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- 第6回 邪馬台国と州大中正
第4回 司馬懿の晩年、師と昭の行方
第5回 文化事業と、諸葛恪による滅呉
で構想したイフ物語を、少し記述を増やして構想を固めます。目的は、後戻りできないところに進み始めたイフ物語を、骨太にやりきって、曹丕の最晩年・結末まで、見通しをつけたい。
イメージとしては、鄴城(魏国)に文字通り押し込められる。まるで後漢の光武帝や袁紹のように、河北を握ることで、しっかり勢力を固める。その一方で、その他の勢力がつぶしあって弱体化することにより、次代(曹髦)が天下統一できるんじゃないか?という期待を持たせるところで終わりたい。
ホームページにアップしている順序が、前後してますが、ひとつのイフ物語のなかで、辻褄を合わせています。思いついた順に書いているので、こうなります。。
240年代、司馬懿と曹爽が並び立つ
正始十(249)年、曹丕は郡臣を集めて、正月を祝った。
当時の朝廷には、2人の重臣がいた。相国の司馬懿と、大将軍の曹爽である。
司馬懿と曹爽が並び立つまでの経緯を確認する。
◆邪馬台国の使者
はじめ司馬懿は、238年に遼東の公孫淵を滅ぼし、239年に凱旋した。魏帝は、司馬懿の食邑を2県ふやした。『晋書』宣帝紀:天子遣使者勞軍於薊,增封食昆陽,並前二縣。
正始元(240)年正月、東の倭国の使者が、翻訳を重ねて来朝した。遼東太守の弓遵は、建中校尉の梯俊らに詔書と印綬を持たせて、倭国に到達して、倭王の爵位を仮した。曹丕の詔書と財物(金・帛・錦罽・刀・銅鏡・采物)を賜った。
「親愛なる倭王の卑弥呼よ。私こそは、天を頂くものである。倭国もまた天下の一部である。このたび、使者をくれたことを嬉しく思う。財物を贈るから、嘉納してほしい。ところで天命は、必ずしも一所に留まらず、生命もまた永くに続かない。わが魏家も、倭の邪馬台国も、数代先には滅びるかも知れない。だが、心を込めて書簡を交わし、それを記録にのこせば、二千年後の人々も、私たちの交流を知ることができる。私の詩を付けるから、これもまた受けとってほしい」と。
倭王は、上表して曹丕に謝礼をのべた。
『晋書』宣帝紀:正始元年春正月,東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國,弱水以南,鮮卑名王,皆遣使來獻。天子歸美宰輔,又增帝封邑。
『三国志』東夷伝:正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯俊等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,並齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物,倭王因使上表答謝恩詔。曹丕は、「いま東夷の使者が、私をしたって来朝したのは、司馬懿の功績である。司馬懿の食邑を増やす」と詔した。
◆太子の夭折と、曹叡の失脚
240年、曹丕の太子である曹郁が、13歳で夭折した。第3回 曹丕の後嗣について曹丕は、政治に対する情熱を失い始めた。曹丕は詔を出した。
「悲しいかな、曹郁。きみは最愛の郭皇后の唯一の子であり、私の宝であった。帝王の素質に優れて、必ずや曹魏の天命をになうべき人物であった。惜しいことに、弟の曹沖とおなじ13歳のとき、天命を終えてしまった。日月は西から東に流れ、惑星は運行を乱れている。私は帝位にあることが20年に及ぶが、わが責務を果たせぬだけでなく、曹氏に降った天命をいたずらに費やし、継承にも失敗した」ぼくが適当に書いてます。庶長子の曹叡が、弔問に訪れた。曹叡は、じぶんが曹丕の子のなかで最年長であることから、父を激励するために政策を提案した。
「皇帝陛下に申し上げます。曹魏の天命は確かなものでありながら、天下統一が進まず、太子までも失ったのは、天に対する祭祀が正しくないからです。円丘に昊天上帝と、曹氏の祖先である舜を祭りなさい。南郊に黄帝含枢紐と、武皇帝を祭られますように」と。史実では、文帝の黄初期、後漢の祭祀を踏襲するのみ。『宋書』巻十六 礼志三より。曹丕が長生きすれば、この踏襲が長びいたと思われる。曹叡が景初期の礼制改革を、高堂隆の献策に基づいて行う。曹丕は、曹叡に反論した。
「曹郁が死んだのは、天子である私が、天の祭り方を誤ったからではない。人間には、おのずと寿命が定められており、曹郁の寿命が短かったのもまた、天命である。また私が天子として頂く所の天とは、漢の献帝から継承したものであり、漢と異なるものではない。祭る方法もまた、漢と同じであるべきである。もし、祭祀の方法を変えれば、私が20年前に行ったことは、禅譲では簒奪となり、後世のそしりを受ける。二度と口にしてはならない」
さらに曹叡は、曹丕にいう。
「陛下のおっしゃるとおり、寿命は必然が伴うものです。今日、漢から天命が去って20年が経ち、天下の人々も世代が交代しております。いつまでも漢に固執することなく、魏家は魏家なりの天命を得ることが、情勢を打開する方法だと考えます」
曹丕は、「曹郁の死は、私にとっては哀しみだが、お前にとっては歓びであろう」と憎まれ口をきいて、曹叡に命じて、平原に帰国させた。
この判断を巡って、郡臣が反論した。
史実で、司馬炎が司馬攸を斉国にゆかせるとき、みんなが反対する。これと同じことが起こったのだろう。「かつて太子であった曹叡は、徳性をそなえ、政策や礼制をめぐる議論においては、右に出るものがない。彼を要職につけることなく、却って洛陽から遠ざけるのは、魏家にとっての損失です。太子の曹郁さまを失った今日、皇子の曹叡さまが皇帝のそばにいて、日夜、激務を輔佐するのは、道理にかなうことです」云々。
史実では、239年に曹叡が死に、曹芳が皇帝となり、失政能力がなくなったことに伴う人事。このイフ物語で定めた、240年のできごとに引きつけ、異動を1年遅らせた。曹丕は許さず、曹叡は失意のうちに就国した。
◆司馬懿と曹爽への政務の委任
曹丕は、なき郭皇后と、なき曹郁のことを思って、詩の創作に耽った。洛陽の宮殿を改築して、白く大きな平面を準備し、親子3人の親しむ絵を描かせ、心をなぐさめた。
政務が滞り始めたので、郡臣は曹爽を執政者に推した。曹丕は、実子の曹叡には厳しいが、帝位を継承する血筋にない曹爽のことを、一族の子弟として可愛がっていたからである。
曹爽は、「私は適任ではない」と言って、司馬懿を担ぎだした。衆論の一致をまち、中書監の劉放は、孫資に詔書を代筆させた。
「司馬懿は、荊州で孫権を防ぎ、雍州で諸葛亮を防ぎ、幽州で公孫淵を滅ぼした功臣である。司馬懿を大司馬として、侍中・持節、都督中外諸軍・録尚書事とする。いっぽうで曹爽は、父の曹真の代より、2代にわたって朝廷で功績を立た功臣である。曹爽を大将軍として、侍中・持節として、都督中外諸軍・録尚書事させる。司馬懿と曹爽は、それぞれ3千人の兵を統べて、朝政にあたれ」と。
『晋書』宣帝紀:及齊王即帝位,遷侍中、持節、都督中外諸軍、錄尚書事,與爽各統兵三千人,共執朝政,更直殿中,乘輿入殿。爽欲使尚書奏事先由己,乃言於天子,徙帝為大司馬。朝議以為前後大司馬累薨於位,乃以帝為太傅,入殿不趨,贊拜不名,劍履上殿,如漢蕭何故事。これを受けて曹爽は、弟の曹羲に上表をつくらせて提出した。
