いつか書きたい『三国志』 http://3guozhi.net/

『春秋左氏伝』で読む城濮の戦い

『三国志』魯粛伝に引用があることから、『春秋左氏伝』僖公二十八年に見える、「三舎を避く」について勉強しました。しかし、楚と晋がどのように覇権争いをしているのか。楚の子玉と、晋の子犯が、何を言い争っているのか、理解が生半可でした。

http://3guozhi.net/p/skd.htm
そういうわけで、この戦いの発端に遡って読んでみます。戦いに係わるところだけ抜粋しています。

諸国を流浪した上で覇者?になろうとした劉備。これは、同じように流浪し、君主の地位を嗣ぎ、覇者になった、春秋時代の晋の文公(重耳)に似てます。『三国志』魯粛伝の注で、魯粛が劉備を重耳に準えている文言があります。劉備=重耳。これって有名な話ですか?掘り下げてみたい論点。蜀側で言ってましたっけ。

『春秋左氏伝』なので、経を読み、つぎは伝を読みます。

 

■『春秋左氏伝』僖公二十七年 経

冬,楚人,陳侯,蔡侯,鄭伯,許男,圍宋,十有二月,甲戌,公會諸侯盟于宋。

冬、楚人(子玉)……らが宋を包囲した。

杜預:僖公二十八年の伝から、楚軍を率いたのは、子玉と分かる。楚が思い通りにならなかったことを恥じ、(子玉の名を隠して)微者として赴告してきたからである。

十二月、魯の僖公は、諸侯と宋で会盟した。

杜預:対応する伝はない。諸侯が宋を討伐し、(魯は)楚と友好関係にあったから、行って会盟したまで。「諸侯」と総称しているからといって、諸侯との約束の期日に遅れたのではない。宋は包囲されている最中で、盟に参加しなかったことが明白であるから、ここでいう「宋」は、ただの地名・国名である。宋の襄公は参加していない。

 

■『春秋左氏伝』僖公二十七年 伝

冬,楚子及諸侯圍宋,宋公孫固如晉告急,先軫曰,報施救患,取威定霸,於是乎在矣。

冬、楚子(楚の成王)は、諸侯とともに、宋(の襄公)を包囲した。宋の公孫固は、晋に赴き、事態の急迫を報告した。

杜預:公孫固は、宋の荘公の孫である。
このとき宋を攻めた、楚の指揮官は子玉である。

晋の先軫は、急報を受けて、(晋の文公=重耳に対し)「宋の恩恵に報い、危難を救い、威信を立て、覇業を定めるときが、今こそやってきた」といった。

楚と晋が、覇権を巡って争っている。覇権争いは、楚に包囲された宋が、晋に救援を求めたことから分かる。
晋の文公が、宋(の襄公)から受けた恩恵は、『春秋左氏伝』僖公二十三年に、「(重耳が)宋に着くと、(泓水の戦いで、「宋襄の仁」を行ったせいで、楚に敗れていた)宋の襄公は、(晋の援助を期待して)馬八十頭を贈った」とある。
すなわち、晋の文公が、宋の襄公に負っていた恩義とは、馬八十頭をもらったこと。宋の襄公は、晋の文公が、いつか楚を牽制してくれると期待していた。その恩着せを回収するときが、4年目にやってきた。
ちなみに、同じ『春秋左氏伝』僖公二十三年によると、晋の文公は、宋の襄公に馬をもらったあと、楚の成王に会い、ここでも歓待されて、「三舎を避く」ことを約束した。楚の子玉は、楚の成王に対し、「重耳(のちの晋の文公)を殺せ」と言ったが、採用されなかった。この楚の子玉は、楚軍を統率する重要な人物として、城濮の戦いに絡んでくる。
『三国志』魯粛伝では、劉備=重耳という捉え方をする。「劉備を抑留せよ」といった、周瑜・呂範(の流れをくむであろう呂蒙も)は、楚の子玉と同じ立場に位置づけられる。

 

