■三国志キャラ伝>曹操の双子、淳于瓊伝(2)
■デビューは黄巾?
淳于瓊は、曹操ときっと同世代なんだ。袁紹よりちょっと下かな。
黄巾の乱では、官軍の一員として奮戦。曹操とそっくりで、30歳前後の次世代のホープという感じ。※想像です。

霊帝の御世。中原の周縁では戦闘が繰り返されていたものの、後漢に屈強な正規軍はいなかったんだろう。朱儁とか皇甫嵩とか、とりあえず方面軍の将みたいな人は育ってたけど、現場レベルの指揮官はいなくて。朱儁たちだって、公の官位と王朝の権威を背景にして、タルい戦をしてたんじゃないか。いわゆる三国志的なヒリヒリする駆け引きなんて無縁だろう。
 
そんな時代だからさ、いったん黄巾の乱みたいなマジな戦闘が中原で起こると、個人的な武勇&智謀の勝負になるのだろう。敵味方とも兵法なんて未経験だから、常人よりもちょっと秀でてキラリと光るものがあると、途端に目立つし、戦局を左右するんじゃないか。
曹操は華々しいデビュー戦を飾るし、きっと淳于瓊もこのときに名を挙げたんだ。宦官と外戚の憎みあいにうんざりしてた。セオリーどおり地道に孝廉に挙げられて、、、みたいな官途(官渡じゃなくて笑)を歩んでもしゃあないな、という20代を過ごした。
そんなとき、一躍、己の才覚だけで注目される時代が来たんだ。
 
西園八校尉は、いわば首都の防衛部隊だ。
黄巾の乱は(北の果ての)冀州が花盛りという印象があるけど、もっと喫緊の問題だった。洛陽が素でヤバかった。脅かされた。霊帝はビビって、有能な若者たちを抜擢したんじゃないか。
宦官は淋しさと下半身を慰める手伝いをしてくれるけど、基本的には非力らしいからね。
ここで袁紹・曹操とともに、淳于瓊が名前を連ねた。ただし、八校尉に参加したからって、将来の群雄へのパスが支給されたわけじゃない。蹇碩・袁紹・曹操・淳于瓊の他に、あと4人の校尉がいたはずじゃん。鮑鴻・張融・馮芳・夏牟です。まるで名前を聞いたことがない。彼らはどこに行ったのか、調べる気が起こらない。どうやら、何人かは地味に首都防衛の役割を果たしつつも早めにお亡くなりになったらしい。 
八校尉になっても、未来の見えないこの時代、霊帝すら手探りなのだから、集った気鋭の実力者たちも手探りだったんだろう。
 
■袁紹と曹操と歩調は同じ
董卓が洛陽を席捲して劉協を頂いた頃に、袁紹も曹操も出奔する。
董卓は袁紹を宥めすかそうとして官位をバラまくけど、淳于瓊に位を与えたという話は載ってなかった。まあ曹操も無官で洛陽を逃げ出すのだし、その道中で殺人をやらかすことになってるし、淳于瓊も似たようなものかな。
中原が混乱して、とにかく董卓の手の届かない場所に逃げなきゃ!という恐慌です。
 
袁紹を盟主にした董卓討伐同盟が結成されるんだけど、淳于瓊は名前を連ねてないよね。誰でもいいから(馬騰でもいいから)武将の名前を引っ張ってきて「十八鎮」を形成させる『三国演義』でも、淳于瓊は登場しない。
董卓を嫌って華北あたりに逃げてきた有力な武将という意味では、淳于瓊にとって(史実と虚構の境界を取っ払った)活躍の場が用意されていると思うんだけどね。『演義』的には、淳于瓊は袁紹の間抜けな部下という位置づけだから、群雄扱いするわけには行かないのか。
袁紹に保護されつつ無位無官で私兵で無茶をした曹操の方が、よほど登場の資格はないと思うのだが、それは気のせいだよね笑
 
