが、よく分かります。うまくやったよね、陳祗。許靖から、処世術だけは学んでいたらしい。
劉禅は、泣きながら言った。
「ち、陳祗は、しくしく、侍臣として、朕に仕えること12年。性格は柔和で、善良だった。これは世の手本だった。ひっく。全てに関して、ポイントを抑えて和ませ、あらゆるものに利益を与えてくれた。せめて、美しい諡を与えてやるのが、朕の、さ、最後のギフトだ。ち、忠侯を授ける。ち、ち、陳祗、本当に死んでしまったか。えーん」
ここまで悲しまれた人は『三国志』に幾人かはいるだろうが、柔和を褒められた人って、あんまり例を見ないよね?
■小康状態
陳祗はよくも悪くも調整役だったんだが、彼が死ぬと、劉禅の方しか見ない黄皓が、1人で権力を握った。
陳祗を黄皓と同じカテゴリで批判してしまうのは簡単なんだが、陳祗は内外の平穏のため、諸臣への配慮は欠いていなかったのだろう。それが、蜀の滅亡を遅らせたとも言える。
「名宰相がいないから、現状で精一杯。理想ではないが、よくやっている」という小康状態のような評価は、費禕亡き後に陳祗が仕切っていた、253年~258年を指すべき言葉なんだと思う。
蒋琬と費禕および董允が居たときは、牽制が効いていて、まだ国家の体裁を為していたと思う。不当に低い評価を与えてはいけない。曹爽を跳ね返すだけの、体力があったのだから。
陳祗の死後に黄皓は、黄門令から、中常侍・奉車都尉になり、成都を思いのままにした。そして、鄧艾の侵入を許してしまう。
このとき263年。陳祗の死から、たった5年後だ。
■エピローグ
陳寿の意図を、裴松之は疑っている。
董和と董允は同じ巻に入っているんだが、伝が別々です。間に劉巴と馬良と陳震が挟まっている。陳羣と陳泰、陸遜と陸抗は、父子の伝記がセットなのに、変だなあ、と。
おまけにぼくが分からないのが、董允の敵であった陳祗・黄皓とセットにされていること。気分的に、あんまり1つにまとめちゃダメだよねえ。
諸葛亮伝、蒋琬費禕姜維伝は、とても目立つ。
でも、このバトン劇の裏で、劉禅を取り巻く地味な闘争があったんだね。政治や軍事というよりは、もっと繊細やメンタルな争いだったのでしょう。そわそわと落ち着かない、大きな孤児たる劉禅の面倒を見ていた人たちがいたんですね。おしまい。080120