狐偃曰,楚始得曹,而新昏於衛,若伐曹衛,楚必救之,則齊宋免矣。……

晋の先軫が、「宋を救いましょう」というが、晋の狐偃は、「楚は、やっと曹を味方につけ、衛とは、近ごろ縁組みを結んだばかりだ。

曹と衛は、小国のよう。晋と楚という二大国家のあいだにあり、どちらに味方するか、どちらの影響かに入るかが流動しがち。(覇者を目指す)晋は、小国の曹と衛、さらには(衰退した)宋に対して、どのような働きかけをするか。より具体的には、これらを楚から引き離すか、というゲームをしている。晋の先軫と、晋の狐偃との対立は、このゲームを巡ってのもの。

もしも、わが晋軍が、曹と衛を攻めれば、楚は必ずこれらを救援する。そうなれば、と宋は、楚に攻められずに済む。

楚が、宋を囲んだ。しかし、バカ正直に、宋を救援にゆき、楚軍と衝突するのは、有効ではない。それよりも、楚が救うべき小国を攻めることで、楚の関心を小国に向けさせる。楚は、宋の攻囲を中断し、曹と衛を救いにくる。結果的に、宋も救われると。
「晋は、宋を救う」という目的は、晋の先軫・狐偃のあいだで一致している。ただ、その手段が異なるだけ。ここで、狐偃が、「楚の本拠地を討てば、宋を包囲する楚軍は(自国を守るために)撤退する」という作戦のほうが、シンプルではある。しかし、移動距離とか、勝算の期待値から考えると、宋城から楚軍を引き離すためなら、楚の本国よりも、(楚が気に掛けるべき)曹と衛を攻めたほうがよいということらしい。
ちなみに、が出てきましたが、本題から逸れるので、今回は無視。

『春秋左氏伝』僖公二十七年は、晋軍の指揮官の人事や、文公による教化により、晋軍が強くなって勝利するという予感を記す。

 

出穀戍,釋宋圍,一戰而霸,文之教也。

(翌年)晋軍は、穀の守備隊(楚軍)を追い出し、宋の包囲を解き、(城濮の)一戦で勝利して覇者となれた。これは、晋の文公が教化した結果である。……と結末を先取っている。

 

■『春秋左氏伝』僖公二十八年 経

二十有八年,春,晉侯侵曹,晉侯伐衛。公子買戍衛,不卒戍,刺之,楚人救衛。

春、晋侯(文公)がに侵攻し、晋侯(文公)がを討伐した。

杜預:「晋侯」を二度上げているのは、曹と衛との両方が(別々に、魯国に)報告に来たからである。

公子買(魯の大夫の子叢)が、衛を守ったが、守備の任期を全うしなかったので、(魯で法に則って)殺した。

杜預:魯が大夫を殺したとき、「刺」と書く。『周礼』三刺の法を用いたことをいう。魯の僖公は、晋を恐れて公子買を殺した。「守備の任期を全うしなかった」という無実の罪を着せた。遠近の諸侯に信じてもらえない恐れがあったから、三刺の法に則った殺害であると明記したのである。

 

三月丙午,晉侯入曹,執曹伯,畀宋人。夏,四月,己巳,晉侯,齊師,宋師,秦師,及楚人戰于城濮,楚師敗績,楚殺其大夫得臣。衛侯出奔楚。

三月丙午、晋侯(文公)は、曹(を陥落させて城)に入り、曹伯(曹の共公)を捕らえ、宋人に与え(引き渡し)た。

杜預:諸侯を捕らえた場合、(諸侯同士が、互いを裁くことができないから)京師(周王)に送還すべきなのに、晋は、楚を怒らせて戦おうとしたから、宋に与えたのである。『論語』憲問篇にいう、「晋の文公は、謀略を用いて、正道によらない」ということである。

夏四月己巳、晉侯・齊師・宋師・秦師は、楚と城濮で戦った。

杜預:斉・宋・秦を「師」としているのは、師を晋侯に委ね、自身は戦いに参加しなかったからである。楚の子玉が経文に見えないのは、敗れたことを恥じて、赴告の文辞を簡略にしたからである。

楚は、その大夫である得臣(子玉)を殺害した。

杜預:子玉は、君命に違反して大敗を喫したから、名(得臣)を称して殺し、罪責したのである。

衛侯(衛の成公)は、楚に出奔した。

 

