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魯粛が関羽をとがめた『春秋左氏伝』の文

『三国志』魯粛伝の裴注で、魯粛が『春秋左氏伝』の文を借りながら、関羽(劉備集団)の行為を批判するところがあります。その読解です。
魯粛は、魯粛伝注引『呉書』で、『春秋左氏伝』を使って、関羽の誤りを指摘している(師曲為老)。道義的に正しくなく、士気が上がらないような弱い軍で、荊州を奪うことができるか?という、お説教のように見える。
『演義』において関羽は、『春秋左氏伝』の義の体現者。『春秋左氏伝』を武器に、あべこべに、関羽が攻撃されるというのは趣旨に反するからカットされた。関羽を『春秋左氏伝』でなぐる魯粛。ちょっとすごい!

@Archer12521163さん曰く、城濮の戦いで楚の子玉に対し晋の子犯が言った言葉だけど、その後は「微楚之惠、不及此」と続く。楚が流浪の重耳を庇護していなければ今日はない(なので三舎退いた)、という意味。曹操の南下に対し呉(さらに言えば魯粛ら開戦派)が助けなければどうなっていたか、と暗に言いたかったのかな?と。

魯粛が述べたという、「師曲為老」は、『春秋左氏伝』僖公二十八年に出典が見える。「師直為荘、曲為老、豈在久乎」とある。軍隊は、直なる(正しい)ものは荘(さかん)であり、曲なるものは老(おとろえる)である。どうして遠征期間の長短が問題となりますかと。

魯粛の小説を書くならば(というか、小説に取り込むために、単刀会について史料を読み込んでいるのですが)、魯粛が、呂蒙から『左氏伝』の知識を得てもよい。かつて、兵隊野郎だった呂蒙から、交渉に使える故事を教え授かり、「阿蒙じゃないな」と。脱線しました。

■『春秋左氏伝』僖公二十八年

城濮の戦いは、紀元前632年に起きているが、これが僖公二十八年にあたる。楚と晋が城濮で戦い、晋の文公が覇者としての地位を確立した戦い。この戦いにより、これまで楚の盟下にあった、宋・曹・衛・鄭の四国が、晋の盟下へと移ったという。つまり、楚と晋が、あいだにある小国らを影響下に置くため、軍を動かしている。
『春秋左氏伝』僖公二十八年より。岩波文庫の現代語訳を見ながら、抄訳します。

 

子玉使宛春告於晉師。曰。請復衞侯。而封曹。臣亦釋宋之圍。子犯曰。子玉無禮哉。君取一。臣取二。不可失矣。

楚の子玉(成得臣)は、晋軍に使者を遣わし、「(晋が)衛と曹を原状回復すれば、われら楚も、の包囲を解きます」と通告した。

晋の子犯(狐偃)は、「楚の子玉は、無礼である。(彼ら楚が提示した条件をのめば、)わが国君(晋の文公)にとって、メリットは一つ(楚が宋の包囲を解いて、介入を辞める)しかない。臣下(楚の子玉)のメリットは、二つ(晋が衛と曹をもとどおりにし、介入を辞める)もある。(戦うべき時期を)失うべきではありません(楚の子玉から要求を拒絶し、楚と本格的に戦うべきです)」と。