「聞きますに、虞舜は賢さの序列に基づき、稷・契を上位としました。殷湯王は、功績の序列に基づき、伊尹と呂尚を上位としました。天下の道に達するには、3つの道があります。道徳、爵位、年齢です。わたくし曹爽は、宗室として、司馬懿と同列になりました。しかし、全てにおいて司馬懿に劣ります。司馬懿を、相国・大司馬として、私の上位において下さい」と。
曹爽伝 注引『魏書』曰:爽使弟羲為表曰:「……臣聞虞舜序賢,以稷、契為先,成湯褒功,以伊、呂為首,審選博舉,優劣得所,斯誠輔世長民之大經,錄勛報功之令典,自古以來,未之或闕。今臣虛闇,位冠朝首,顧惟越次,中心愧惕,敢竭愚情,陳寫至實。夫天下之達道者三,謂德、爵、齒也。懿本以高明中正,處上司之位,名足鎮眾,義足率下,一也。包懷大略,允文允武,仍立征伐之勛,遐邇歸功,二也。萬里旋旆,親受遺詔,翼亮皇家,內外所向,三也。加之耆艾,紀綱邦國,體練朝政;論德則過於吉甫、樊仲;課功則逾於方叔、召虎:凡此數者,懿實兼之。臣抱空名而處其右,天下之人將謂臣以宗室見私,知進而不知退。陛下岐嶷,克明克類,如有以察臣之言,臣以為宜以懿為太傅、大司馬。」「諸君はどう思うか」
曹丕は判断を放棄した。郡臣は、
「大司馬になった者が、たびたび在位中に死んでいます。司馬懿どのを大司馬にするのは、不吉ではありませんか」
と気にかけた。ただしこれは、曹爽の意を受けた建前である。曹爽および郡臣の真意は、司馬懿を名誉職に祭りあげることである。
大司馬は在位中に死んで、、というのは、『晋書』宣帝紀。曹丕は、大司馬だの、大将軍だの、相国だの、こまかい議論に関心を示さず、ただ字面のみを見て、あるべき体制を占った。詔書にて、
「大司馬となったのは、後漢初の呉漢である。司馬懿には、呉漢に匹敵する功績があるから、曹爽の上表は認められるべきである。しかし、『司馬』という姓の上に『大』の文字をつければ、『司馬を大きくする』という意味になり、司馬懿の謙虚な態度にあわない。伊尹は殷邦をたすけ、周公旦は周室をたすけ、彼らは高い官職についた。この前例にならい、司馬懿を相国に任じる」といった。文字遊びは、さっきの曹爽伝 注引『魏書』。
曹爽伝 注引『魏書』では、司馬懿から大司馬を去り、太傅のみにする。しかし、曹丕が年長なので、太傅(もりやく)はおかしい。だから、司馬昭を相国に任じるときの文章を参考にして、つなげればよい。
『晋書』文帝紀:「朕聞創業之君,必須股肱之臣;守文之主,亦賴匡佐之輔。……伊摯之保乂殷邦,公旦之綏甯周室,蔑以尚焉。朕甚嘉之。夫德茂者位尊,庸大者祿厚,古今之通義也。其登位相國,增邑九千,並前四萬戶;進號大都督、假黃鉞,入朝不趨,奏事不名,劍履上殿;賜錢五百萬,帛五千匹,以彰元勳。」ついに司馬懿は、大司馬ではなく、相国に任じられた。
司馬懿が長安に転任する
◆曹丕が州大中正を退ける
司馬懿は、荊州で呉軍を防ぐなど、地方の指揮官として過ごした。
『晋書』宣帝紀は、正始期、わりに戦歴がおおい。このあいだに曹爽は、曹丕が政治を見ないことに乗じて、朝政をほしいままにして、兄弟で禁兵を掌握した。しばしば制度を改変したが、曹丕は禁じなかった。
『晋書』宣帝紀:(正始)八年……曹爽用何晏、鄧颺、丁謐之謀,遷太后於永寧宮,專擅朝政,兄弟並典禁兵,多樹親黨,屢改制度。帝不能禁,於是與爽有隙。
曹爽伝:初,爽以宣王年德並高,恆父事之,不敢專行。及晏等進用,咸共推戴,說爽以權重不宜委之於人。乃以晏、颺、謐為尚書,晏典選舉,軌司隸校尉,勝河南尹,諸事希復由宣王。宣王遂稱疾避爽。
何晏は、曹丕の命令で『論語集解』を編纂した。曹爽が何晏を政治に駆りだしたとき、曹丕は一度だけ怒った。
「今日の政治は、十年もすれば風化するであろう。しかし儒家経典の編纂は、千年の事業である。何晏は優れた才能をもった学者である。何晏の手を煩わすことのないように」
曹爽は、曹丕の政治に対する無関心をかえって確信し、ますます増長した。
はじめ曹爽は、司馬懿を父のように立てた。やがて曹爽は、何晏を尚書に任用して、選挙をつかさどらせた。人事権を尚書に集約して、皇帝の思うままに人材を評価するように、制度を少しずつ改変した。これには曹丕も同意しており、好ましい傾向だと思った。
夏侯玄伝:太傅司馬宣王問以時事,玄議以為:「夫官才用人,國之柄也,故銓衡專於台閣,上之分也,孝行存乎閭巷,優劣任之鄉人,下之敘也。夫欲清教審選,在明其分敘,不使相涉而已。……自州郡中正品度官才之來,有年載矣,緬緬紛紛,未聞整齊,豈非分敘參錯,各失其要之所由哉。……奚必使中正干銓衡之機於下,而執機柄者有所委仗於上,上下交侵,以生紛錯哉。且台閣臨下,考功校否,眾職之屬,各有官長,旦夕相考,莫究於此」と。 「夏侯玄は、九品中正制度により人事権が中正に移行したことを批判し、人事権を皇帝に直属する尚書(台閣)に回収することを目指したのである。「名士」の既得権を損なう改革案である。これに対して司馬懿は、州大中正の制を提唱して「名士」の支持を束ねてゆく。『太平御覧』巻265 職官部 中正に、、」と。以上、渡邉義浩氏「司馬氏の台頭と西晋の建国」より。
しかし、司馬懿は、曹爽に対抗した。
「郡の九品中正を除いて、州に大中正を置くべきです。九品の人材考課を見たところ、中正たちが作成した文書は、(郡ごとにバラバラで)人材をただしく評価していない。九段階の評価という枠組を残しつつ、州に大中正をおきなさい。整った基準にのっとり、州が人材を評価すべきです」
『太平御覧』をぼくが言葉を補って現代語訳した。荀彧、陳群らを継承し、名声を媒介にして政治的人脈を築いてきた司馬懿は、曹爽(ひいては曹丕)に反発した。
「よく議論を尽くすように」
曹丕は、司馬懿を明確に退けることもなく、九品中正は現行が維持された。
史実では、州大中正が採用される。曹丕が生きているというイフによって、ちょっと歴史が変わった。台閣=尚書への集約をすることで、曹丕は君主権力を強められる。後年にやってもらいましょう。
◆正始の変が未遂におわる
正始九(248)年、曹丕は、翌年の正月に天を南郊で祭り、改元することにした。郡臣に、新しい年号を募った。司馬懿が提案した「嘉平」を、採用することにした。司馬懿の功績をたたえ、州大中正を退けたことに対し、なだめる意味もあった。
ほんとうは、司馬懿のクーデターが正始十年の正月に起こり、司馬懿が主導する朝廷で、4月に嘉平元年と改元される。
このころ司馬師は、父にも悟られることなく、死士三千人を養っていた。各地に散って決起の機会を待たせ、もしも司馬師が召せば、すぐに集まれた。
『晋書』文帝紀:宣帝之將誅曹爽,深謀秘策,獨與帝潛畫,文帝弗之知也。將發夕乃告之,既而使人覘之,帝寢如常,而文帝不能安席。晨會兵司馬門,鎮靜內外,置陣甚整。宣帝曰:「此子竟可也。」初,帝陰養死士三千,散在人間,至是一朝而集,眾莫知所出也。私邸において司馬師は、司馬懿に言った。
「曹丕は、呉蜀が残っているにも関わらず、辺境の諸将の苦労を顧みず、でたらめな文化事業にせいを出している。予言に基づいて、40歳のときに蘇生したと称して、こんど『列異伝』なる書物を編纂するそうだ。公務にある官僚をつかって各地を巡らせ、怪異なる逸話を集めて回らせているという。百姓はまだ衣食が足りない者が多いのに、くだらぬ遊戯に熱中する者には、皇帝でいる資格がない」