■『春秋左氏伝』僖公二十八年 伝1

二十八年,春,晉侯將伐曹,假道于衛,衛人弗許,還自河南濟,侵曹,伐衛,正月,戊申,取五鹿,……

春、晋侯(晋の文公)が、(楚軍の注意を引きつけ、楚軍を宋城から剥がすため)曹を攻めようとした。晋が衛から道を借りようとしたが、衛人が許さなかった。

杜預:曹は、衛の東にあったから、道を借りようとした。

そこで(晋軍は、衛を通らず)引き返して河南で渡河して、

杜預:汲郡から南へ渡り、衛の南に出て東へ向かったのである。「河南」を「南河」に作る本もある。『史記』衛世家に「南河」とあり、『集解』に注釈がある。杜預のみた本は、「河南」に作ったようである。

曹に侵入し、衛を討伐した。正月戊申、(晋軍が)五鹿を占領した。

杜預:五鹿は、衛地である。

晋軍は、曹と衛を攻撃した。しかし、曹と衛は、晋に対し、なにも悪いことをしていない。晋のねらいは、楚軍を宋から剥がす(宋を救う)ことである。その手段として、晋の狐偃のアイディアが採用され、曹が晋軍の標的になった。衛にいたっては、曹を攻めることに協力しなかった!として、晋軍から攻撃された。晋の行動って、正しくないですよね。晋が楚を牽制し、楚軍をおびき寄せる材料に利用されただけ。

 

晉侯,齊侯,盟于斂盂,衛侯請盟,晉人弗許,衛侯欲與楚,國人不欲,故出其君,以說于晉,衛侯出居于襄牛。

晋侯(晋の文公)と斉侯(斉の昭公)が、盟を交わした。衛侯(衛の成公)が盟約に参加したいと言ったが、晋人が許さなかった。

晋軍は、道を貸してくれなかった衛と対立関係にある。ほんと、衛から見たら、「晋から俺たちに向けられた敵意は、不当なものである」と感じるでしょう。晋からの一方的な害意である。

衛侯(衛の成公)は、(晋から敵意を当てつけられたので、晋のライバルである)楚に近づこうとしたが、国人がそれ(楚への接近)を望まなかった。

晋の狐偃は、戦いを始める前の分析で、「楚と衛は、近ごろ縁組みを結んだばかりだ」と言った。楚と衛の結びつきは、狐偃の言うとおり、脆弱でした。晋軍が衛を攻めることで、衛は、君(成公)と臣(国人)が分裂した。「楚の与党である衛」という構図は、晋の軍事行動によって撃ち砕かれた。「曹・衛のあたりに対する、楚の影響力を低下させる」という狐偃の狙いは、(正しさは別にして)達成された。

衛の国人は、衛侯(成公)を国外に追放し、晋への弁明とした。

衛人は、「晋軍に道を貸さなくてごめんなさい。道を貸さぬという判断は、うちの成公が勝手に決めたことです。衛の国人は、晋軍に道を貸しても良かったんです」と、晋に対して申し開いた。
衛の成公の視点からすると、「楚と婚姻したが、そのせいで晋から(無用な)敵視を招いた。晋軍に、理由もなく、『道を貸せ』と要求された。きちんと拒んだのはよいが、晋・斉の盟約には加えてもらえず、国際的に孤立した。ついには、国人から追放された。ここまで裏目に出ても、楚から援軍が来ない。これじゃあ、楚に近づいたのは失敗だ」となる。

衛の成公は、国都から去り、(国都から見て、東の郊外の)襄牛に留まった。

 

公子買戍衛,楚人救衛,不克,公懼於晉,殺子叢以說焉,謂楚人曰,不卒戍也。

(晋軍が、曹・衛を攻めたことを受けて)魯の公子買は、衛を防衛し、楚軍も衛を救援したが、晋軍を撃破できなかった。

杜預:晋が衛を伐ったが、衛は楚の姻戚であり、魯は楚に味方しようとしたから、衛を守ったのである。

公(魯の僖公)は、晋軍(の追撃・後難)を恐れ、(魯で)公子買を殺して(晋への)弁明とした。(魯の僖公は)楚の人には、「防衛(の任期)を終えずに帰ってきたので(公子買を殺した)」と(偽りの)説明をした。

