■三国志キャラ伝>紛らわしい董承と董昭伝
■董昭は2度死ぬ?
董昭が曹操を魏王に推薦する段を読んで、ぼくは立ち止まった。
「あれ?董昭って曹操の暗殺を目論んで、一族皆殺しに遭ったんじゃなかったっけ?生き返ったのだろうか」
吉川英治『三国志』で、張郃が2回も死ぬという伝説があるわけだし、その類かと思った。しかし、違いますよ。曹操暗殺をミスったのは、董承ですよ。日本語の読みはトウショウだけど、別人。
非常にややこしいのであります笑
現代中国語では、発音はどんな感じなんでしょう。
董承:「dong3 cheng2」
董昭:「dong3 zhao1」
おお、だいぶ違うじゃないですか。これなら迷うことはありませんね。
曹操は「cao2 cao1」なので、現代中国語でも姓名の音が似ています。それと同じような悲劇(嫌がらせ)が起きるかと思いましたが、それは回避された模様です。
■2人のキャラをザクッと区別する
ややこしいので、2人がどんな人物なのか大雑把に割ってしまいましょう。
董承:後漢王朝に典型的な外戚勢力。曹操と仲悪し。
董昭:コラボの敏腕プロデューサー。曹操と仲良し。
かなり誤解のある切り方だけど、こんな感じです。
■董承について
外戚というからには、系図で劉氏との癒着ぶりを指し示すのが早道です。
この辺りの血縁関係を文で書いても意味不明だと思うので、系図です。
董承の娘が献帝の側室です。この図には入れなかったけど、献帝の正室は後年に董承の禍を被る伏皇后ですね。手紙事件です。
ただし董承と献帝の血縁は、これだけじゃない。献帝の祖母(霊帝の母)が、董承の叔母です。
ということで献帝から見て董承は2重の意味で「義父」に当たります。頼れるパパです。
ご存知かと思いますが、董太后は何皇后に殺された王美人の遺児(劉協=献帝)を保護した人で、少帝即位後に何皇后(このときは何太后)に殺されちゃいました。董卓が劉協を擁立するときに「同じ董姓で親近感」みたいに書いてある本を見たことがありますが、そんなのは幻想だと思う。
董承は献帝の血縁として、献帝を守り立てることが自己の栄達に繋がった。長安から許までに献帝を守った(=襲った)妖怪たちから、董承は献帝を保護したんだ。同時に「皇帝として天を祭る」という並みの人間には出来ない偉業を託された甥を、精神的に支えたかったんだろうね。
曹操は皇帝としての役割を献帝に丸投げしたまま、覇業という人間の仕事だけに邁進した。天と向き合うストレスは、献帝が一人で背負わされていた。それを董承は見ていられず、痛み分けを願い出たんだろう。
許に留まっていた董承は徐々に感じるようになった。「曹操の野郎は好きなことだけしやがって。劉協くんはこんなに苦しんでるんじゃないか」と。董承は勝手に怒りを燃やして、暗殺を目論んだんだと思う。PTAがやたらに五月蝿いのと同じ理屈だ。本人よりも保護者の方が、教育や待遇に関して注文が多いんだ。
暗殺計画の結果は、記すまでもありません。
■董昭のこと
董昭は、董承と(近いところでは)血縁はありません。済陰郡定陶県の人。
はじめ袁紹に仕えて、界橋の戦で公孫瓉に付きたがったキョ鹿郡を袁紹側に引き込んだ。キョ鹿は張角の出身地として有名だね。魏郡を袁紹に付けたのも、董昭の功績です。
しかし袁紹の下にいられなくなった。弟の董訪が張邈の幕下にあるため、讒言で殺されそうになった。張邈のことは、このサイト内の「袁術が事件解決!怪奇190年代の謎」で登場してもらってます。袁紹と張邈は対立する立場だ。
董昭は献帝のもとへ行こうと思ったが、張楊に引き止められた。
ここで必殺コラボのプロデュース能力が開花。曹操と献帝を結び付けようと発案するわけ。
このとき曹操は「献帝を救いに行きたいから、張楊さんの領内を通らせて」という通知をしていた。張楊はそれを断っていたんだが、董昭は「許可してあげましょうよ」と言った。張楊には「曹操はいずれ強くなりますよ。そうなれば、張楊さんにもメリットがあります」と囁いてOKを取り付けた。
張楊に輝かしい未来なんてないのに笑
献帝は、韓暹・楊奉・董承らが保護していた。彼らは道すがら一緒になって協力するものの、反目してるのが実際。董昭は楊奉が最強のくせに味方が少ないことを見抜き、味方につけた。楊奉は献帝と曹操が一緒になることに協力した。董昭は楊奉を利用するだけ利用すると捨てて、献帝を許にお持ち帰りした。楊奉は没落してデフォルトの盗賊に逆戻りし、袁術を頼った。チーム袁紹の曹操に酷い目に合わされたら、チーム袁術を頼るという仕組みです。
董昭に利用されてた張楊は部下の楊醜に殺されてて、河内太守は空席状態。部下たちが必死に守る城に董昭は単身で入り、城を我が物としてしまった。
曹操と魏公・魏王という位を結びつけたのも、関羽が孫権に恨みを持つように仕向けた(孫権の侵攻をこっそり関羽に教えてしまった)のも、董昭のプロデュースです。
董昭の家には誰も入ることを許されない部屋がある。そこには、カードがいっぱい落ちている。カードには主要な人名・役職名・土地が書いてある。董昭はそこに閉じこもると、すごい勢いでカードを左右でスライドさせてるんだ。まるでゲーム「パネポン」の上級者みたいな感じ。
サササササ。
曹操を魏王に組み合わせることで、頭打ちになってた曹操臣下の官位がぐわーっと上がって、劉備や孫権たちの陣営を圧倒する。そのインスピレーションを得てにんまりする、みたいな。
曹操を公や王にすることって、すごいアイディアだと思うんだよね。劉氏以外で王になるなんて、漢王朝を建てた功臣くらいしかやっていないこと。数百年も先例がないこと。君主すらヒヤヒヤすることを提案してしまった董昭の直感は、すごいと思うよ。臣下が王になることは簒奪の常道、みたいなイメージがあるが、実は革新的な発明なんだ。
222年、曹休は無謀にも孫呉を攻めたいと言った。董昭はこれに反対だ。そこで、曹休の軍勢に、もうハングリー精神を失った臧覇を参加させて全体の意欲を殺がせた。これも、董昭が仕組んだナイスなコラボです。そもそも、曹丕の軍事行動はコケると、相場が決まっているからね笑
曹叡の時代に81歳で死ぬまで、あらゆる高官を歴任した。これは、曹魏の功臣として晴れやかな人生を歩んだからでしょう。董承と混同するなんて、もってのホカですよ。
極めて簡潔になってしまったけど、董承と董昭が別物だと整理ができたところで、本稿は終了です。こういう混同がぼくを襲ったら、また似たような人物伝をやろうと思います。
■トップ>三国志キャラ伝>紛らわしい董承と董昭伝