楚と晋という二大国は、このとき、衛・曹・宋と(ここに見えないが)鄭を影響下に置くために、軍を動かしている。これらの小国への介入を深めている。楚の子玉は、「晋が二国(衛・曹)から手を引くなら、わが楚は一国(宋)から手を引こう」という条件を示した。晋の子犯は、楚が一方的に有利な申し出であるとし、突っぱねようとした。
この時点で、晋が衛・曹に及ぼしている影響がどれほどか、楚から宋に及ぼしている影響がどれほどか。これは、『春秋左氏伝』のこれまでを読み込まねばならず、にわかには判定できない。かりに、晋が衛・曹に深い影響力を持ち、かつ、楚が宋に浅い影響力しか持っていないならば…、よりいっそう、楚の子玉の申し出は、楚に有利なものとなる。
晋の子犯は、君主(晋の文公)と、臣下(楚の子玉)とが、得るものの大きさを問題にしている。晋と楚の国益をめぐる争いが本質・本題という理解でよいのか。もしくは、尊いはずの君主のメリットが小さく、卑しいはずの臣下のメリットが大きいのは不公平!と言いたいのか。晋の君と、楚の臣は、同列に比べられない(晋の君vs臣を比べる、もしくは、呉の君vs臣を比べるならば、比較対象が揃うのにね)。ここで、君臣という比べ方をするのは、ただのレトリックなのか。それとも、君主と臣下の序列の差を、揉めごとの本題として扱う意志があるのか。『春秋』に頻出する表現なのかも?

 

先軫曰。子與之。定人之謂禮。楚一言而定三國。我一言而亡之。我則無禮。何以戰乎。不許楚言。是棄宋也。救而棄之。謂諸侯何。楚有三施。我有三怨。怨讎已多。將何以戰。不如私許復曹衞以攜之。執宛春以怒楚。既戰而後圖之。

晋の先軫(子犯に抜擢された晋臣)は、子犯を説得した。「楚の子玉の言うとおりにしましょう。人(の国)を安定させることを『礼』といいます。楚の子玉の一言は、三国(宋・曹・衛)を安定させるものです。しかし、われらが一言(子玉の申し出を拒否しよう!)は、これら(宋・曹・衛)を滅ぼすものです。こちらに礼がなくては、どうして戦えましょうか。

自国の利益を主張するだけでは、戦いに勝ち抜き、「礼」を体現し、覇権を得ることができない。小国である、宋・曹・衛を安定させるアイディアを出し、外交交渉を仕掛けてきた楚の子玉に、いっぽん取られた形である。このような提案が出てしまった以上、晋がごり押ししても、小国らの支持を得られませんと。楚が一国から手を引き、晋が二国から手を引くのは、晋にとって不利であるが、受け入れざるを得ない。なぜなら、それが「礼」であるから。

楚の子玉の要請を許さぬのは、(楚に包囲されている)宋を見棄てることと同義です。(われら晋が、宋を楚の脅威から)救援する!(という名目で出兵している)のに、宋を見棄てたりすれば、〔斉や秦の〕諸侯に言い訳ができません。

この部分から、「楚は、宋を陥落させるだけの力を持っていた。晋は、楚から宋を救うという行動目標を、天下の大国たち(斉や秦)に伝えていた」と分かります。『春秋左氏伝』を順番に読めば分かるのでしょうが、拾い読みなのですみません。

楚の提案は、三国に恩恵を与えるもの(三施あり)なのに、晋は三国から怨まれます(三怨あり)。怨敵が多くなれば、戦えるはずがない。(だが、楚に主導権を発揮されるのも癪なので?、楚を出し抜いて)ひそかに、われら晋のほうから、曹・衛に原状回復を認めて、(曹・衛と、楚との関係を)離しなさい。

楚の子玉がいうように、晋が曹・衛から手を引くのは、「礼」に適うことであり、「施」となること。晋は、是非とも実行すべき。しかし、楚の言いなりになって行うのではない。あくまで、晋が独自に行ったという形にする。「楚が、晋の魔の手から、曹・衛を救った」という解釈が生まれないようにする。楚の使者を捉えることで、楚とのコミュニケーションは不全にしておこうと。
……ただし、この方法では、かりに晋が、曹・衛への介入を辞めても、交換条件の履行として、楚が宋への攻撃を止めるとは限らない。どうするんだろう。

(今回の提案を告げにきた)楚の子玉からの使者を逮捕して楚を怒らせ、(楚と)戦ってから後のことを考えなさい」と、晋の先軫は述べた。

 

