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読書メモ_渡邉義浩『関羽_神になった「三国志」の英雄』

単刀もて会に赴く

以前に『演義』の読み比べをしました。読みが甘かったので、読書メモを作ります。手間をかけずにホームページを作るため、一太郎から、HTMLに変換することにトライ。スマホからchromeだと見やすいのですが、パソコンだと今ひとつ?

■荊州分割

建安二十年、劉備が益州を領有すると、孫権が荊州返還を要求した。劉備が先延ばすと、孫権は、長沙・零陵・桂陽の三郡に役人を派遣。だが役人は、関羽に追い払われた。
両軍は、長沙郡益陽県で対峙。孫権・劉備も出陣。魯粛は会談を求めた。魯粛版「天下三分の計」のために、劉備が必要なため。

魯粛が劉備を「必要とした」というのは、渡邉先生の見解。ここでは当否を論ぜず。呂蒙・魯粛らによる軍事制圧があったことは、触れていない。

 

魯粛伝:粛邀羽相見、各駐兵馬百歩上、但請将軍単刀、俱会。粛、因責数羽曰「国家區區、本以土地借卿家者、卿家軍敗遠来、無以為資故也。今已得益州、既無奉還之意、但求三郡、又不従命」語未究竟、坐有一人曰「夫、土地者、惟徳所在耳。何常之有」粛厲声呵之、辞色甚切。羽、操刀起、謂曰「此、自国家事、是人何知」目使之去。

魯粛は関羽に会見を申し入れ、兵馬を百歩離れたところに留めた。魯粛は関羽を責めて、「益州を得たのに、(借りた土地全てを)還す意志もなく、ただ三郡を求めたことに対しても、命に従わない」と。言い終わらないうちに、誰かが「土地は、徳のあるところに帰する」と言った。魯粛は声を励ましてこれを叱咤し、言葉も顔つきもきわめて厳しかった。関羽は刀をとって立ち、「国家の大事である。この者の知るところではない」といい、目で合図してその者を去らせた。

「土地は有徳者に帰する」を言ったひとは不明。この人物を、魯粛が叱り、関羽もかぶせて叱っている。魯粛が叱咤した言葉は記されておらず、関羽が叱り、立ち去らせた言葉だけが載っている。

 

裴注 韋昭『呉書』では、関羽は魯粛の問に答える言葉もなかったと(羽無以答)。
曹操が漢中に侵入し、益州を失うことを恐れた劉備が、孫権と和解。荊州を分割した。魯粛の正当な外交交渉に、関羽は全く対応することができず、話し合いにより、守っていた土地の半分を奪われた。

荊州は蜀のものという前提ならば、渡邉先生の言うとおり、半分を奪われた関羽の失策。しかし、全域を借りていただけである。「劉備が益州を得たら、全域を返還」という約束があった。外交の場で、セリフの巧拙はともあれ、会談を通じて、土地の半分を正式に得た(借りている状態を解除できた)という見方もできないか。
関羽のセリフがまずい(かも知れない)ことと、外交の成果は、切り離して考えてもいいかも知れない。正史では関羽の主張が通らず(不義であり)失敗したが、『演義』では、作者が関羽を擁護した…という単純化も危険かと思います。

 

■単刀会

『演義』における呉は、引き立て役。関羽の引き立て役が魯粛。史実では、魯粛が圧倒的に勝っている外交交渉であるが、『演義』では「単刀赴会」として親しまれ、劇の略題「単刀会」でも親しまれる。
魯粛は伏兵を忍ばせて、宴会を設け、荊州返還を要求した。関羽が口を開かぬうちに、周倉が庭先で大喝した。「天下は有徳者に帰する。東呉が独占する理はない」と。関羽は、「国家の大事である。口出しするな」と叱った。『演義』第六十六回。
『演義』は、叱咤した者を、魯粛から関羽に変更している。

もとの魯粛伝では、魯粛が叱り(叱る言葉は、正史にも載らず)、関羽も叱っている(国家の大事、云々)。渡邉先生は、叱咤した者を変更したというが、ちょっと違う。魯粛伝と『演義』の違いは、魯粛が叱ったという事実を省いたという点。

呉が兵を伏せていた悪辣さに加えて、関羽が颯爽と去っていく姿を、虚けた魯粛に見送らせる。見栄えがよい。

このあたりは、関羽も兵を連れてきたり、武力を使って魯粛を人質に取ったり。「魯粛は臆病で、兵を隠して万一に備えた。関羽は豪胆なので、たった一人でくるという約束を守った」という、シンプルな話とも思われない。舞台装置(会見の条件の設定)は、どうにでもなるのです。

 

■関羽の不義

しかし、「単刀会」では、荊州の領有問題は、何一つ解決していない。関羽が不義の片棒を担ぎ、「義」絶の所業として美しくない。
『演義』六十六回は、これより前に、魯粛が、「益州を取って荊州を返さないのは、信を失う」といい、「劉備が三郡を返す意志があるのに、関羽将軍が拒否するのは、理が通らぬ」といい、「貪って義に背く」という。
荊州を借りパクするのは劉備の行為であるが、関羽がこれに加担するのは、「失信」、「背義」であると、作中の魯粛に責められている。「貪而背義」は、『呉書』では、「貪而棄義」とある。烏林の役のとき~と、『演義』で魯粛が経緯を振り返るのも、『呉書』が出典である。
韋昭は呉を正統として『呉書』を著し、蜀を悪く書いている。『演義』が、関羽に不利なセリフをもつのは、史書に基づいているため。

