三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
仮説「曹操はアスペルガー症候群だ」(1)
(1)結論
曹操はアスペルガー症候群だった。
この仮説の妥当性を、陳寿『三国志』と裴注を参考にしながら、論証したいと思う。
言うまでもないが、曹操を正しく診断するには、本人をこの場に連れてきて、臨床心理学の専門家の見解を仰ぐべきだ。しかし、三国時代で最大だった魏王朝の基礎を作り、西暦220年に死んでしまった彼を、現代の面談ルームに連れて行くことはできない。ゆえに、歴史書の記述から推測するかたちとなる。
以下、曹操の生涯を時系列で追いながら、アスペルガー症候群の特性が非常によく表れていることを確認したい。

余談ではあるが、日本人が『三国志』の曹操を捉えるとき、織田信長のイメージがよく投影される。
旧習に囚われない革新性、他人が付いていけない独創性、そして新時代を切り開いた英雄性。これらが、よくシンクロするらしい。
井上敏明先生によれば、織田信長はアスペルガー症候群だった可能性があるという。周囲が信長の「我の強さ」に、周囲が付き合えなくなった結末が、本能寺の変だという。

(2)気ままな少年時代
曹操は、西暦155年、宦官の家の孫として生まれた。
「少年時代は勝手放題で、品行を整えることはなかった。そのため世間では、曹操を評価する人がいなかった」とある(武帝紀)。
社会のルールに従わず、我が道を行く。これは、アスペルガー症候群の性質だろう。
宴席で大笑いしたときは、頭を杯や椀の中につっこみ、頭巾はご馳走で汚れ、びしょびしょになるほどだった(曹瞞伝)。

注目したいのが、若き曹操に、心を通わす友人がいたかどうかだ。史書には、その答えは直接は書かれていない。
これは推測だが、きっと友人は少なかっただろう。「曹操は若年より機知があり、権謀に富んだ」とある。曹操の頭の回転を認める仲間はいたかもしれないが、曹操の心は1人ぼっちで、本人はそれを良しとしたのではないか。 人を欺くキャラクターの周りに、温もりがある情は育ちにくい。
曹操のライバルとして位置づけられるのは、劉備である。劉備の下には、プライベートな信義を通わせた人が集った。関羽と張飛がその筆頭である。劉備は彼らと「寝床を共にした」ほど、仲が良かった(関羽伝)。これが後世の物語では、「桃園結義」という名場面へと昇華する。
これに対して曹操の寝所は、聖域である。
曹操の死の直前になって初めて、従弟の夏侯惇が寝所に出入りを許された(夏侯惇伝)。しかしこれは、長年の功績を認められた褒賞である。逆に言えば、血縁があり、挙兵当時からずっと従い、よく曹操の女房役として描かれる夏侯惇でさえ、何十年も寝所への出入りは許されなかったことを表す。

当時の社会は、名声が将来を左右する。曹操は、人に気に入られるタイプではなかったから、前途は暗かった。
『世説新語』によると、曹操の数少ない理解者である橋玄が、アドバイスをしてくれた。「君はまだ名声がないから、人物評の権威である許劭にコメントをもらうと良いだろう」と。
訪問したが、許劭は曹操を疎んじて、コメントを控えた。しかし曹操は空気を読まず、「何か言ってくれ」と強迫した。すると許劭は、「お前は、治世では能臣で、乱世では奸雄だ」と言った。皮肉である。毒を溶かし込んだ、謎かけのような言葉だ。
しかし曹操は、大笑いをした。
歴史学者の手にかかると、曹操が喜んだ理由は、「コメントの内容はともかく、有名人の許劭から何らかの言葉を引き出したこと自体が、出世の糸口となるから」となる。
だが、曹操がアスペルガー症候群だと仮定すれば、分析は違ってくる。許劭が苦々しい顔をしていたことは感じ取らず、皮肉だとは気づかなかった。そして、ただ字面の中に褒め言葉が入っていたから、素直に喜んだ。