「絶対に口に出してはならぬぞ」
「なぜですか」
「漢魏革命のとき、今日の魏帝は、さかんに自身に天命がないことを述べた。不幸にして40歳のとき患い、確かに死んだように見えた。もしあのとき崩御していれば、若い平原王が皇帝とならざるを得ず、魏家は安定しなかっただろう。だが魏帝は蘇生し、60歳を越えた今日も壮健である。魏家の天命は確かなものであり、これに逆らってはならない」
司馬師は黙然とした。
翌年の正月、魏帝が曹爽と主立った者をひきいて、南郊に行くと公表されていた。司馬師は、このとき起兵しようと心に決めた。幸いなことに、司馬懿は老年を理由として、祭祀には同行しない。曹丕に対抗できるとしたら、司馬懿の名義のみであった。
正始九年冬、曹爽の派閥に属する河南尹の李勝が、荊州刺史として赴任することになった。相国の司馬懿にあいさつにきた。司馬懿は「并州にいくのか」と聞き間違えて、老病のふりをした。曹爽は李勝から報告を受けて「司馬懿が病気で哀しい」と垂泣して、司馬懿への防備を解いた。
ここまでは史実どおり。曹爽から報告を受けた曹丕は、司馬懿を見舞った。
「老いさらばえて見苦しく、お会いできません」
と謝絶したが、曹丕がむりに押し入った。
司馬懿は、着物を頭からかぶった。曹丕が剥がそうとすると、司馬懿の家の者たちが、慌てて制した。曹丕は、いきなり足元をめくると、隠し持っていた針で突いた。司馬懿は、びくっとして起きた。老いたものの、まだまだ血色のよい司馬懿。
「仲達、きみも老いたな」
「ですから、老病がひどく進行しており……」
「いいや、違う。若いときの君は、武皇帝に任用されても、応じなかった。足に針を刺されても、じっとしていた。針に堪えられないほど、きみは老いた」
「それは、周囲の者が流した噂です。そんなこと、ありませんでした」
「そうかな」
「そうです」
「とにかく、元気そうでよかった」
曹丕は笑って退室し、帰路でただちに詔を発した。
「司馬懿に蜀の平定を命じる。長安に出鎮せよ。相国、侍中・持節、都督中外諸軍・録尚書事は、故(もと)の如し」と。
曹爽は、「老病した者に、さらに方任を委ねるのですか」と怪しんだ。しかし曹丕は、意見を変えず、年内の出発を命じた。司馬懿は拝命した。
このときの会話と心の動きは、前に書きました。
司馬懿が長安に着任したころ、年が明け、嘉平元年と改元された。曹丕の祭天は、とどこおりなく実行された。司馬師は、司馬懿を欠いたので、起兵しそこねた。司馬懿は史実どおり、251年7月に死んだ。
曹氏の宗室は司馬懿によって滅ぼされることがなく、また司馬懿は、曹氏の宗室と衝突することなく、天寿を終えることができた。曹丕の80歳には及ばぬものの、73歳の長寿であった。140524閉じる
- 第7回 孫権の死、諸葛恪による廃帝
孫権の死
司馬懿が死んだ嘉平3(251)年は、孫呉の太元元年にあたる。
太元元年の冬11月、孫権は大赦した。建業の南郊で祭天してから、寝疾した。12月、駅によって大将軍の諸葛恪を(武昌から)徴して、太子太傅とした。傜役を省かせ、征賦を減らし、民の患苦する所を除いた。
太元二(252)年の春正月、もと太子の孫和を南陽王として、長沙に居らしめた。子の孫奮を斉王として、武昌に居らしめた。子の孫休を琅瑚邪王として、虎林に居らしめた。
夏4月、孫権は薨じた。71歳であった。秋7月、蒋陵に葬った。以上、呉主伝より。
諸葛恪伝では、久之,權不豫,而太子少,乃征恪以大將軍領太子太傅,中書令孫弘領少傅。權疾困,召恪、弘及太常滕胤、將軍呂據、侍中孫峻,屬以後事。となってる。
寝こんだ当初、孫権は、だれに後事を付託するか議論させた。
「陸遜の後任として武昌にいる、大将軍の諸葛恪は、輔政する器量があります」
と孫峻が上表した。
「諸葛恪は性格が剛情で、意見を強引に通すのが気になる」
と孫権が疑問をのべたが、孫峻は、
「今日の朝廷に、諸葛恪に及ぶ者はありません」
と意見を変えないので、孫権は諸葛恪を床下に徴した。
意見を強引に押し通す諸葛恪は、このイフ物語において、孫亮を皇帝から下ろす。そりゃあ、強引だよなあ、いかにもそうだ、という伏線となる。
諸葛恪伝 注引『吳書』曰:權寢疾,議所付託。時朝臣咸皆注意於恪,而孫峻表恪器任輔政,可付大事。權嫌恪剛很自用,峻以當今朝臣皆莫及,遂固保之,乃徵恪。孫権は諸葛恪にすべてを託した。
「私の病気は重篤になってしまった。恐らく再び会えなくなるだろう。諸事をすべて諸葛恪に一任する」
「とんでもないことです」
「きみの才能は、曹丕に十倍する。必ず国を安んじて、ついには大いなる事業を成せるだろう。もし太子の孫亮が、輔佐すべき者であれば、輔佐してくれ。もし孫亮に才能がなければ、きみが自ら取る可し」諸葛亮伝:「君才十倍曹丕,必能安國,終定大事。若嗣子可輔,輔之;如其不才,君可自取。」
曹丕が生き残っているので、この比喩が使える。孫権は戯れて、劉備が諸葛亮にのべた言葉を踏まえた。諸葛恪も、これが劉備の言葉だと知っている。しかし、「劉備の言葉ですね」と返しては、諸葛恪の自尊心がゆるさない。彼は自分を、とても機転のきく、頭のよい男だと思っている。
諸葛亮が答えたのは、「臣敢竭股肱之力,效忠貞之節,繼之以死」である。「臣 敢へて股肱の力を竭くし、忠貞の節を效し、之を繼ぐに死を以てせん」と。「孫権さまの才能は、曹丕に百倍します。しかし、呉家は必ずしも安泰でなく、天下を定められなかった。もし私の才能が曹丕に十倍するとしても、孫権さまの十分の一です。とても大任が務まらず、自ら取ることなど考えられません」
孫権を尊重したのか、馬鹿にしたのか、よく分からない。しゃべり過ぎてスベるのが、安心の諸葛恪の品質です。気を回し過ぎて、余計なことをするというキャラクターが、このイフ物語では大切です。孫権は困惑して、むっとした。諸葛恪は、失敗に気づいて、本来言うべきであったことを言った。
「私たちは孫権さまの厚い恩を受けました。死をもって詔を受けます。孫権さまは、安心して、心配せず、外事について気になさいませんように」と。孫権は有司に詔して、すべてを諸葛恪に任せた。殺生の大事だけは、孫権がした。不便な法令があれば、諸葛恪が孫権に報告してから、改制した。諸葛恪伝 注引『吳書』曰:後引恪等見臥內,受詔床下,權詔曰:「吾疾困矣,恐不復相見,諸事一以相委。」恪歔欷流涕曰:「臣等皆受厚恩,當以死奉詔,原陛下安精神,損思慮,無以外事為念。」權詔有司諸事一統於恪,惟殺生大事然後以聞。為治第館,設陪衛。群官百司拜揖之儀,各有品敘。諸法令有不便者,條列以聞,權輒聽之。中外翕然,人懷歡欣。
諸葛恪が孫呉の全権をにぎる
諸葛恪は、公安督たる弟の諸葛融に文書を送った。
「孫権さまは万国を捨てて崩御された。私は、霍光(前漢の博陸侯)ほどの才能もないのに、国を託された。とてもビクビクしている。霍光ですら、燕・蓋に排除されそうになった。役割につりあう、軍事的な功績を立てたいと思う」と。
諸葛恪伝の諸葛融への手紙を抜粋。諸葛恪は太傅となった。
10月、諸葛恪は東興の堤を修繕して、魏軍を攻めた。12月、酒を飲む魏軍に留賛がつっこみ、数万を水没させた。諸葛恪は、陽都侯に進み、荊揚州牧を加えられ、督中外諸軍事とされた。