『演義』には、関羽を「義」絶として描くニーズがある。『呉書』には、孫権の正義を明らかにするというニーズがある。物語であれ、歴史書であれ、作者のニーズにより描写が方向づけられる。物語も歴史書も同じだ!とするのは暴論ですが、作者の意図や都合には、留意すべき。
『演義』には、史書を吸収して、士大夫の読み物として価値のあるものにする、というニーズもあった。しかし、なんでもかんでも吸収すれば、「史実に近づいて、宜しい」とはならない。吸収するのが、蜀に敵対する史書であれば、かなり都合が悪い。吸収を見送るのが適切であったか。『演義』の場合、早い段階から、『呉書』を使うと決めていたため、最後まで(毛宗崗本まで)省くのではなく、付け加えることにより、なんとか、関羽の格好を付けようとした。

しかも、『演義』の設定では(正史にないが)劉備が、諸葛瑾に対し、荊州を返すと伝えている。劉備が返すと言っているにも拘わらず、関羽は武力にものを言わせ、魯粛を追い払い、約束を反故にしている。「義」絶関羽の描写に、一貫性が欠ける。

劉備が、諸葛瑾に返還を約束するというのは、余計な設定です。劉備の優しさ?を描くというニーズと、関羽の正しさを描くというニーズが、衝突している。

 

■義を守る努力

すでに李卓吾本では、嘉靖本になかった場面を前段に設け、関羽の正当化を試みている。劉備から、三郡変換の言質をとった諸葛瑾に対し、関羽は、「兄(劉備)とともに漢室を興すことを誓った。兄は、荊州を私にあたえた。これを東呉に取らせるとは、なんの理があろう。このいくつかの郡も、大漢の疆域である。どうして妄りに寸土であっても、人に与えられるだろうか」と。
李卓吾本は、傍線部に「、」と圏点を就けて、人も言葉も正しい!と評を付けている。
李卓吾本 第六十六回の総評において、「雲長先生のこれは、聖人の言である。ほかの人は、ただキミの土地か、ワレの土地かを論ずるだけである。雲長先生は、漢が主であることを忘れていない」と言っている。
劉備の土地か、孫権の土地かと論ずることじたいが誤りである!というのが、李卓吾本の編者の意図。

 

大漢を継承する蜀こそが、天命を継承した国家である「正」であり、中国を統一する国家である「統」であるべきだ。すべての土地は、劉備が継承すべきなのだ。荊州を借りパクすることは、不義にならない。
朱子『資治通鑑綱目』に著された、「春秋の義」である蜀漢正統論を述べることが目的となっている。

渡邉氏曰く、『演義』はこの解決法でよいかも知れないが、困ったときこれを出せば解決する!というジョーカーは、多様するとゲームをつまらなくする。正義を掲げながらの「滅びの美学」という文学性が損なわれる。
この場面に限定しても、なぜ劉備が諸葛瑾に返還の約束をしたのか、説明できなくなる。関羽が、劉備の命令に背くことになり、兄弟の義が曇る。

 

毛宗崗本は、李卓吾本を書き改める。
関羽「荊州はもと(本)大漢の疆土であり、どうして妄りに寸土であっても、人に与えられようか。将軍は、外にあれば、君主の命令も受けないことがある。兄の手紙があっても、返還しないぞ」と。

毛宗崗の工夫はいかに。
第一に、「いくつかの郡も」を、「荊州は」に改めることで、すべての土地ではなく、荊州に限定された。また、「本」が加えられた。観念論的な正統論から、現実的な領土問題の提言へと、関羽の発言が改められている。

渡邉先生の説の読解が、難しいですが(正しく読み取れているか自信がありませんが)、渡邉先生の『演義』読解だと、李卓吾本では、「いくつかの郡」は、天下のどの州にも当てはめることができるため、劉備陣営がこれを言えば、領土の論争が終わってしまう。最強のジョーカーである。「荊州」に限定すれば、ジョーカーではなくなる…ということ?
李卓吾本における、「いくつかの郡」というのは、荊州のなかで争点になっている数郡のことを指すのでは?毛宗崗は、その意味を明らかにするために、言い換えただけではないか。果たして、セリフが指すところの、適用範囲を変えているのだろうか。
毛宗崗が、渡邉先生の言うように、関羽のロジックのジョーカー性を失わせることに、成功しているか疑問です。それ以前に、毛宗崗による改変が、ジョーカー性の軽減であったのか疑問です

もう一つ。「本」字の追加は、どのような意味を持つのか。本来は、元来は…という意味ならば、いま、漢王朝のものでなくなってしまっている、という現実を指しているのか。うーん、それほど、格別な意味を持たせてよいのか、ぼくの意見は保留です。

第二に、劉備に従わないのは、『孫子』が出典。

これは、わざわざ言わせる必要があったのだろうか。「文学性」が下がってないです?

毛宗崗本『演義』第六十六回の総評で、「関羽はこせこせと東呉と渡りあわず、ただ「大漢」の二字で、東呉を圧倒した。これは、関羽が『春秋』を読んでいたおかげである」という。毛宗崗が、賢明に関羽の義を守ろうとしている。

陳寿の『三国志』の評に見えるように、関羽は、君子として生きたのではない。不義もあろう。韋昭『呉書』に明記されている不義を、史書の記述を生かしながら、懸命に弁明する。ここに、毛宗崗本が、関羽を「三絶」の一人とし、キャラの義を守り続けようとした姿を見ることができる。190723