(3)大人社会での挫折
曹操は20歳で、就職した。洛陽北部尉(都の門番)になった。
『曹瞞伝』によると、このとき曹操は、アスペルガー症候群の特性を発揮した。すなわち、ルールを頑なに守り、原則の変更を拒んだ。有力宦官の叔父がルールを破り、夜間通行をした。柔軟な対処をしても良さそうなものだが、曹操はその場で、世を時めく「違反者」を殺してしまう。
王朝そのものが腐っていたから、後世から見たら「権力におもねらない、果断な勤務態度だ」というプラスの評価になるだろう。だがこの時点では、単なる暴挙である。褒め殺しにあって「昇進」させられ、地方に転任した。

のちに都に戻ると、曹操は政治方針(党錮ノ禁)について、皇帝を直接批判した。また、地方での賄賂の横行を指摘した。
20代のほんの若造が、全く空気を読まずに発言したのだが、大人の世界で受容されるわけがない。曹操は拗ねて、献策を辞めてしまった(魏書)。
正論よりも腹芸が支配する宮廷は、アスペルガー症候群の人にとっては、あまりに生きづらかった。ましてこのとき皇帝の周りでは、宦官・外戚・官僚らが、陰に陽に潰しあいを演じており、情勢は複雑怪奇だった。曹操に活躍の場はない。

黄巾平定の功績で、地方官に就いた。汚職が蔓延していたので、曹操は役人の8割をクビにした。また、商人の財源になっていた民間信仰の祠を、打ち壊した。環境と折り合うということを、とことんしない人だ。軋轢は大きかったのだろう。
曹操は病気にかこつけて、郷里に引っ込んでしまった。たびたび任命を受けたが、ボイコットした。春と夏は書物を読み、秋と冬は狩猟に出かけて、マイペースな生活を楽しんだ(魏書)。
平たく言えば、引きこもりである。社会とうまく距離を取れないのだから、1人でいると安心したに違いない。幸い家には財力があったから、曹操は心置きなく自閉した。

アスペルガー症候群の人は、自分が興味を持った特定の分野に、常人離れした集中力や記憶力を発揮する。
曹操の場合、それは兵法だった。『異同雑語』によれば、曹操は、諸家の兵法の選集を編纂した。また、『孫子』に注を付けた。現代まで伝わっていて、例えば岩波文庫で読むことができる『孫子』は、このとき曹操がまとめたものだ。曹操ほど優れた兵法学者は、めったにいない。
以後の曹操は、数え切れない戦場を踏破し、弱小勢力から伸し上がっていく。その強さを支えたのは、兵法への精通だった。「関心があることを仕事に生かすと、天才的な成果を出せる」のがアスペルガー症候群だが、曹操はそれを実現した。

(4)KYと独り善がり
皇帝が死ぬと、政治は混乱した。政権トップの何進は、腐敗の元凶であるとして、宦官を皆殺しにする計画を立てた。だが曹操は、格下のくせに堂々と反対した。
「宦官は、後宮の運営のために必要だ。だから、いつの時代も存在した。皆殺しにしてはいけない」
曹操の祖父が宦官だから、擁護に回ったという解釈ができる。また、何進の計画が杜撰で、結果的に返り討ちにあったことから、曹操の戦術眼を褒める人もいる。しかし、この発言にそこまでの意義を負わせるのは、不適当だろう。
曹操は、ただ自分が思ったことを、そのまま口にした。それ以上でも以下でもない。単なる一般論を、周囲が打倒宦官に燃えているという雰囲気を無視して、言っただけだ。

このとき何進は、宦官を討つために、四方から軍隊を呼び寄せていた。これにも曹操は異を唱えた。
「罪がある宦官を罰するなら、獄吏が1人いれば充分だ。どうして無駄に事を大きくするのか。失敗するぞ」
歴史のいたずらで、このとき呼び寄せた董卓によって、王朝は滅ぼされる。だから、曹操の先見の明は素晴らしい、という評価がある。空気を読むことが出来ず、それゆえに同調を強いられない自由人であるからこそ、得られた評価だ。