公說。乃拘宛春於衞。且私許復曹衞。曹衞告絕於楚。子玉怒。從晉師。

晋の文公は(先軫の意見に)同意した。そこで、楚の使者を(衛にて)拘留し、ひそかに(内々に)晋が、曹・衛の原状回復をしてやった。曹・衛は(晋に恩を感じて)楚に絶交を通告した。楚の子玉は怒って、(宋の包囲を解いて)晋軍を追跡した。

楚軍が宋の包囲を解くことは、楚の子玉が示した、交換条件のなかに入っていた。実際の出来事は、単なる交換条件の履行に違いない。しかし、晋は先軫のアイディアにより、ひそかに(内々に)曹・衛への介入を辞めた。曹・衛から見れば、晋が自発的に介入を辞め、恩を施してくれたように見える。天下の諸侯(秦や斉のような大国)に対しても、晋の正しさ!をアピールできた。
使者を拘留された楚は、怒って、晋を追撃した。楚がやっていることは、楚の子玉の計画・提案どおりなのであるが、晋の印象操作により、曹・衛が自由になった理由が、「楚が宋の介入を辞めたから(楚のおかげ)」とは、見てもらえない。使者を晋に拘留された楚が、かってに怒り狂って、矛先を晋軍に向けた…という見え方になる。

 

晉師退。軍吏曰。以君辟臣。辱也。且楚師老矣。何故退。

晋軍が(衛から)後退した。(晋の)軍吏が、「国君(晋の文公)が、臣下(楚の子玉)を避けるとは、恥辱です。それに、楚軍は(数ヶ月による楚の包囲で)老です(おとろえています)。にも拘わらず、どうして晋軍は後退するのですか」と。

 

子犯曰。師直為壯。曲為老。豈在久乎。微楚之惠不及此。退三舍辟之。所以報也。

晋の子犯が答えた。

晋の子犯は、もとは、晋軍が撤退することに反対していた。君主(晋の文公)が、臣下(楚の子玉)に譲歩する必要はない!と言ったのは、当の晋の子犯であった。
ところが、先述のように、晋の先軫が、「晋が自発的に(見えるように)、晋軍を曹・衛から撤退させることで、晋には『礼』があることを示しましょう」といい、晋の文公がこれを支持した。晋の子犯は、先軫・文公の言うことを理解し、軍を引くべきだ!というほうに、意見転換を遂げている。意見を改めた子犯は、国君(晋の文公)vs臣下(楚の子玉)のメンツ争いに拘っている軍吏を、説得するサイドに回っている。

「軍隊は、直なるものを壮(さかん)といい、曲なるものを老という。遠征期間の長さによるものではない。

晋の軍吏は、楚は、自国を出発して時間が経っているから、「老」といった。しかし晋の子犯は、「老」という言葉をつまみあげ、疲弊しているか否かではなく、正しいか正しくないか(曲直)により、「老」を判定するといった。

もし(むかし)楚(の成王)の恩恵がなかったら、(晋の文公の)今日はなかった。三舎(三日分の行程)を後退して避ける(僖公二十三年)のが、それ(楚の旧恩)に報いる道である。

「三舎を避く」という成語。晋の文公(重耳)が、まだ各国を亡命していたとき、楚の成王に救ってもらった。そのとき、「どのように恩に報いてくれるか」と質問された。晋の文公は、「もしも帰国を果たし(晋の君主になることができ)晋と楚が戦場で会うことがあれば、わが晋軍は、三舎分の後退をしましょう」と約束した。

 

背惠食言。以亢其讎。我曲楚直。其眾素飽。不可謂老。

恩恵に背き、約束を破って、楚の敵(宋)を支えている現状では、

原文は「以亢其讎」です。分かりにくいが…、晋が楚の敵を助ける。つまり、晋が楚に敵対するってことの言い換えでしょうか。岩波文庫では、楚の敵を「宋」と認定・限定しています。