■曹操はライバル
反董卓が下火になって、曹操は袁紹の下でせっせと領土の切り取りに精を出す。初めはジョークみたいな地位だったけど、実力で存在感を増していく。呂布を片付け、袁術を片付け、ついには袁紹に反旗を翻すまでになる。
同じころ淳于瓊も袁紹の下で、せっせと武勲を立ててたんじゃないか。袁紹と曹操が決戦をする頃になって、やっと沮授から分割相続して監軍になったのです。※沮授は死んでないけど笑
 
曹操は袁紹から独立する方向に突っ走り、淳于瓊は袁紹が率いる軍の中で影響力を増すことに突っ走った。袁紹という強大な既存勢力を認め合った上で、元西園八校尉の同僚として、彼らはライバル心を燃やしていたのかも知れない。少なくとも、淳于瓊は曹操を、同格のライバルとして見ていたんだろうね。はるか黄河の北からね。
 
献帝をどうしてやろうか、という議論をしているときに、沮授・田豊・郭図に混ざって淳于瓊が発言した。これは単なる筋肉バカ(麹義・顔良・文醜)とは一線を画し、文武に秀でた陪臣として淳于瓊が袁紹に評価されていた証拠じゃん。軍事で中原を制し、詩文で名を残した曹操に通じるかも?
官渡の結果が示すように烏巣は要衝中の要衝だし、張郃がソワソワしたように淳于瓊の勝敗は袁紹軍の命運を左右した。もし淳于瓊が酒浸りのドアホだったら、烏巣の防衛になんか遣わされないもんね。
 
■淳于瓊の最期
烏巣の淳于瓊は、酩酊してボケッとしてたのではない。
曹操を侮って、甘い布陣をしてたのでもない。
 
圧倒的な兵力を誇る袁紹軍にあって、烏巣の瞬間だけに目を向ければ、曹操軍と淳于瓊軍はほぼ同数だったのだ。っていうか、同数であって欲しいね。同数じゃなかったら、淳于瓊がアドバンテージの分だけ兵を下がらせるくらいの演出が欲しいね笑淳于瓊は固めた烏巣の要塞から飛び出して、対等の野戦を曹操に挑んだんじゃないか。西園八校尉だった頃に、曹操と淳于瓊は野心でも語り合って、そのときに確執があったのです笑。それから15年、お互いに自分流に実力を培ってきて、どちらが強いかの結論がついに出る!という。※妄想。
 
しかし曹操は淳于瓊と語り合ったことなど気に留めてなくて、淳于瓊を袁紹軍のしょーもない一部将として邪険に扱い、話を聞こうともしない。
淳于瓊は戦に敗れたことよりも、曹操が自分を対等に見ていなかったことに絶望して死んでいくんだね。袁紹という強大な組織の中で甘えがあった、腐っていた自分に改めて気づく。自信を一気に喪失して呆然としちゃうとか。涙を流すか、血を吐くか、まあその辺りはお楽しみということで。
「オレは権勢と名声を笠に着て、1対1の人間として曹操に遥かに劣っていた」と淳于瓊は思い込んで、がびーん、と。
勝敗は時の運の要素も強いからさ、ぼくはそこまで淳于瓊が曹操に差をつけられていたとは思わないのだが、淳于瓊さん本人がそう思っちゃったら誰にも助けられないから!   
 
■淳于瓊は曹操に劣っていない
淳于瓊は、途中までは曹操と同格で、乱世の境遇としては双子のような存在だった。それは事実だった。
しかしあるときから曹操は淳于瓊じゃなくて、その主である袁紹をライバル視した。その袁紹を、曹操はついに破った。しかし淳于瓊は、あくまで曹操をライバル視し続けた。こんな擦れ違いがまた、美しいじゃん笑
 
結果として淳于瓊は曹操に負けたから、曹操の人生目標の持ち方が正しかった!みたいになっちゃったけど。もし乾坤一擲で曹操が滑ってたら、淳于瓊が曹操の鼻を削いで「ざまあ見ろ」と言っていたかも知れない。
いくらでも可能性はあったと思う。
というわけで、淳于瓊のお話はおしまいです。「油断しまくりの酔っ払い」という汚名は返上できたと思うんだけど、いかがでしょう。

トップ>三国志キャラ伝>曹操の双子、淳于瓊伝(2)