狂暴な董卓が政権を握ると、曹操は姓名を変えて逃亡した。間道を伝ってのエスケープだが、途中で父の旧友の家に立ち寄った。このとき曹操は、歓待してくれた人々を殺してしまう。殺害の理由について、歴史書は記述が一貫しない。
家の子供や食客たちが曹操を脅し、持ち物を奪おうとしたから(魏書)。曹操が被害妄想をたくましくしたから(世語)。食事の準備をする、食器の音に驚いたから(雑記)。『三国演義』では、家畜を絞め殺すために相談する声を聞いて、自分を殺すつもりかと勘違いしたから、となっている。
いずれにしても過剰防衛だが、コミュニケーションの文脈が欠落してしまうアスペルガー症候群だからこそ、曹操が先走ったように思えてならない。

(5)大虐殺と離婚
群雄割拠の時代が訪れると、曹操は兗州を本拠とした。徐州から父を呼び寄せようとしたが、父は道中で山賊に殺されてしまった。これを受けて曹操は、彼の人生で最大の謎にして最大の汚点となる行動を起こした。
徐州に兵を出して諸城を攻め、全く関係のない民衆の数万を虐殺した。死体は川を塞き止めたという。
なぜ曹操が狂ったように殺しまくったのか、納得できる解説を目にしたことがない。孝心から出た報復だとか、父の死を領土拡大の口実にしたとか、もっともらしい説明を付けようとしても、どうしても不自然さが残る。
徐州虐殺の理由が分からないのは、史書の記述が不足しているからではあるまい。周囲にどう受け取られるか考えず、曹操が独自の原理で行動してしまった結果だろう。アスペルガー症候群の特徴だ。
後世の我々は曹操の心の働きを理解しかねるが、それは同時代の曹操の臣下も同じだった。留守を任された陳宮は、「曹操のやり方は理解できない」と謀反し、曹操を滅亡の危機に追い込んだ。曹操は、たった3城を残して領土を全て失った。
曹操は遠征する前に、「もし俺が敗れたら、張邈を頼りなさい」と家族に伝えていた。すなわち曹操は、張邈を親友だと思っていた。だがその張邈は、曹操を攻める側に回った。他人の気持ちの機微が、まるで読めていない。のちに領地を挽回した曹操は、張邈とその一族を皆殺しにした。

曹操は天下を統一し損ねて、三国時代の最大勢力を築くに留まった。曹操の魏に楯突いたのは、呉と蜀である。
呉には、曹操が虐殺を行った徐州から知識人が流れ込んで、政権をよく支えた。蜀に割拠する劉備に「天下三分の計」を授けた諸葛亮(孔明)は、同じく徐州出身だ。曹操の強さの由来となる個性は、同時に曹操が統一に失敗する原因も作ったと言えよう。

曹操は、荊州に張繍を攻めた。張繍が(策略で)降伏すると、曹操は張繍の伯父の未亡人と情事に励んだ。勝者は、敗者から女を奪う権利がある。
しかし、降伏したはずの張繍が、曹操を攻めた。曹操は長男から馬をもらって、逃げ延びた。長男は代わりに死んだ。
曹操の正妻で、長男を育てていた丁氏は実家に帰ってしまった。曹操は「迎えに行くぞ」と言い、後日訪問すると「戻ってこないか」と背中に語りかけた。丁氏に無視されると「それなら、お別れだ」と言った。人の心が、まるで分かっていないようだ。浮気して、そのせいで長男を死なせて、悪びれていない。
仮説「曹操はアスペルガー症候群だ」(2)
(6)赤壁の挫折
曹操は、河南を勢力圏とし、黄河の北で最大の兵力を誇った袁紹に、官渡で戦勝した。1万に満たない兵で、10万以上の相手に勝ったと書かれている(武帝紀)。数字に誇張があるだろうが、強みを発揮した曹操は、兵法の怪物である。
この官渡の戦いの後、袁紹の残党を追って、7年にわたる北伐を敢行した。徹底的に勝った。