諸葛恪伝:初,權黃龍元年遷都建業。二年築東興堤遏湖水。後征淮南,敗,以內船,由是廢不復修。恪以建興元年十月會眾於東興,更作大堤,左右結山俠築兩城,各留千人,使全端、留略守之,引軍而還。魏以吳軍入其疆土,恥於受侮,命大將胡遵、諸葛誕等率眾七萬,欲攻圍兩塢,圖壞堤遏。恪興軍四萬,晨夜赴救。遵等敕其諸軍作浮橋度,陳於堤上,分兵攻兩城。城在高峻,不可卒拔。恪遣將軍留贊、呂據、唐咨、丁奉為前部。時天寒雪,魏諸將會飲,見贊等兵少,而解置鎧甲,不持矛戟。但兜鍪刀楯,夥身緣遏,大笑之,不即嚴兵。兵得上,便鼓噪亂斫。魏軍驚擾散走,爭渡浮橋,橋壞絕,自投於水,更相蹈藉。樂安太守桓嘉等同時並沒,死者數萬。故叛將韓綜為魏前軍督,亦斬之。獲車乘牛馬驢騾各數千,資器山積,振旅而歸。進封恪陽都侯,加荊揚州牧,督中外諸軍事,賜金一百斤,馬二百匹,繒布各萬匹。
東興で呉が勝つが、魏が荊州を陥とす
諸葛恪が東興で勝ったとき、魏軍が同時に荊州の2方向にも進行していた。
はじめ、鎮東將軍の諸葛誕は、曹丕にいった。
「孫呉が、魏領に入りこんでいる。王昶は江陵、毋丘倹は武昌を攻め、長江の上流を抑えたら、迎撃する呉軍を捕らえられる」と。
このとき征南大将軍の王昶、征東将軍の胡遵、鎮南将軍の毋丘倹らは、それぞれ征呉之計を考えた。曹魏の朝廷は、3人の計略が異なるから、尚書の傅嘏に問うた。傅嘏は回答した。
諸葛誕のセリフは、『資治通鑑』より。
つぎの傅嘏も『資治通鑑』からひきます。傅嘏伝はもう少し長い。書き下しを載せながら、抄訳を差し込んでゆく。「議者 或ものは舟を泛して徑濟し、江表を橫行せんと欲す。或ものは四道を並進し、其の城壘を攻めんと欲す。或ものは大いに疆場を佃し、釁を観て動かんと欲す。誠に皆 取賊の常計なり。然るに治兵してより以來、出入すること三載、掩襲の軍に非ず。
孫呉を攻めるために、国境においている魏軍は、水路も陸路も屯田も、3年くらい駐屯している。孫呉にとっては、奇襲にはならない。賊の寇を為すや、六十年に幾く、君臣 相ひ保ち、吉凶 共に患ひ、又 其の元帥を喪ひ(孫権が死に)上下 危を憂ひ、設けて津要に船を列し、城を堅めて険に據る。横行の計、其れ殆ど捷ち難し。
孫呉が江東に拠ってから、60年がたつ。求心力が確立しており、孫権が死ねば、相応の警戒をする。江陵(南郡)、武昌、そして諸葛恪の堤防を修復した東興。いずれも隙がないと。
ぼくは、この傅嘏が「見込み違い」だった話にしたいから、わざわざ読んでいる。2年前に『資治通鑑』を抄訳したときは、読み飛ばしたけど。今 邊壤の守り、賊と相ひ遠く、賊 羅落を設く。又 特に密を重んじ、間諜 行かず、耳目 聞くことなし。夫れ軍に耳目無くんば、校察 未だ詳らかならず。而るに大衆を挙げて以て巨険に臨めば、此れ幸を希ひ功を徼め、先に戰ひて後に勝を求むることと為り、全軍の長策に非ざるなり。
魏軍は、呉軍の射程に離れて駐屯してきたから、もはや地勢や敵軍の情報がない。諜報を送り込んでも、呉軍に捕まってしまう。情報がないのに、魏軍を突入させれば、勝てるはずがないと。
ここは、曹丕の執念の情報網によって、曹操の時代から蓄積した情報をもちだし、親征して荊州を陥としてもらわねば。唯 軍有りて大佃に進めば、最も完牢に差ふ。王昶・胡遵らに詔すべし。地を擇びて險に居り、錯置する所を審らかにし、及び三方をして一時 前みて守らしめよ。
王昶や胡遵は、いっきに敵の城を攻めるのでなく、守りやすい地形に依りながら、南へ戦線を押し上げる。戦線を押し上げるうちに、敵方の情報も、少しずつ分かるだろう。其の肥壤なるを奪ひ、脊土に還さしむ、一なり。兵 民の表に出でて、寇鈔して犯さず、二なり。招きて近路を懷け、降附するもの日に至らしむ、三なり。遠設を羅落し、来たらざるを間構せしむ、四なり。賊 其の守を退け、必淺を羅落し、佃作 立つること易し、五なり。坐して積穀を食み、士 運輸せず、六なり。釁隙 時に聞き、討襲して速決す、七なり。凡そ此の七は、軍事の急務なり」と。
じわじわ孫呉の領土を圧迫して、人口や物資や情報を仕入る。敵に隙ができたら、いっきに攻める。これが呉攻めに有効であると。いきなり遠征して、城だけを攻めたところで、成功しないと。
曹丕は従わず、孫呉を攻めることにした。詔した。
史実では、司馬師が従わない。「孫呉は60年にわたり江東にあるが、ひとえに賊将の孫権がまとめたからだ。孫権は、晩年に太子を廃して朝廷を混乱させ、陸遜を死なせた。今日、諸葛恪が輔政しているが、周瑜・魯粛・張昭・陸遜らに著しく劣る。いまこそ、孫呉を平らげて、東南の憂いを除く好機である。建安十三年(赤壁)の武皇帝に倣って、私は荊州を南下しよう」と。
史実で、司馬師は動かない。このイフ物語で、曹丕が荊州に自らゆく。東興は、史実どおりの諸葛恪に勝たせてあげれば良いが、荊州は魏軍が勝つのだ。傅嘏がなおも反対すると、曹丕は怒った。
「荊州方面の諸将が、孫呉を平定する計画を立ててくれた。戦さというのは、中核となる城さえ陥落させれば、一気に終結するものなのだ。武皇帝が退いたのは、ひとえに孫権の謀略のためであり、私が攻めあぐねたのも孫権に欺かれたからである。戦いに敗れたわけではない。孫権なき今、わが魏軍が敗れる要素がなくなった。時間をかけて国境を押し上げる必要はない」と。
ついに曹丕は、洛陽から襄陽に移った。
252年11月、王昶らに3道から孫呉を撃たせる。
12月、王昶は南郡を、毋丘倹は武昌を、胡遵と諸葛誕は7万をひきいて東興を攻める。甲寅、諸葛恪が4万をひきいて、東興を救いにくる。胡遵は敗走した。つづいて呂拠が魏軍を攻めた。浮橋が壊れ、魏軍は水中に沈んだ。これは、さっきの諸葛恪伝に対応する。
嘉平五(253)年春、荊州を攻めている王昶と毋丘倹は、東興で魏軍が負けたので、屯所を焼いて逃げようとした。だが曹丕が襄陽から南下して督戦したため、諸将は奮起して力戦し、ついに武昌が陥落した。武昌が落ちて、揚州との連絡が絶えた江陵も降伏した。
曹丕の督戦、以降がイフ設定です。この戦いのシミュレーションが必要だが、準備がないのでできません。戦い系は、とても疎いです。戦いの史料を、興味を持って読み、分析したことがなかった。史料を読み込んでないと、史実を改変しても、リアリティを持たせられない。地図を見ても、よく分からない。どなたか助けてください(笑)位置関係のイメージ図は、こんな感じです。
諸葛恪が合肥新城を囲む
諸葛恪は東興で勝利して敵を軽んじる一方で、荊州(江陵と武昌)が陥落したことに恐怖した。孫呉を盛り返すために、ふたたび遠征したいと考えた。
「呉国の領土は、揚州と交州の二州のみとなった。赤壁で曹賊を破ったときよりは広いが、皇帝として勢力を保つには充分と言えない。魏軍は荊州に集まっており、淮南の守りが手薄のはずである。東興での勝利に乗じて、魏国に深く侵入しよう」
さらに諸葛恪は言った。
「荊州は、30年来、呉国の領土であり、陸遜が善政を布いてきた。魏軍がここを保つのは難しい。いま迅速に合肥を攻めれば、曹丕は淮南に兵を集めざるを得ず、おのずと荊州から撤退するだろう」
2つとも、ぼくが勝手に書いています。中散大夫の蒋延は、「東興では勝利しましたが、しばしば戦役があり、呉軍は疲弊しております。2年つづけて、遠征をしてはなりません」と諫めたので、朝廷から担ぎ出された。
諸葛恪伝:諸大臣以為數出罷勞,同辭諫恪,恪不聽。中散大夫蔣延或以固爭,扶出。
並行して諸葛恪は、司馬の李衡を送り、姜維に連携を求めた。