魯の僖公は、晋に敵対する立場にあり、不当な晋軍の(衛への)攻撃を、防ごうとした。しかし、勝てなかったので、指揮官の公子買を殺した。これだけだと、「晋に従属します。これまで、楚と協調し、衛を守ったことを後悔しています」というメッセージになる。すると、楚が敵になってしまう。
魯は、晋に勝てなかったが、楚を敵に回したくもないから、公子買を殺した理由を、楚に対して偽った。「楚との共同作戦は、失敗でした…というつもりは、毛頭ありません!楚との共同作戦は、うちの路線として正しいのです。しかし、公子買は、その作戦の遂行に失敗があった(楚への貢献が不充分だった)から、殺したんです」と。
魯の僖公は、晋に対する殺害理由の説明と、楚に対する説明を、わざと変えた。

 

■『春秋左氏伝』僖公二十八年 伝2

晉侯圍曹,門焉多死,曹人尸諸城上,晉侯患之……

晋侯(晋の文公)は、曹城を包囲したが、城門で(攻めても)晋軍の死者が多かった。晋侯は、これを気に病んだ。……しばらく省く。

いっぽう、その頃、
宋人使門尹般如晉師告急,公曰,宋人告急,舍之則絕,告楚不許,我欲戰矣,齊秦未可,若之何,

宋人は、使者を晋軍に派遣し、(楚軍の攻囲が厳しいです、晋軍の救援を請います、と)急を告げた。

もともと、「楚軍に囲われている宋城を、直接救いに行こう!」という意見を退け、あえて、晋軍は、宋の影響下にある、曹を攻めた。ここに手こずっているうちに、宋が落城したら、何が何やら分からない。

晋の文公は、「宋が救援を求めてきた。これを放置すれば、宋は(危機を救ってくれなかったとして)わが晋と関係が絶えるだろう。(宋の包囲を解けと)宋に告げても、許さぬだろう。わが晋軍が、楚と戦おうにも、(頼りにすべき)斉と秦は(参戦を)まだ決めないだろう。どうしようか」と。

 

先軫曰,使宋舍我而賂齊秦,藉之告楚,我執曹君,而分曹衛之田,以賜宋人,楚愛曹衛,必不許也,
晋の先軫は、文公に言った。

先軫は、宋から求援がきたとき、素直に、「宋の恩恵に報い、危難を救い、威信を立て、覇業を定めるときが、今こそやってきた」と、宋の救出を主張したひと。

「宋には、われら晋ではなく、(頼るべき大国の)斉・秦に贈り物をさせます。斉・秦の口を借りて、楚に(宋への攻撃を中止せよ)と説得をさせる

晋は当事者になったので、説得は利かない。そこで、さらに外部の強国を巻き込む。楚は、晋から、「宋を攻めるな」と言っても、従わないだろう。楚と晋は、対等の立場で、この一帯の勢力を競い合っている。紛争の当事者から、一方的に「引け」と言われても、引けるわけがない。これで引くなら、戦いなんか必要ないわけで。
しかし、外野の強国が、「仲裁」にきたら、従わねばならない。楚は、宋を脅かして(宋に近しい)晋とも交戦することはできる。しかし、斉・秦までも同時に相手にできない。

晋の先軫はさらにいう。「わが晋軍は、(いま攻撃中の城を、攻め落として)曹君(曹の共公)を捕らえる。曹・衛の田土の一部を分けて、(晋軍に敗れた賠償として、晋の同盟国である)宋人に提出せよと命じる。すると楚は、曹・衛を愛して(味方・属国だと位置づけて)いるから、必ずや、曹・衛の田土割譲を許さない」と。

晋の基本方針は、楚を挑発し続けること。この時点で、楚が強く、晋が弱いようです(文公が就任し、これから強くなるところか)。だから、晋は、波乱の種を作り続ける。

 

喜賂怒頑,能無戰乎,公說,執曹伯,分曹衛之田,以畀宋人,

先軫はいう。「(斉・秦は)(宋からの)贈り物を喜ぶ一方で、(宋が土地をもらうことを許さない、ガンコな)楚に怒り、(斉・秦は)(楚への攻撃に)参戦せずに、おれないでしょう」と。
晋の文公は、この意見を採用した。曹伯(曹の共公)を逮捕し、曹・衛の田土の一部を、宋に与えさせた。

 