天下の3分の2は曹操に帰した。残るのは、南方の3州だけである。曹操は南下して、豊かな荊州をまず攻めた。
しかしここで、予想外の事態が起きた。荊州を治めていた劉表が、曹操進攻にタイミングを合わせたように死んだ。トップを失った荊州は、曹操に降伏してきた。
アスペルガー症候群の人は、予定の変更に弱く、混乱してしまいがちだ。荊州を攻めるため、念入りに水軍を訓練してきたのに、使い道がなくなった。冷静な第三者は、「戦う手間が省けたのだから、ラッキーじゃないか」という感想を持つが、曹操はそうは感じなかったはずだ。
北伐では超人的な強さを見せた曹操は、遠征の目的を失った。

荊州以外の2州も、曹操に降伏する兆候を見せていた。それもそのはずで、10州を支配する曹操に、1州で対抗できるわけがないからだ。
西の益州(蜀)の劉璋は、曹操に使者を送ってきており、曹操の機嫌を取っていた。 チェックメイトを掛けているにも関わらず、荊州をタナボタで手に入れた曹操は、混乱して失策を重ねた。
これまで鄭重に持て成していた益州からの使者を、邪険に扱った。「荊州を接収して、驕ったか」と反感を買った(漢晋春秋)。だが実際はそうではなく、曹操は判断力を欠いていたのだと思う。そのせいで、アスペルガー症候群の特徴である、 相手の気持ちが分からないという弱みが、出てしまった。
このときの使者は曹操を憎み、後に益州へ人傑・劉備を招き入れてしまう。これが、曹操の天下統一を阻む原因となる。

東の揚州(呉)の孫権軍も、家臣の9割が曹操への降伏を支持していた。だが、独り周瑜が徹底抗戦を唱えた。
ビジョンを失った曹操軍は、80万に膨らんで、惰性で揚州を攻めることにした。だが、たった3万の周瑜軍に焼き払われてしまった。世に有名な赤壁の戦いである。2008年11月に公開される映画「レッドクリフ」の元ネタである。
曹操の軍は、風土病にも苦しんだ。中国の北方で構築された兵法の理論に、当時のフロンティアである長江流域の水質までは、書かれていなかった。想定外のことが立て続けに起きたため、曹操は北へ逃げ帰った。

(7)デジタル脳の暴走
赤壁の戦いの直後、曹操は人材登用の方針を発表した。
「才能さえあれば、人格に問題がある者でも登用する。身分が低くても、貧しくても、兄嫁と密通していても、賄賂をもらっていても良い。才能のみが基準である」
この発令は、非常に曹操らしい。後漢において、人材登用の基準は、儒教の徳目の体現であった。清廉で孝行であることが、官吏の評価尺度だった。それをほぼ180度変更したのだから、みな驚いたに違いない。「赤壁の敗戦で、人材不足を痛感した。曹操は焦ったのでは」というのが、通釈だろう。
だがこれは、デジタル脳の暴走だったと思う。デジタル脳というのは、善悪や好き嫌い、快と不快をそれほど重視しない。それより、整合性の高さを重視する。矛盾がなければ、社会通念から外れたことであっても、是とするシステムだ。官吏を、1つの機能体だと割り切るのならば、曹操の命令は極めて論理的で美しい。
赤壁の戦いで慮外のことに苦しめられた曹操が、反動で極端に走ったように見える。容易に想像できることだが、この命令は反発を招いた。ことに、後漢を通して権力を培ってきた、儒教官僚たちは目尻を吊り上げた。これが、曹操の魏が滅亡する伏線となる。

同じ年、銅雀台という巨大な宮殿を建造した。「赤壁に敗れても、国力にはまだ余裕があるんだぞ」という、示威的事業だと説明される。その説明は間違いではないが、曹操のデジタル脳が憂さ晴らしをしたのだと考えたい。
曹操は、建造物の意匠をデザインするのが好きだった(武帝紀)。長江という大自然は御しきれないが、建造物なら思ったとおりの形を作れる。「こうすれば、こうなる」という、人工物が持つ因果関係の分かりやすさが、曹操の心を癒したのではないか。
アスペルガー症候群の子供は、周りが何をしていようと、1人で積み木に熱中していることがあるようだ。スケールは違うが、構造的な違いはないと思う。