「魏国の曹丕は政治を顧みず、政治は曹爽ら宗室が独占しており、内外は隔たっております。兵は辺境でつかれ、民は領土でつかれています。曹操のとき以来、今日ほど曹魏が傾いた時期はありませんでした。そのくせ曹丕は、大軍を三方向に展開して、強引に戦っております。呉軍は東から、漢軍は西から攻め入れば、魏国を破れるでしょう」と。諸葛恪伝 注引『漢晋春秋』曰:恪使司馬李衡往蜀說姜維,令同舉,曰:「古人有言,聖人不能為時,時至亦不可失也。今敵政在私門,外內猜隔,兵挫於外,而民怨於內,自曹操以來,彼之亡形未有如今者也。若大舉伐之,使吳攻其東,漢入其西,彼救西則東虛,重東則西輕,以練實之軍,乘虛輕之敵,破之必矣。」維從之。情勢がイフでズレたから、言葉を換えてます。しかし李衡は、江陵で魏軍に捕らえられ、蜀に到達できなかった。
諸葛恪は、著論して呉臣たちを説得した。
「夫れ天に二日無く、土に二王無し。王者 天下を兼併することに務めて、後世に祚を垂れんと欲せざるは、古今 未だ之れ有らざるなり。劉表のように、天下統一に努めずにおれば、強国に併呑されてしまう。魏軍は曹丕とともに老いており、世代交代がうまくいっていない。今が好機であり、もし劉表のように10年を見送ってしまえば、魏呉の兵力差は広まるだろう」と。
夫天無二日,土無二王,王者不務兼併天下而欲垂祚後世,古今未之有也。……近者劉景升在荊州,有眾十萬,財谷如山。不及曹操尚微,與之力競,坐觀其強大,吞滅諸袁,北方都定之後,操率三十萬眾來向荊州,當時雖有吞智者,不能復為畫計,於是景升兒子,交臂請降,遂為囚虜。……但以操時兵眾於今適盡,而後生者未悉長大,正是賊衰少未盛之時。……若復十數年後,其眾必倍於今,而國家勁兵之地,皆已空盡,唯有此見眾可以定事。……眾皆以恪此論欲必為之辭,然莫敢復難。呉臣は無言のまま、反発の意思をほのめかした。諸葛恪は、さらに声を励まして、北伐の必要性を説いた。
「いま淮南を揺さぶらないと、魏軍は荊州に留まり、長江の上流を手堅く占拠するだろう。われらが呉帝は、天下を兼併すべきなのに、一州を保つだけに留まり、魏軍の大船団が降ってくることに汲々とさせられる。これで皇帝と言えようか。先帝(孫権)は、海に船を浮かべて、南は交州を平定し、北は遼東と外交し、東は島々の探索を行った。これが皇帝のあるべき姿であり、今日はひどく食い違っている」と。
郡臣が目を背けた。諸葛恪は20万を動員した。
諸葛恪は淮南に深入りして、曹魏を動揺させようとした。だが部将に反対され、合肥新城を囲むことで、魏軍を国境まで釣り上げることにした。
数ヶ月も包囲したが戦果があがらず、253年の秋8月、軍を還した。諸葛恪は声望を失った。諸葛恪は責任を自覚せず、さらに北伐を計画した。
すべて諸葛恪伝のままだから、経過を省略した。このイフ物語では、史実と同じく、司馬師が諸葛恪を退けている。
諸葛恪が殺されず、孫亮を廃する
孫峻は、自分で諸葛恪を推挙した責任から、呉帝の孫亮と計画して、酒席で諸葛恪を殺そうと考えた。
諸葛恪が孫亮にまみえる前夜、精神がざわざわして、夜通し眠れなかった。翌朝、顔を洗おうとすると、水がなまぐさい。侍者が持ってきた着物もくさい。諸葛恪は怪しんで、水と衣を替えたが、もとのまま臭かった。出かけるとき、犬が着物をくわえた。諸葛恪は従者に犬を抑えさせ、車にのった。
諸葛恪伝:孫峻因民之多怨,眾之所嫌,構恪欲為變,與亮謀,置酒請恪。恪將見之夜,精爽擾動,通夕不寐。明將盥漱,聞水腥臭,侍者授衣,衣服亦臭。恪怪其故,易衣易水,其臭如初,意惆悵不悅。嚴畢趨出,太銜引其衣,恪曰:"犬不欲我行乎?"還坐,頃刻乃復起,犬又銜其衣,恪令從者逐犬,遂升車。その他の怪異があったので、諸葛恪は、不穏な計画を悟り、ひそかに養った兵たちに、「異変があったら、孫亮を捕らえよ」と命じた。
こまかい経緯は諸葛恪伝に全て準拠して省く。諸葛恪は孫峻を侮っていた。だが、新たに荊州を失陥し、合肥新城でも敗れたことから、孫亮が国難の重圧に耐えきれず、孫峻とそそのかしあい、政変を起こすことを心配した。だから、必要以上に警戒して、準備を怠らなかったのである。
諸葛恪伝 注引の『呉歴』、孫盛がひく『異同評』などより。
諸葛恪が孫亮にまみえた。酒杯が数巡した。
孫亮が奥に入った。いきなり孫峻が諸葛恪を切りつけた。諸葛恪は隠し持っていた刀で受けた。孫峻がこれに驚いて姿勢をくずすと、散騎常侍の張約が孫峻の左手を傷つけた。孫峻は張約の右腕を切り落とした。散騎常侍の朱恩が、背後から孫峻の肩から背中に切り下ろした。孫峻は息絶えた。
諸葛恪の兵が、孫亮を捕らえて、宴席に引き戻した。
孫亮の乳母が追ってきて、「皇帝陛下に何をする」と抗議した。孫亮は、「我の為す所に非ず、我の為す所に非ず」と弁明した。
吳錄曰:峻提刀稱詔收恪,亮起立曰:「非我所為!非我所為!」乳母引亮還內。これをアレンジして、また出てきてもらった。この『呉録』は、裴松之によって真実味がないとして、退けられている。諸葛恪は立ちがると、
「皇帝の孫亮は、不孝であるから、漢の昌邑王の故事にならって廃位する」
と宣言した。
乳母は、誰に対する不孝ですか、と反論した。
「陛下は、大皇帝(孫権)の生前には心を尽くして仕え、それゆえに立太子されました。不孝であるはずがありません」
「陛下の不孝とは、父に対してではありません」
「それでは母に対する不孝ですか」
「陛下の母とは、誰のことを言っていますか」
ぎゃくに諸葛恪が、意地悪く問い返した。
孫権が皇后をころころ変えるから。誰に対して、子として仕え足りないのか、乳母には判定できない。暗に孫権の晩年を批判する感じになっちゃうか。乳母が窮するのを鼻で笑い、諸葛恪が見解をのべた。
「陛下の不孝とは、母に対してでもありません」
「では誰に対して」
「天です。陛下には、天子の資格がない」
「笑止です」
乳母が声を張り上げた。だが孫亮は事情を悟り、腰から砕けて、
「次の皇帝は誰にするつもりか」
と諸葛恪に聞いた。
諸葛恪は、首を横に振った。
「次の孫氏の皇帝は立てません」
「つまり、諸葛氏が簒奪すると。確かに父(孫権)は生前、私に才略がなければ、きみが自ら取れと言ったかも知れない。だが朕に、なんの過失がある。各地で魏軍に敗れたのは、むしろ諸葛恪の責任ではないか」
「そこです。陛下は、呉家の情勢を、他人ごとのように言う。そのような自覚は、皇帝に相応しくありません」
「なんだと」
「魏帝の曹丕に、降伏の使者を出しなさい。良ければ呉王、悪ければ呉公、少なくとも呉侯には封じてくれるでしょう。天下を伺うことができず、長江の上流には魏軍がいる。われわれが生き残る道は、それしかありません」
「誰が使者にゆく」
諸葛恪は、無言で孫亮を指さした。
孫亮は反対したが、諸葛恪は孫亮をしばりあげ、檻車をつかって寿春に向かわせた。降伏の使者は、形式的には罪人の体裁をとるが、孫亮の場合は、諸葛恪がほんとうに拘束して送った。
酒席にいる郡臣は、騒然とした。だが、政治も軍事もすべて諸葛恪が握っており、また孫峻が死んだため、諸葛恪に逆らえる呉臣はいなかった。
諸葛恪は、長沙に幽閉された孫和を呼び出し、かりに建業の主とした。孫和は大いに感謝して、ひきつづき諸葛恪に全権を委ねた。
孫和は250年に廃太子された。諸葛恪は、孫和と姻戚関係にある。史実では、この253年に孫和が死ぬのだが(恐らく諸葛恪を殺した孫峻に、ついでに殺される)このイフ物語では生き延びた。
