いつか書きたい『三国志』 http://3guozhi.net/

龐統は、孫権が「劉備に荊州を貸す」とき、鍵になる人物

魯粛の小説に織り込めなかったのですが、孫権の荊州・劉備をめぐる政策の鍵になる人物は、龐統です。疑わしいというか、かぐわしい史料を列挙しておきます。
かつて私は、「龐統は、孫権が劉備のもとに送り込んだ監視役である。龐統は、劉備の軍師ではなく、龐統の軍師である」という記事を書きました。(賛否とも)反響がありました。

龐統伝の読解については、youtubeでやってみました。190811
再生リスト
龐統伝1龐統伝2龐統伝3龐統伝4龐統伝5

龐統は、南郡太守周瑜の功曹(郡府の任免賞罰を掌る)であった。この時期、劉備が京口にきて、領土をくれと頼む。周瑜の死後、孫権は、魯粛の勧めにより劉備に江陵を借す。

 

■龐統伝(周瑜の死)

龐統伝:呉将周瑜、助先主取荊州、因領南郡太守[建安十四年]。瑜卒[建安十五年@巴丘]、統送喪至呉[呉郡呉県]。呉人多聞其名。及当西還[荊州へ]、並会昌門[呉県の昌門、『世説』品藻篇にあり、閶門に作る]。陸績・顧劭[陸績・顧劭は呉郡呉県、全琮は呉郡銭唐の人。陸績伝に、龐統と陸績は友善とある]、全琮、皆往。

周瑜は、劉備と協同して荊州を奪取し、(建安十四年)南郡太守を領した。(建安十五年)周瑜が死ぬと、龐統は周瑜の遺骸を呉郡に送り届けた。呉郡の人士は、多くが龐統の名を、聞き知っていた。西(荊州)へ帰ろうとするとき、(呉郡の)昌門に集まった。陸績・顧劭・全琮は、みなが見送りに駆けつけた。

 

■龐統伝(龐統がサボり、魯粛が手紙)

龐統伝:先主領荊州[魯粛から江陵を譲られ]、統以従事、守[桂陽郡]耒陽令。在県不治、免官。呉将魯粛、遺先主書曰「龐士元、非百里才也。使処、治中、別駕之任、始当展其驥足耳」諸葛亮亦言之於先主。

劉備が(魯粛の口添えで)荊州を領すると、龐統は、従事たるを以て(桂陽郡の)耒陽県令を守した。県に赴任しても政務をせず、免官された。魯粛は、劉備に手紙を送り、「龐統は、百里の才(県令の器量)ではない。治中・別駕の任務を担当させるべきだ。そうすれば、はじめて、驥足を伸ばす(才能を発揮する)でしょう」と。諸葛亮も、劉備に対して同じことを言った。

魯粛・諸葛亮の口添えで龐統が荊州牧劉備の部下に。魯粛が、人事に指図をするなど、よっぽどのこと。龐統の登用は、(荊州支配を安定させたい)魯粛・諸葛亮の意志に合致すること。魯粛は、江陵を劉備に貸してもよいが、龐統を荊州のナンバーツーとして置くべきことは、譲歩の余地がなかった。

 

■龐統が、荊州牧劉備の治中従事となる

龐統伝:先主見、与善譚[善譚は、当世のことを劇論すること、盧弼:龐統は帝王の秘策に一日之長があるが、言葉が伝わっていないのが残念]、大器之。以為治中従事[治中従事について胡注あり]〔一〕。

(魯粛の口添えで)龐統が、劉備と面会した。劉備と当世のことについて、議論を戦わせた。

劉備が、曹操にどのように対処すべきか。それだけでなく、劉備が、孫権にどのように対処すべきか、も話したはず。

劉備が龐統を治中従事にしたときの注釈。

江表伝曰、先主与統従容宴語、問曰「卿為周公瑾功曹、孤到呉、聞此人密有白事、勧仲謀相留、有之乎。在君為君、卿其無隠。」統対曰「有之。」備歎息曰「孤時危急、当有所求、故不得不往、殆不免周瑜之手。天下智謀之士、所見略同耳。時孔明諫孤莫行、其意独篤、亦慮此也。孤以仲謀所防在北、当頼孤為援、故決意不疑。此誠出於険塗、非万全之計也。」

『江表伝』は、時期を定めずにいう。劉備が龐統と、従容として(ゆったりと)酒席で話したとき、質問した。「あなたは、周瑜の功曹でした。私が呉郡に行ったとき、周瑜がこっそりと提案し、私を呉郡に留めおけと言っていたそうだ。君あれば、君のためにす(君主に仕えたら、君主のために行動する)。隠してくれるな」と。龐統、「(呉郡抑留の提案は)ありました」と。