赤壁の3年後、曹操は関中に馬超を攻めて、死にかけた。練りに練った戦略を引っさげて、小勢力の掃討に出かけたはずだが、黄河を渡るタイミングを読み誤って、矢の雨の中を辛うじて逃げた。たった1人の護衛に守られて小舟に隠れ、盾にした馬の鞍はハリネズミになった。
曹操の戦というのは、両極端だ。徹底的に勝つか、あわや死ぬかという局面に追い詰められるかだ。徐栄、呂布、張繍、周瑜、馬超は、あと一手で曹操を殺すことができた。これもデジタル脳の為せるわざだと考える。
論理的であるということは、インプットされた前提を、正しく変換し続けるということだ。だから、もし前提が間違っていたら、アウトプットは漏れなく間違ってしまう。柔軟に肌で戦局を感じる人なら、辛勝や惜敗もあるだろうが、曹操にはそれがない(武帝紀)。
アスペルガー症候群の人は、余人が理解できない思考と行動をするから、びっくりするような成果を出すのだろう。そして、びっくりするような死に方と紙一重なのだろう。

(8)対人関係は「鶏肋」
曹操と対極にある劉備は、招かれて益州(蜀)を手に入れた。曹操はこれを討つため、出兵した。結果、劉備を破ることができず、撤退した。三国鼎立の図が、これで固まってしまう。
攻めあぐねたとき、曹操は意味不明な布令を出した。「鶏肋」と。この真意は、歴史書のどこにも書かれていない。ただ文官の楊脩だけが、撤退命令だと理解したという(九州春秋)。ニワトリの肋骨というのは、ダシが取れるから捨てるには惜しいが、食べられるものではない。曹操がいま攻めている地も同じで、放棄するのは悔しいが、執着する必要はないのだ、と。
この解釈が曹操の真意を得たものなのか、永久に誰も分からない。だが、後に曹操が楊脩を誅殺したことを視野に入れると、不正解だったのかも知れない。

比喩表現が苦手なアスペルガー症候群の人は、過去に聞いたことがある慣用句を細かく記憶していて、不適切な文脈で唐突に引用することがあるらしい。「鶏肋」が載っている古典はないようだが、曹操の個人的な言語生活の中で、聞いたことがあるワードだったのだろう。こんな事情だから、こじつけでもしない限り、第三者には解釈不能である。
思うに曹操が「トリのアバラ」と言いたかったのは、対人関係だったのではないか。
劉備というのは、百戦百敗を重ねながら、人の心をつかんで生き残り、ついに益州(蜀)のリーダーになった。ロジカル・アニマルである曹操には、劉備という人間も、劉備を推戴する人間も、さっぱり理解できない。長年に渡って、心の機微が理解できないと悩んできた曹操だが、ついに割り切るに到った。「人の心を読み取るという技能は、捨てるには惜しい。だが私にとって、それほど旨みもない」という、自己受容の宣言だったのではないか。

曹操は、2人の息子とともに「三曹」と言われ、中国文学の新時代を創った。個人的な感情を漢詩に託すことは、それまでタブーであり、全く行われていなかったが、曹操がこれを始めた。もしコンテクストに縛られる頭の仕組みだったならば、このような革新的な創作活動は出来なかっただろう。

(9)仮想帝国の準備
曹操の時代から400年前、秦王は武力で全土を平定し、「皇帝」という概念を発明して、始皇帝を名乗った。以降、「武力によって天下統一すれば、誰でも皇帝になれる」という不文律が、中国の歴史を支配した。
赤壁で挫折するまでは、曹操は果敢に武力による天下統一に挑戦した。曹操は真正面から、皇帝を狙った。しかし、呉と蜀を平らげ損ねたとき、おかしな屁理屈に頼ることになった。