■『春秋左氏伝』僖公二十八年 伝3

楚人入居于申,使申叔去穀,使子玉去宋,曰,無從晉師,晉侯在外,十九年矣,而果得晉國,險阻艱難,備嘗之矣,民之情偽,盡知之矣,天假之年,而除其害,天之所置,其可廢乎,

楚子(楚の成王)は、(宋城の包囲から距離を取って)申城にとどまり、……子玉には(宋城の包囲から)撤退させて、こう言った。
「(曹城を陥落させ、曹の共公を捕らえ、本国の晋に帰る)晋軍を追撃してはならぬ。晋侯は(長く)国外におり、十九年も(流浪して)ようやく晋国を得たのだ。あらゆる困難を舐めつくし、民の心の機微を知り尽くしている。天は(晋の文公に)長い寿命を与え、政敵を除いた。天が配置したものは、排除することができない。」

 

軍志曰,允當則歸,又曰,知難而退,又曰,有德不可敵,此三志者,晉之謂矣,

さらに楚の成王はいう。「兵法書に、『ほどほどに止めよ』『難所と分かれば退け』とある。『有徳者には、敵対するな』ともいう。この3つの記述は、すべて晋の文公に当てはまる。

 

子玉使伯棼請戰,曰,非敢必有功也,願以間執讒慝之口,王怒,少與之師,唯西廣東宮,與若敖之六卒,實從之,

楚の子玉は、使者を楚の成王に送り、「(晋の文公に、天の支持があろうと、俺は)戦いたい」と願った。「あえて必ずしも、功績を立てたいのではありません。(『春秋左氏伝』二十七年、楚の国内で当てこすられた)減らず口を叩き潰してやりたいのです」と。
楚の成王は怒り、少ない軍しか子玉に与えなかった。……

楚の国内の対立は、本題から逸れるのでやりません。ここでは、(下らない国内対立のせいで、楚の成王から不興を買い)少ない軍しか与えられなかった子玉が、一発逆転、晋をやり込めるという痛快劇をお楽しみ下さい…というやつ。

 

子玉使宛春告於晉師,曰,請復衛侯,而封曹,臣亦釋宋之圍。

楚の子玉は、使者を晋軍に差し向け、「(楚と結ぼうして、衛の国内で追放された)衛(の成公)を国都にもどし、曹をもとどおりにすれば(晋軍に逮捕された曹の共公を解放すれば)、私たち楚軍も、宋の包囲を解きます」と言った。

ここからは、前のページでやった記述に続きます。せっかくなので、再録して繋ぎます。

 

■『春秋左氏伝』僖公二十八年 伝4

子犯曰。子玉無禮哉。君取一。臣取二。不可失矣。

晋の子犯(狐偃)は、「楚の子玉は、無礼である。(彼の条件をのめば)わが国君(晋の文公)にとって、メリットは一つ(楚が宋の包囲を解いて、介入を辞める)しかない。臣下(楚の子玉)のメリットは、二つ(晋が衛と曹をもとどおりにし、介入を辞める)もある。(戦うべき時期を)失うべきではありません」と。

 

先軫曰。子與之。定人之謂禮。楚一言而定三國。我一言而亡之。我則無禮。何以戰乎。不許楚言。是棄宋也。救而棄之。謂諸侯何。楚有三施。我有三怨。怨讎已多。將何以戰。不如私許復曹衞以攜之。執宛春以怒楚。既戰而後圖之。

晋の先軫(いつも先見の明がある晋臣)は、「楚の子玉の言うとおりにしましょう。人(の国)を安定させることを礼という。楚の子玉の一言は、三国(宋・曹・衛)を安定させるものだ。しかし、わが一言(子玉の申し出を拒否する)は、これら(宋・曹・衛)を滅ぼすものだ。こちらに礼がなくては、どうして戦えましょうか。

このような提案が出てしまった以上、晋がごり押ししても、大国(斉・秦)、小国(衛・曹)からの支持を得られませんと。楚が一国から手を引き、晋が二国から手を引くのは、晋にとって不利であるが、受け入れざるを得ない。なぜなら、それが「礼」であるから。
もともと、晋軍が曹・衛を攻略したのは、道理に合わないことでした。曹・衛を虐げているうちに、戦いが泥沼化してきた。本来の狙いに立ち返るなら、楚軍から宋を救えたら、それで達成なのだ。