孫和の子・孫皓が、史実とは別ルートで、いちはやく皇帝になるフラグ。
孫亮を帰命侯に、孫和を呉王に封じる
孫亮と謁見した曹丕は、飛び上がって喜んだ。
「黄初の初め、私は孫権を呉王に封じて、子の孫登を招こうとしたが、ついに彼が中原を訪れることがなかった。歳月が流れ、孫権も孫登も死んだと聞く。だが今日、孫登の弟である孫亮は、賢明にも謙虚にふるまい、みずから皇帝の璽綬を持参して、洛陽に帰した。改めて孫亮を呉王に封じて、藩屏たらしめよう」と。
孫亮についてきた呉の重臣は、辞退した。
「もと呉王(孫権)は、陛下の恩徳を受けながら、不相応にも魏国にそむき、皇帝を自称しました。この罪は重く、同じ呉王に封じて頂く資格はございません」
重臣、だれがいいでしょうか。呉の詳しい方、決めて下さい。曹丕は、どうしたらよいか、と司馬師に訪ねた。
「魏の命に帰したということで、帰命侯に封じるのが宜しいでしょう」
議論させると、呉王に封じるのは寛大すぎるという意見で衆議が一致した。曹丕は司馬師に従い、孫亮を帰命侯に封じた。洛陽にひきとめ、厚遇した。
孫亮は、建業に孫和が入ったことを聞き、また諸葛恪と争っても勝てないと思ったので、洛陽に留まることにした。曹丕は、孫亮をわが子のように愛した。
孫亮は、これで表舞台から退場。まあ史実でも、あと5年くらい、存在感のない皇帝をやるから、だいたい同じでしょう。それよりも、曹丕の「恩を施したい症候群」の演出に使わせてもらう。
また曹丕は詔した。
「建業では、孫亮の兄の孫和が城を守っていると聞く。孫和を呉王に封じて、私の恩徳を天下にいきわたらせよう」と。
司馬師は、かえって混乱すると言って反対したが、曹丕は意見を変えなかった。
曹丕が孫権を呉王に封じるとき、劉曄が反対した意見がある。これを流用すれば、「寛大すぎる」ことを批判する、司馬師の意見になるだろう。他の論点について、司馬師のセリフを作っておく。司馬師はいう。
「孫氏の継嗣は、孫亮です。これを洛陽に留めおき、却って廃された孫和に、正当な名号(呉王)を与えれば、嫡庶が分からなくなります。孫和にも、適切な爵号を与えるだけでも、魏国の恩徳を示すことができます」
「呉公ではどうだろうか」
「かつて孫権は、魏から高貴な爵号をもらい、独立の野心を生じました。いま呉には諸葛恪がおり、淮南を狙っております。孫亮を追放して、孫和を擁立した、というのが実態でしょう。将来に禍根を残さぬため、孫和に『呉』にまつわる爵号を与えてはなりません」
「もしも孫和と諸葛恪が、わが魏家に背けば、つぎこそ私が討伐してやろう。往年の名将は、あらかた死に絶えているに違いない」
とうとう曹丕は、孫和を呉王に封じた。
「今日は、武皇帝にすら巡ってこなかった、揚州を帰順させる好機である。それにも関わらず、なぜ皇帝は、あえてそれを遠ざけるような処置をなさるのか」
司馬師は、曹丕のやり方に疑問を持った。
これが、侯景の乱に匹敵する、「司馬師の乱」の伏線になるのでしょう。肉づけしつつ、つじつまを合わせていく遊びです。楽しいw
諸葛恪が孫晧を呉主に推す
魏の使者が到着するころ、孫和が病没した。
諸葛恪は、孫和の長子である12歳の孫晧を立てた。曹丕は追って、孫晧を呉王とした。儀礼や書式は王爵に基づいたが、孫晧の立ち居振る舞いは皇帝のようであり、孫権のときと何も変わることがなかった。
孫和の死去は、史実どおり。253年。
諸葛恪と孫晧という、孫呉後期の「2大がっかり政治家」が、君臣として頂点に立った。ぼくがホームページを作り始めた初期から、ずっと気にしていた2人なので、主役になってもらえて嬉しい。
以上、「孫権の死後、曹丕が荊州方面を督戦した」という、たった1つの最低限のイフ設定から派生して、起きえることを、孫呉の方向で膨らましてみました。
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- 第8回 最終回への見通し
はじめに、「もし曹丕が……」とお題をツイートしてから、1週間がたつので、最終回への見通しを書きます。
魏晋の結末
曹丕が長生きした場合、最期はどうなるか。
皆さんのツイートでは、魏晋革命がないものの、天下統一は難しく、孫呉が史実なみの残る(曹丕が80歳まで生きても史実の平呉に届かないから)が中央値だと思います。五胡十六国なみに乱れるという悲観論もあり。でもハッピーエンドがいい!
ぼくが現段階で考える最終回の構想です。
まず後継者は皇太孫で有望な曹髦。
司馬氏はクーデターに失敗して中央にいられなくなり、長安で征蜀に専従。蜀を滅ぼして「漢晋革命」を成し遂げて西方で独立。
ここまでは、ホームページに書きました。劉禅を飼い殺して、鍾会を使いこなし、洛陽を攻撃。姜維は晋将として羌族を経営。
司馬昭は長安から洛陽を征圧。曹丕は鄴郡(本来の魏地)に撤退して勢力を保つ(八王の司馬冏なみ)。魏と晋は「どちらが良い国制を作れるか」競う。265年、司馬昭が史実なみに死去。司馬炎が嗣ぐが、姜維が劉禅を擁して謀反。晋が瓦解。でも劉禅が曹丕に降伏したがり、姜維も承伏。
史実の司馬炎は、必勝の状態で君位についたが、もし後漢末の群雄だったら、どこまで勝ち残れただろう。そこまでカオスじゃなくても、三国の一つの皇帝になったら、どこまで国を強くできただろう。
なんて疑問もわきつつ、曹丕のためにハッピーエンドを組んだら、司馬炎が活躍する時間がなくなりました。劉禅が曹丕に降ることで、晋臣・蜀臣が曹魏に帰順。曹丕79歳は鄴県から洛陽に帰還(史実の魏晋革命時の領土と同じ)。工夫を競った魏の制度と晋の制度を止揚。史実の西晋の欠点(宗室の諸侯の権限が重すぎ)すら是正し、文化も重視した、漢代すら越える「古典的規範」の制度を完成。
敎団さん
孫呉の結末
孫権の死後、曹丕が荊州を奪取。長江上流を取られた諸葛恪は、戦略的に曹丕に降伏。孫亮を洛陽に送って誠意を見せる。曹丕は孫亮を洛陽に留める。諸葛恪は長沙から孫和を迎える。孫和が死に孫晧が立つ。曹丕は孫晧を「呉王」に封じ、淮南の諸葛誕に牽制させる。
イフ物語では、司馬昭が専横しない(司馬師のクーデターの責任で長安に逃れる)ため、起兵が不要となり、寿春を手堅く守り続ける孫晧と諸葛恪は、賢者ペアで善政、独立の機会を狙う。孫晧の即位8年目(史実なみ)に我慢できず、謠言を信じて天下統一のため北伐。陸抗・陸凱の諫言を無視。
史実で孫晧が北伐をするのは、271年。このイフ物語では、260年。奇しくも、曹丕が洛陽を放棄して、洛陽に逃れたとき。「曹魏の弱体化に乗じて」というのが、孫呉の狙いなんでしょう。曹丕は鄴県から親征。青徐豫揚州の兵力を総動員。孫晧・諸葛恪を、合肥新城で撃破。史実の願望を成就。陸抗に建業を任せる。
おわりに
イフ年表。253年、魏が荊州征圧。これが最初の「史実に戻れないイフ設定」の分岐点とします。
254年、司馬師が謀反して翌年病死(史実なみ)。255年、司馬昭が長安に駐屯、258年、平蜀とともに「漢晋革命」をやる。260年、司馬昭が洛陽占拠(史実で曹髦を殺す年)、曹丕が鄴に移転。
同じ260年、孫晧が北伐して大敗。265年、司馬昭が死に(史実なみ)、姜維が謀反。劉禅が曹丕に降伏するので、姜維も引きずられて降伏。
266年、天下統一した曹丕が寿命で死ぬ。