皇帝が交代する方法は、2つある。まず、武力で奪取する「放伐」。もう1つが、徳を失った前王朝が、徳のある臣下に皇位をプレゼントする「禅譲」。しかし、武力による王朝交代は成功例があるのだが、プレゼントの授受が成功した実績はない。穏便な王朝交代なんて、机上の空論である。
曹操の時代から200年前に、一度プレゼントによって王朝を建てた人がいたが、1代で滅びてしまった。その王朝は、典籍に書いてある古代の政治を、杓子定規に再現しようとして失敗した。
あまりに理想主義に流れ、世論を敵に回した。王朝をプレゼントされるというのは、脳が作り出した虚構であり、文官が紡ぎだした修辞である。デジタル脳が出力した「矛盾のない正統性の理論」があったかも知れないが、万人が納得するものではなかった。

軍事的に挫折した曹操は、次善の策として、プレゼントを受け取る準備に着手した。自分の国を正当化する理屈を、回転の良いデジタル脳を使って作り始めた。200年前の失敗例を教訓にして、「天下統一はしていないが、私は前王朝の正しい継承者だ」という説明を膨らませた。
アスペルガー症候群の人は、理系分野で新理論を発見することがあるようだ。曹操は物理学者ではないが、10年以上かけて、己の理論に磨きをかけたに違いない。
心情的なバイアスがかかりにくいため、純粋に学究的に考察ができた。それが曹操の強みだ。 「時代を超えた英傑だ」と『三国志』で評価されているが、もし周囲の空気を敏感に感じ取っていたら、時代を超えることはできなかった。曹操は頭痛持ちだったが、これは世間と曹操との間に起きた摩擦だったに違いない。

曹操は、自分ではなく子の代に王朝を譲り受けるというクッションを設定し、死んだ。子は、曹操のデジタル脳をよく継承して、複雑な書簡を幾度もやり取りし、前王朝から皇位を引き継いだ。これが後の中国の歴史における、皇位のプレゼントすなわち「禅譲」の先例として、ずっと真似されることになる。
曹操の子で、魏の初代皇帝になった曹丕は、兄弟を弾圧した。「皇族が多いと、後継者争いの火種となる」という理由だ。血の繋がった肉親への情ではなく、冷静に徹した政治方針である。さすが曹操の王朝だ、と言うべきか。

(10)魏の滅亡
曹操が召し出した中に、司馬懿という人がいる。
はじめ司馬懿は曹操に仕える気はなく、仮病を使った。曹操は司馬懿の寝所に刺客をやり、針で刺して、本当に病気で身体が動かないかチェックさせた。ついには「出仕しないなら、縛り上げろ」と命令して、無理に連れ出した(晋書)。
曹操は司馬懿を不気味に思っていたようだ。その理由は、司馬懿が腹芸の達人だったからである。自分には著しく欠けていると自覚している性質を、司馬懿は高いレベルで持っていた。だから、飼いならしておこうと思ったのではないか。
司馬懿は、身体を全く回転させることなく、首だけ真後ろに向けることができた。顔を見ただけで、心の奥底まで読みきっているという、洞察力の鋭さを例えたものではないか。

曹操が死んでからたったの45年後、魏は司馬懿の子孫に乗っ取られた。司馬氏は、「酷薄なやり方をする魏は、もうたくさんだ。もっと温かみのある王朝を作ろう」をスローガンにして、儒教官僚の子孫たちを味方に付けた。
正面衝突はせず、魏を内側から徐々に蚕食していった。司馬氏は派閥争いを得意として、政敵を順序良く葬った。
全てを白黒をかっちり分けるのを望む人は、アスペルガー症候群の人が感じているよりも、世間ではずっと少ないようだ。支持を得にくい。曹操の王朝の限界は、それを教えてくれる。

以上、曹操はアスペルガー症候群であるという仮定を、歴史書の記述を追いながら確認した。081014

井上敏明・森野としお『漫画でもわかるアスペルガー読本』メディカルレビュー社2008
佐々木正美・梅永雄二『大人のアスペルガー症候群』講談社2008
今鷹真・井波律子訳『正史三国志1魏書Ⅰ』ちくま学芸文庫1992
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