周瑜は、劉備抑留という重大なことを、全員に相談していたとは思えない。なぜなら、公知の事実になってしまったら、劉備がノコノコと呉郡にやってこないから。周瑜は、龐統を信頼して、こっそり打ち明けた。『江表伝』において、龐統がそっけないことから、龐統は、劉備の抑留については、どちらでも良いと思っていたか。

劉備は歎息し、「あのときは危急であり、通したい・通すべき要求(領土を借りたい)があった。ゆえに(呉郡に)行かざるを得なかった。あやうく・ほとんど周瑜の手を免れない(抑留されるところだった)。天下の知謀の士が、考えることは大体同じなのだ。当時、孔明が私に行くなと諫めたが、ひたすら熱心であったのは、この心配があったからだ。私の考えでは、仲謀が防ぐところ(敵対者)は北にいるから、私を頼りにして援軍と位置づけると考え(抑留されないと確信し)、ゆえに(呉郡に行くことを)決意して揺らがなかった。これは、まことに険しい道からの生還であって、万全の計ではなかったのだ」と。

この『江表伝』の見解でいくと、劉備は、きっと孫権が(周瑜の反対を押し切っても)呉郡抑留はないだろうと、楽観していたことになる。「孫権から見た、劉備の利用価値」は、劉備・魯粛で一致し、周瑜・呂範・孔明のあいだで一致していた。劉備のいう「天下の知謀の士」から、魯粛はモレていますね。

 

■龐統伝_荊州における龐統

親待、亜於諸葛亮。遂与亮並、為軍師中郎将〔二〕。亮留鎮荊州、統随従入蜀。

劉備からの親しみと厚遇は、諸葛亮に次いだ。こうして、諸葛亮と同格となり、軍師中郎将となった。諸葛亮は荊州を統治し、龐統は益州に従軍した。

 

〔二〕九州春秋曰、統説備曰「荊州荒残、人物殫尽、東有呉孫、北有曹氏、鼎足之計、難以得志。今益州国富民彊、戸口百万[郡国志で、戸は152万・口は724万]、四部兵馬、所出必具、宝貨無求於外、今可権借以定大事。」

『九州春秋』によると、龐統は劉備に、「荊州は荒廃してしまい、人口も物資も蕩尽された。東には呉孫、北には曹氏がおり、鼎足の計は、志を得がたい。

龐統は、荊州を主語・主体にして考えている。荊州から見れば、北に曹操、東に孫権がおり、どちらも脅威なのです。他国の兇徒なんです。

いま益州は、豊かである。」

 

九州春秋つづき:備曰「今指与吾為水火者[ベア商品]、曹操也、操以急、吾以寛。操以暴、吾以仁。操以譎、吾以忠。毎与操反、事乃可成耳。今以小故而失信義於天下者、吾所不取也。」統曰「権変之時、固非一道所能定也。兼弱攻昧[尚書仲虺の言]、五伯之事。逆取順守[湯武の事]、報之以義、事定之後、封以大国、何負於信。今日不取、終為人利耳。」備遂行。

弱いものは併合して、筋が通らないものを攻撃すること。または、弱いものが協力して政治が乱れ、衰えた国を討ち果たすこと。「昧」は薄暗いことで、乱れていることや、道理に合わないこと。「弱を兼ね昧を攻む」とも読む。兼弱攻昧是指兼并弱小、攻击愚昧的国家。

龐統は、龐統伝注引『九州春秋』で「荊州は荒廃し、荊州だけで曹操に対抗できないから、益州を併呑せよ。劉璋はそれなりの地位を与えればよい」という。これは周瑜が「揚州の国力だけでは曹操に対抗できない。荊州を併呑せよ」に通じる。荊州牧劉表の子か、それを継いだ劉備はそれなりの地位で京に置き…というのと同じ。
劉備は、魯粛と考えを共有し(魯粛に吹き込まれ?)江陵にいて、曹操に対抗するということだけを勧める。しかし龐統は劉備に、魯粛の思惑どおりに動く必要はないと説く。孫権・魯粛の方針が変わったら、劉備はたちまち、勢力が滅亡する。それよりも、自前で益州を攻略せよと。
これは、魯粛にとっては誤算である。まさか龐統が、劉備に独自の戦略を説くとは……。余計なことをしてくれるな!という気持ちだったと思うが、それは仕方がない。