80歳まで生きた曹丕は、266年、天下統一に成功し、後漢をリニューアルして完璧な制度をそなえた国家を、聡明な曹髦にバトンタッチ。洛陽で、曹操と献帝のもとに旅立つ。曹丕が好きで考えはじめたイフ物語だから、史実からのリアリティが消えない範囲で、ハッピーエンドにしたい。
「せっかくイフを設定して展開を考える醍醐味」と「史実に照らしたリアリティ」の観点から、宜しければ、ぼくの考えた結末へのご指摘・ご指導をお願いします。あくまで遊びなんですが、真剣に遊びたいです。140526
紫電P @sidenp さんより。駱谷の役がなくなるのはかなり大きいと思うんだけどなあ。曹爽の衰退と正史政変、異民族、姜維の涼州での戦略、すべてに絡んでる一大イベントのはずなんだけど。
ぼくは思う。駱谷の役(244年、曹爽が司馬懿に対抗して蜀攻め、王平が退ける)は、史実どおり起こして、曹爽および曹魏が、羌族のなかで支持を失う話になると思います。ただし、曹爽は衰退せず、曹丕がゴリ押しで威信を供給する。これが、長安の司馬昭が、姜維を使いこなし、曹魏に対抗した西の国をつくる伏線になると思います。
敎団 @Vitalize3K さんより。ひろおさんのおっしゃる「完璧な制度をそなえた国家」にするためには、九品官人法がやはり大きな障壁になりそうだ。九品官人法の完成は完全身分固定制であるため、どの様に扱うのか難しい。やはりこれだけは未完成なままの方がいいかもしれない。
ぼくは思う。九品官人法は、結末を知る後世の者としても、なにが正解なのか分からないので、敎団さんのご指摘のように、未完成という話にならざるを得ないかも。
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- 掲示板より「文人皇帝曹髦の栄華」篇
掲示板に、「出遅れた三国好き」さんから、曹丕が80歳まで生きた仮定の上で、ストーリーを頂きました。ぼくの考えたのとは、いろいろ違いますが、この違いこそが、イフ物語のおもしろみだと思うので、あとから読み返しやすいように、転載させて頂きます。緑文字が引用部分です。
ゴールの設定
まずゴールを仮定して逆から考えてみます。
(私は制度や思想には疎いため、人物や事績のみに絞って考えます。)
曹丕(80歳)が崩御する年(266年)に史実上生きている有力者は司馬炎・司馬孚・司馬望・鄭沖・王祥・何曾・荀顗・石苞・陳騫・王沈・賈充・裴秀などがおり、260年代に不自然死した者を含むと曹髦・鄧艾・鍾会も入ります。
この集団の見た印象では「曹髦が敬愛した学者系の人物」(司馬望・鄭沖・王祥・王沈・裴秀・鍾会)が多く、曹髦が存分に文人皇帝らしい生活ができる環境ですね。外患(蜀漢・東呉)が解消していたら一層良いでしょう。
とりあえず「魏が2代目文人皇帝曹髦の元で栄華を迎える」形をゴールと仮定し、「曹髦が曹丕を嗣ぐ」・「相性の良い重臣が残る」・「曹丕が統一済み」の3要素を検証します。
「曹髦が曹丕を嗣ぐ」はこの仮定で最も重要な要素でありながら、私の知識ではろくな検証ができなさそうです。幸いにも解消するケースがあるようなので、とりあえず問題無しとします。
相性の良い重臣が残る
「相性の良い重臣が残る」の検証では主に官歴の比較で266年にどのような官位にありそうかをみます。
司馬望は父の司馬孚が失脚しなければ大丈夫でしょう。その司馬孚は黄初中に侍郎や太守、230年代に尚書系に就います。官歴の類似者を見ると240年代に九卿、250年代に三公が狙えそうなポジションであり、兄の司馬懿抜きでも大丈夫ですね。印象では司馬孚は司馬懿以上に曹丕と相性が良さそうです。多分失脚は無いでしょう。266年に司馬孚は太傅・三公・特進(引退)のいずれか、司馬望は九卿の下ぐらいが妥当でしょうか。
鄭沖は無難な学者タイプで230年代に散騎常侍となった人物です。大過なく出世して十分に三公まで到達できるでしょう。曹丕の太子文学だった鄭沖が曹髦から帝師のように扱われる展開も良さそうです。数年遅れで王祥も大過なく出世しそうですが、太常どまりの可能性もありますね。
王沈・裴秀・鍾会は240年代に政界入りし、普通の出世ならば九卿にまだ届かない層です。曹髦には重用されるはずですが、曹丕時代に政争に加担して序列が上下、或いは失脚する可能性もありますね。曹丕の晩年に大きな政争が無い状況が良いのですが、この段階では想定が難しいので後に回します。
他の重臣は何曾・荀顗が九卿、陳騫・賈充がその下ぐらいが妥当でしょうか。鄧艾と石苞は司馬氏の引き立てで躍進しましたから、今回の仮定では武官公には届かないはず。
司馬炎が存在する場合は散騎侍郎から散騎常侍の下ぐらいが妥当でしょうか。父の司馬昭はあまり無茶をしなさそうですから、順当に功臣三代目としてそこそこの地位を得られるはずです。史実ほどの家庭内の悩みも無いでしょうし、儒学への積極性とほどほどの器量で曹髦の良い腹心となるかもしれませんね。年も5歳差と良さそうな距離でしょうか。2代目の大事業として「軍備の縮小」や「宗室の地位向上」を進言する役回りも面白そうです。
余談ですが曹髦と年齢が近い取り巻き候補を挙げるなら、司馬駿・張華・和嶠・何劭・裴楷・夏侯湛・傅祗・王済などがいますね。
曹丕が統一済み
「曹丕が統一済み」は各勢力が滅亡した状況から検討してみます。
成都(益州)攻略は主に北から広漢(や剣閣)を通る「北のルート」と東から長江沿いに進む「東のルート」があります。
「北のルート」は兵力や備えがあると難しく、守備側に油断のあった「史実の蜀漢滅亡」でさえも特に固かったケースと言えます。蜀漢に十分な対応させない手をうつか、漢中や剣閣を段階的に奪って弱体化させる必要があるでしょう。
「東のルート」は三巴の突破と攻撃の維持が課題でしょうか。例えば水軍主体で三巴を一気に越えながら、短期間で撤退に追い込まれたケースがあります。三巴に橋頭堡でも置かない限り、水路から短期間で成都攻撃に進める体制が必要であり、いずれにしても江陵の制圧が不可欠です。
もし諸葛亮の北伐が小規模に終わるなどで、将兵の育成が史実以下ならば「北のルート」が活かせるチャンスがあります。逆に諸葛亮存命中や後継者の体制が万全ならば、「東のルート」の方が容易でしょう。
建業(揚州)攻略は主に東の京口へ渡河する「京口ルート」、西の采石(牛渚)へ渡河する「采石ルート」、長江上流から東下する「水軍ルート」があります。
「京口ルート」は曹丕が狙い、頓挫したものです。戦績ではかなり防衛側が有利だった気がします。
「采石ルート」は賊軍でも成果(建康陥落など)があるほどの有効的な手段です。しかし江南勢力の渡河地点となる事も多く、積極的な防衛が予想されます。
「水軍ルート」も何度も実績がありますが、豫章・尋陽かその西方の郡を抑える必要があります。
速攻なら「采石ルート」、それ以外なら複数手段の併用が良いでしょう。まともに抵抗されるとどの手段も難しいので、孫権死後が狙い目でしょうか。
国力の差が顕著になった240年代から仕掛け始め、250年代に少なくとも片方に決着をつける形が上手くいきそうです。
一応、この時期に外征が優先されて大きな政争が回避されれば、先に挙げた3要素とも達成できると思います。
ぼくのイフ物語へのご意見
統一の道筋で気になる点がいくつかありました。