われら(旧恩を忘れた)晋が曲であり、(旧恩を施した)楚が直である。楚の士気は、充実している。楚軍が老(疲弊している)とは言えない。

晋軍が、衛・曹から手を引いたところ、楚軍が追ってきた。楚軍は、長期遠征に疲れているとはいえ、「恩知らずの晋をやっつけろ」という名分が立つから、士気は高い。晋軍は、追ってきた楚軍を迎撃するべきではない。負けてしまうかも知れない。晋軍は、正義が自分にないから、がんばれない。
ここでは言われていないが、晋軍が衛・曹から手を引くというアイディアを最初に発案したのは、楚の子玉である。晋がひそかに(楚のアイディアであるとと公表せず)衛・曹から手をひき、楚の申し出を台無しにしてしまったことも、晋の子犯が気に病んでいるのかも知れない。

 

我退而楚還。我將何求。若其不還。君退臣犯。曲在彼矣。退三舍。楚眾欲止。子玉不可。

わが晋軍が後退すれば、楚軍も引き上げるだろう。それがベストだと思う。もし、楚が引き上げねば(晋軍を追撃してくるなら)、国君(晋の文公)が撤退するのに、臣下(楚の子玉)が犯す(押し入る)ことになり、曲はあちらにある(名分の喪失者が、晋から楚に移る)と。
晋軍は、三舎を後退した。楚の将士は、(晋を追撃して)停止(晋の撤退を妨害)しようとしたが、楚の子玉がこれを許さなかった。

晋が恩に報いて、三舎を避けた。楚の子玉から見れば、晋が三舎を避くという約束を履行したのだから、もう追撃してはいけない、という理屈になる。

 

■魯粛が言葉に込めた意味

『春秋左氏伝』を読んでみて、ようやく、@Archer12521163さんのおっしゃる意味が分かってきました。
晋の文公が劉備で、楚の成王が孫権です。流浪の重耳(劉備)を、楚の成王(孫権)が助けてやった。今後、もしも重耳(劉備)が君主となり、楚(孫権)と対立することがあれば、劉備が三舎を避けて、戦場で譲歩して、恩返しをすべきである。

『春秋左氏伝』において、楚と晋が奪いあっている、曹・衛・宋・鄭ら小国は、後漢末における、いくつかの郡だと理解することができる。
楚と晋(孫権と劉備)が奪い合っている、中間地帯の拠点たち(荊州の各郡の城)をめぐり、覇権争いをしている、という図が描ける。両国は、単純に攻め落とすだけでなく、正義を示しながら、諸城への影響力を行使していくべきだという世界観。

 

今回、『春秋左氏伝』を読んだところを、後漢末に準えてみましょう。

魯粛が、関羽を晋の子犯に準えたということは、「関羽の振る舞いは、晋の子犯が陥りかけた失敗と同じなんだぞ」と提示しているということになる。最終的には、晋の子犯のように振る舞え!(三舎を避け)という圧力でもある。

関羽=子犯ならば、どうなったか。
楚(呉)と晋(蜀)が、荊州南部への影響力を得るために、あちこちに兵を出している状況をイメージして下さい。

魯粛(楚の子玉)は、関羽(晋の子犯)に、言うわけです。「劉備が荊州南部の二つの城(比定はまた別途)から手を引くならば、孫権は一つの城の包囲を辞めるであろう」と。関羽は、「呉に都合のいい条件だけを示しやがって。応じる必要はない。荊州の覇権をめぐり、徹底的に競いあうぞ」と反発する。
しかし、関羽の副官(晋の先軫)は、関羽にこう言うでしょう。
「魯粛の言うとおりにすべきです。呉は、荊州を平穏にするという選択肢を提示しているのです。関羽の強硬姿勢は、荊州を滅ぼすものです。孫権には、『礼』がある。相手方に『礼』の名分を奪われた状態で、強硬姿勢を貫いても勝てません」と。
さらに副官が、関羽にいう。
「魯粛の要請を受け入れない(関羽が兵を下げない)ならば、『劉備軍が、孫権軍から解放してやる』と謳っている、荊州南部の城(やはり比定は別途)を、却って関羽が滅ぼすことに等しいのです。そうなってしまえば、劉備軍は天下から支持を失うでしょう」と。
副官は、畳みかける。
魯粛は、荊州に恩恵を与えることになる。その一方で、関羽は、荊州の諸城から怨まれてしまう。怨敵が多くなれば、関羽が荊州で戦い続けることはできない。(魯粛にバレないように)関羽が自発的に進攻をやめたことにして、その諸城の自立を認めなさい。さすれば、それらの城は、『関羽のおかげで、自主性が保たれた』と考え、関羽を支持するでしょう」と。
さらに、副官は、「呉を挑発して、呉にこちらを攻撃させ、戦った後のことは、追って考えればよろしい」と教える。