楚の子玉の要請を許さぬのは、宋を見棄てることと同義です。(晋が宋を、楚の脅威から)救援しながら、見棄てたりすれば、〔斉や秦の〕諸侯に言い訳ができません。

杜預:諸侯に怪しまれるということ。
晋の先軫は、斉や秦という外野の大国を利用しようとした。彼らの世論、彼らからの視線を利用して、楚を圧倒しようとしていた。しかし、楚の子玉によって、意義が覆された。不義なのは晋!ということになってしまった。

楚は三国に恩恵を与える(三施あり)のに、晋は三国から怨まれる(三怨あり)。怨敵が多くなれば、戦えるはずがない。(楚を出し抜いて)ひそかに曹・衛に原状回復を認めて、(曹・衛と、楚との関係を)離しなさい。

杜預:ひそかに二国(曹と衛)を許して(和解して)二国から楚に絶交を通告させ、その後に二国を戻すということである。?
楚の子玉がいうように、晋が曹・衛から手を引くのは、「礼」に適うことであり、「施」となること。晋は、是非とも実行すべき。しかし、楚の提案を認めて行うのではない。あくまで、晋が独自に行ったという形にする。楚の使者を捉えることで、楚とのコミュニケーションは不全にしておこうと。

(今回の提案を告げにきた)楚の子玉からの使者を逮捕して楚を怒らせ、(楚と)戦ってから後のことを考えなさい」と、晋の先軫は述べた。

杜預:勝負が決するのを待って、計略を定めるということである。

 

公說。乃拘宛春於衞。且私許復曹衞。曹衞告絕於楚。子玉怒。從晉師。

晋の文公は(先軫の意見に)同意した。そこで、楚の使者を(衛において)拘留し、ひそかに(内々に)晋が、曹・衛の原状回復をしてやった。曹・衛は(晋に恩を感じて)楚に絶交を通告した。楚の子玉は怒って、(宋の包囲を解いて)晋軍を追跡した。

楚軍が宋の包囲を解くことは、楚の子玉が示した、交換条件のなかに入っていた。実際の出来事は、単なる交換条件の履行に違いない。しかし、晋は先軫のアイディアにより、ひそかに(内々に)曹・衛への介入を辞めた。曹・衛から見れば、晋が自発的に介入を辞め、恩を施してくれたように見える。天下の諸侯(秦や斉のような大国)にも、晋がアピールできた。
使者を拘留された楚は、怒って、晋を追撃した。楚がやっていることは、楚の子玉の計画・提案どおりなのであるが、晋の印象操作により、「楚が宋の介入を辞めたから」とは、見てもらえない。使者を晋に拘留された楚が、怒り狂って、矛先を晋軍に向けた…という見え方になる。

 

晉師退。軍吏曰。以君辟臣。辱也。且楚師老矣。何故退。

晋軍が(衛から)後退した。(晋の)軍吏が、「国君(晋の文公)が、臣下(楚の子玉)を避けるとは、恥辱です。それに、楚軍は(数ヶ月による楚の包囲で)老である(おとろえている)にも拘わらず、どうして後退するのですか」と。

 

子犯曰。師直為壯。曲為老。豈在久乎。微楚之惠不及此。退三舍辟之。所以報也。

晋の子犯が答えた。「軍隊は、直なるものを壮(さかん)といい、曲なるものを老という。遠征期間の長さによるものではない。

晋の軍吏は、楚は、自国を出発して時間が経っているから、「老」といった。しかし晋の子犯は、「老」という言葉をつまみあげ、疲弊しているか否かではなく、正しいか正しくないか(曲直)により、「老」を判定するといった。

もし、楚(の成王)の恩恵がなかったら、(晋の文公の)今日はなかった。三舎(三日分の行程)を後退して避ける(僖公二十三年)のが、それに報いる道である。

杜預:重耳(晋の文公)が楚に立ち寄ったとき、楚の成王は、(重耳を殺害せよ!という重耳の意見を押さえつけて)無事に返してくれた。これが恩である。
杜預:一舎は三十里。
「三舎を避く」という成語。晋の文公(重耳)が、まだ各国を亡命していたとき、楚の成王に救ってもらった。そのとき、「どのように恩に報いてくれるか」と質問された。晋の文公は、「もしも帰国を果たし(晋の君主になることができ)晋と楚が戦場で会うことがあれば、わが晋軍は、三舎分の後退をしましょう」と約束した。