特に洛陽を制圧した晋と荊州を奪還した呉を降すのは難しいと思います。
また私が考察できる範囲では、荊州を奪うタイミングは合肥新城攻撃で呉が大動員をかけ、朱績が江陵を離れた時の方が良いと思います。
書き込みを受けて
『晋書』前半の曹魏後期~魏晋交替期の史料をちゃんと読みたいと思います。というか『三国志』魏志の後半も読みたい。曹丕が80歳まで生きたら、を妄想するとき、三少帝期の史実を知らないせいで話が膨らまない。『晋書』は5年以上前に、正史の原文を「初めて」読み、誤りだらけの抄訳をHPに載せたままですし。
司馬望・鄭沖・王祥・王沈・裴秀・鍾会らの列伝を読み直した上で、「書き直し」することが、イフ物語を厚くするために必要なことだと、方向性が定まりました。人物について、あれこれ考えるのは、好きですし、どちらかというと得意ですので、ぼちぼち取り組んでいきます。
呉蜀にどのように滅んでもらうかは、ちゃんと地図を見ながら考えます。この方面は、とても疎いので。せっかく三国の終焉なので、ドラマチックに行きたい。140531
「出遅れた三国好き」さんから、
さらに掲示板に書き込みを頂いたので、転載します。
天下統一の道筋
史実を取り入れ、司馬氏が「漢晋革命」を起こす展開は素晴らしかったのですが、洛陽占拠までいくと軍事的に収集がつかなくなる気がします。
想定済みかもしれませんが、少なくとも降服させるには(多くの王朝と同じように)軍事的に追い詰められた状態が必要です。
洛陽占拠で西魏・北周なみとなった版図に加え、魏の旧臣・蜀の旧臣・晋(司馬氏)の忠臣が入り混じった情勢下で劉禅・姜維らが主導して降伏するのは順調にはいかないはずです。
また洛陽失陥により魏は荊州諸軍の維持が困難になり、さらなる領土・戦力の喪失の可能性があります。
例えば(史実で蜀漢が滅びる)263年頃に洛陽(できれば関中か巴蜀も)を晋が失った状態ならば、司馬昭の死後すぐに降伏させる事も可能だと思います。これは「晋の洛陽占拠が無い」か「魏の反撃・侵攻が成功」のどちらかで解消できるはずです。
また「呉の荊州奪還」を採用した場合は江南勢力が強くなりすぎて接収に支障をきたしそうです。さらに呉の揚州の兵力は荊州維持のために分割・縮小し、孫晧の北伐も当分は小規模なものとなるでしょう。このように大打撃を与えるチャンスが失われる可能性もあります。
しかし陸抗の荊州での活躍も捨てがたいシチュエーションです。
そこで両方取り入れた上で解決できそうな筋書きを考えてみました。
まず司馬昭の蜀漢征伐を曹丕は許可した一方で、魏側にも長江沿い(荊州)からの侵攻を計画させます。
そこで荊州の一部返還などを条件として孫晧に陸抗率いる水軍を動員させます。257年頃の蜀漢では史実通りならば姜維はまだ漢中方面の指揮官として健在ですから、このような二面作戦で対処します。
例えば司馬昭の南征を察知した姜維が史実通りに257年~258年の足止め目的北伐を行い、やや遅れて魏や呉が蜀漢東部に侵攻したとします。
そして劉禅が魏・呉連合を防ぐために姜維らを呼び寄せた結果、司馬昭軍が南下に成功、蜀は結局降伏します。
その後「漢晋革命」が起きると、魏が対巴蜀の備えとして(史実と同じように)陸抗に西陵一帯を任せます。
また260年にはひろおさんの予定通りに洛陽占拠と孫晧の北伐があるとします。
この時、魏は晋・呉両者に軍を割く必要があり、行軍距離なども考慮すると孫晧軍に決戦で大打撃を与えるのは困難です。
そこで奇策、例えば諸葛誕に偽降させ、寿春に入った孫晧を捕らえるといったもので対処した方が良いでしょう。(この案ならば諸葛靚の出番も作れます。)
併呉後の建業・江南の統治は呉の陸凱・孫壱・孫秀や魏の王経・盧欽・魯芝あたりが妥当でしょうか。
また魏と呉の共同統治体制だった荊州も無難に併合できるはずです。
このまま魏と晋が「どちらが良い国制を作れるか」を競う状態に入るとしても、いつかは晋に軍事的に打撃を与える必要があるでしょう。
これは様々なパターンが思いつきますから、後は「どのように統一するか」と「誰が活躍するか」次第ですね。
私の筋書きの要点は「司馬昭の平蜀の時に魏が呉(陸抗)を動かす事」、「孫晧の北伐に大軍を使わずに対処する事」、「最終的に晋に軍事的な打撃を与える事」の3点です。(基本はひろおさんの案を軸としています。)
ぼくの返信
洛陽占拠は、曹丕に一度「魏」まで帰ってもらいたかったので、結果ありきで、意図的につくった設定です。
子供時代の曹丕は、宛城の戦場にいたようですが、彼のデビューといえば、鄴=魏で甄氏を強奪したところです。思い出の地から、再出発して欲しかったのです。
曹操の生前、曹操が遠征をくり返すとき、曹丕は常に鄴を守ってました。「魏」帝であることの意味を見つめ直させる場面を作りたかったです。
洛陽は守りにくいとされるので、晋の内部の事情を少し混乱されば、晋が洛陽から手を引くと思います。董卓も洛陽で数年だけ持ちこたえて関中に引きました。 ぼくは洛陽を、魏晋のあいだの空白地帯とするつもりでした。洛陽が戦場になりそうなとき、「董卓が焼き、曹丕が復興したものを、また焼いていいのか」という、「オオヤケ」の議論を、魏晋の各内部でもやらせます。どちらが天下の視点を持った皇帝なのか、という問題も浮かび上がります。
結果、洛陽を主戦場にすることは避けられると。
もしも洛陽が曹丕から司馬昭の手に移った場合、荊州の魏軍の維持がうまくいかないのは、ご指摘のとおりですので、どこまで晋に洛陽を安定的に占領させるのかは、サジ加減を考えます。
史実では征呉に消極的で、軍事に疎そうな賈充あたりに、「洛陽は要らないでしょ」と発言させたりもするかも知れません。
晋の降伏の件ですが、司馬炎の群雄としての実力は未知数です。史実では、平均点以上の人物なら、誰でも勝てそうな状況で嗣ぎました。
司馬昭の死後、司馬炎がミスをして、関中の晋が求心力を失い、劉禅になんとか収めてもらう、という蜀ファン用のシナリオを想定してます。「みんな漢臣の子、もしくは漢臣の孫じゃないか」と演説したり(笑)
荊州の陸抗の動きは、あまり考えていませんでした。魏の封王としての呉のために荊州にいて、巴蜀を牽制する、というアイディアは頂戴しようと思います。
「孫晧は、魏の封王であるが、諸葛恪とともに独立する気が旺盛。一方で呉将として荊州に置かれた陸抗は、魏のために動く」という君臣のすれ違いにより、呉が事実上分裂するのが良さそうです。
諸葛誕が偽降して、孫晧に大ダメージを与える件は、アイディアを頂戴したいと思います。史実以上に、孫晧がハデに進軍する理由がほしかったところです。
寿春といえば、孫策が袁術に仕えた思い出の地ですから、「寿春から孫呉の天下統一が再開するのだ」と気負ってコケる孫晧とか、描けたら最高だと思います。ぼくが得をします。
思いついた順に書いてしまいましたが、以下のようにまとまります。
「司馬昭の平蜀の時に魏が呉(陸抗)を動かす事」
→アイディアを頂戴したいです
「孫晧の北伐に大軍を使わずに対処する事」
→アイディアを頂戴したいです
「最終的に晋に軍事的な打撃を与える事」
→晋の君臣の諸要素を(史実とは異なり)裏目に出させ、
内部から弱体化させたいのでもう少し考えさせて下さい
アイディアを頂戴して、リアリティが増してきた気がします。もっと、いろいろ考えてみたいと思います。140601閉じる