関羽はアドバイスを受け入れるでしょう。呉にバレないように兵を引き、荊州南部の独立性を広く認めてやる。荊州南部は、「関羽のおかげ」と考え、呉に絶交を通告した。

魯粛(楚の子玉)は怒って、荊州南部への介入を中断し、関羽軍を追撃する。
関羽軍の(思慮の浅い)将士が、「呉軍との衝突を回避するのは、恥辱です。呉軍も、長期遠征によって疲弊しているはずです。呉軍を打ち破ってしまいましょう」と進言する。

ところが、もう副官の意見を吸収し、賢者の見識を備えている関羽は、呉軍を攻撃すべきでない、と教え諭す。
「軍隊は、正しい行いをしていると士気が高く、誤っていれば士気が落ちて疲弊する。遠征期間の長さではなく、目標設定の正しさによって、士気や強さが決まるのだ。もしも、孫権の恩恵がなければ、劉備軍の今日はなかった。三日分の距離を避けて、呉軍との衝突を避ける。それが、孫権に報いる道である!と。さすれば、関羽の軍は正義を取り戻し、士気が上がるのだ…と。

孫権の恩恵に背いて、関羽軍が孫権軍の動きを封じれば……、われら関羽軍が「曲」であり、孫権が「直」である。孫権軍の士気は、充実している。呉軍と戦うことは、得策ではない。
もしも、わが関羽軍が荊州から後退すれば、孫権軍も後退するだろう。われら関羽軍が撤退するのに、孫権軍が追撃してくるようならば、非礼はあちらに移る。そうすれば、勝てるだろう」と。
関羽軍は、孫権軍に譲歩して、三舎を後退した。
それを見た孫権軍の兵士は、「関羽を追撃せよ」と主張したが、魯粛(楚の子玉)が、関羽が恩義に報いようとしているのを見て、追撃を禁じたとさ。

 

……『春秋左氏伝』というのは、晋の子犯が、道理を貫通させ、うまく立ち回るエピソードです。
このように準えていくと、最終的に関羽が勝つことになってしまう。魯粛が、これを望んでいたとは思えませんが……、少なくとも関羽に対して、「自国の利益に固執するのではなく、天下諸侯からの視線とか、相手国への道義について、注意を払ってみたらどうですか」と、説教していることは、うかがえるわけです。

「もしも関羽が、自分の利益ばかりを分捕ろうとしたら、利益を損なうどころか、劉備軍の兵の士気が下がって、敗れることになるのですよ。その点、きちんと分かっていますか?」
という、魯粛による警告でもある。魯粛は、劉備軍を存続させたい。関羽が道義を失って暴走し、自滅されたら困るわけですから。

関羽が、『春秋左氏伝』をめぐる魯粛のセリフを聞いて、己のなかで反省し、単刀会を終えて大人しく引いてくれた。意志が通じたことを見て、魯粛が呉の兵士に追撃を禁じ、ぶじに和解にこぎ着けた……という話でもいいかも知れない。わずかな言葉に込められた、魯粛の真意を理解する関羽。……というのは、綺麗かも知れない。
などと、『春秋左氏伝』を、どのように小説に吸収するのか考えました。190731