 

背惠食言。以亢其讎。我曲楚直。其眾素飽。不可謂老。

恩恵に背き、約束を破って、楚の敵(宋)を支えている現状では、

原文は「以亢其讎」です。分かりにくいが…、晋が楚の敵を助ける。つまり、晋が楚に敵対するってことの言い換えでしょうか。岩波文庫では、楚の敵を「宋」と認定していましたが。

われら(旧恩を忘れた)晋が曲であり、(旧恩を施した)楚が直である。楚の士気は、充実している。楚軍が老(疲弊している)とは言えない。

杜預:直の気が満ちあふれているということ。
晋軍が、衛・曹から手を引いたところ、楚軍が追ってきた。楚軍は、長期遠征に疲れているとはいえ、「恩知らずの晋をやっつけろ」という名分が立つから、士気は高い。晋軍は、追ってきた楚軍を迎撃するべきではない。負けてしまうかも知れない。晋軍は、正義が自分にないと思い、がんばれない。

 

我退而楚還。我將何求。若其不還。君退臣犯。曲在彼矣。退三舍。楚眾欲止。子玉不可。

わが晋軍が後退すれば、楚軍も引き上げるだろう。それがベストだと思う。もし、楚が引き上げねば(晋軍を追撃してくるなら)、国君(晋の文公)が撤退するのに、臣下(楚の子玉)が犯す(押し入る)ことになり、曲はあちらにある(名分の喪失者が、晋から楚に移る)と。
晋軍は、三舎を後退した。楚の将士は、(晋を追撃して)停止(晋の撤退を妨害)しようとしたが、楚の子玉がこれを許さなかった。

晋が恩に報いて、三舎を避けるならば、楚は「晋が、三舎を避くという約束を履行した」と認めて、戦いを辞める。…これが、楚の子玉の判断。

 

■『春秋左氏伝』僖公二十八年 伝5

夏,四月,戊辰,晉侯,宋公,齊國歸父,崔夭,秦小子憖,次于城濮,楚師背酅而舍,晉侯患之,聽輿人之誦,曰,原田每每,舍其舊而新是謀,公疑焉,

夏四月戊辰、晋侯(晋の文公、戦いの当事者)・宋の成公(楚に包囲され、晋軍に救援を求めた)・斉と秦(晋の指図により、宋が贈り物をした相手。強国なので頼りになる)は、城濮に駐屯した。
楚軍が、険しい丘陵を背にして宿衛したので、晋侯(文公)は心配した。従卒たちの歌に耳を傾けると、「去年の畑は、草ぼうぼうでも、(去年の畑を)捨て置いて、今年の畑を耕せよ」という。文公は、(楚軍と)戦ってよいのか、不安になった。

杜預:晋の軍は、原田の草がぼうぼうとしているように盛んであるから、新たな功績を立てるべきで、旧恩に拘る必要がないと説いたのである。

 

子犯曰,戰也,戰而捷,必得諸侯,若其不捷,表裡山河,必無害也,公曰,若楚惠何,欒貞子曰,漢陽諸姬,楚實盡之,思小惠而忘大恥,不如戰也,……楚師敗績,子玉收其卒而止,故不敗。……衛侯聞楚師敗,懼,出奔楚。

晋の子犯が、「戦うべきです。戦って勝てば、諸侯(宋、斉・晋)は味方します。もし勝てなくても、(晋国には)国土に山河の備えがあるから、心配はいりません」と。
文公が、「楚の文公に受けた恩はどうする」と聞くと、欒貞子は、「漢水の北の(周王朝の親族である)姫姓の国々は、楚に尽く滅ぼされました。小さな恩恵を惜しみ、大きな恥辱を忘れるのですか。戦った方が宜しい」といった。……

楚軍は敗れたが、楚の子玉は兵を留めていたので、無事だった。(国人によって追放されている)衛侯は、楚軍が敗れたと聞いて、恐れて楚に逃げ込んだ。おしまい。190803