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『三国演義』嘉靖本 単刀赴会vs正史魯粛伝

『演義』は、嘉靖本→李卓吾本→毛宗崗本という順序で手が加えられていきます。まず、正史から『三国演義』嘉靖本に、どのような変化・跳躍があったのか、検証しました。
嘉靖本のテキストは、こちらから。頂きました。
http://www.guoxue123.com/xiaosuo/jd/sgzyy/index.htm

■正史『三国志』魯粛伝

粛、因責数羽曰「国家區區、本以土地借卿家者、卿家軍敗遠来、無以為資故也。今已得益州、既無奉還之意、但求三郡、又不従命」語未究竟、坐有一人曰「夫、土地者、惟徳所在耳。何常之有」粛厲声呵之、辞色甚切。羽、操刀起、謂曰「此、自国家事、是人何知」目使之去。

魯粛が関羽を責めた。「国家(わがきみ)が区区(たる江東におりながら)、もとは土地をあなたに貸したのは、あなたの軍が敗れて長距離を敗走し、元手がないためであった。今すでに益州を得たのに、奉還する意志がない。たった三郡を求めても、命令に従わない」と。言い終わる前に、同席した一人が、「そもそも土地は、有徳者に帰属する。なぜ常に(孫権が)保有できようか」と。魯粛は声を励ましてこれを叱り(セリフはない)、言葉も顔色もひどく厳しかった。関羽は刀をとって立ち、発言者に、「これは自ずから国家のこと。この人の知るところではない」といい、目で合図して去らせた。

劉備・関羽が違約したことを、魯粛が責めている。関羽軍の誰か(名無し)が、「孫権の恒常的な支配は認められず、徳のある劉備に支配権が移った」と口を挟むと、魯粛がこれを叱りつけた。関羽もまずいと思ったのか、発言者を黙らせている。
関羽は、徳のロジックでは荊州を劉備のものに出来ない、と弁えていたように見える。現状理解は正確。しかし、現状を覆し、劉備の領土にする理由を、準備できていない
外交交渉としては、相手に正当性を述べさせただけなので、立ち止まりながらの半歩後退といったところ。返還の約束をさせられていないので、負けというわけでもない(ように見える)。

■魯粛伝 注引『呉書』

羽曰「烏林之役、左将軍身在行間、寝不脱介、勠力破魏、豈得徒労、無一塊壤、而足下来欲収地邪。」粛曰「不然。始与豫州観於長阪、豫州之衆不当一校、計窮慮極、志勢摧弱、図欲遠竄、望不及此。主上矜愍豫州之身、無有処所、不愛土地士人之力、使有所庇廕以済其患、而豫州私独飾情、愆徳隳好。今已藉手於西州矣、又欲翦并荊州之土、斯蓋凡夫所不忍行、而況整領人物之主乎。粛聞貪而棄義、必為禍階。吾子属当重任、曾不能明道処分、以義輔時、而負恃弱衆以図力争、師曲為老、将何獲済。」羽無以答。

関羽曰く、「烏林の役では、劉備は力を尽くして魏を破った。しかし一塊の土地すら与えられず、あなたは回収するのですか」と。魯粛曰く、「違います。長阪において劉備は、打つ手なしでした。孫権は劉備に根拠地がないことを憐れみ、土地・士人の力を惜しまず、ピンチをしのぐために土地を貸したのです。それを劉備は…」と説明し、返還しないことを批判した。関羽は答えられなかった。

■『三国演義』嘉靖本

酒至半酣、粛曰:“有一言訴与君侯、幸听察焉。昔日令兄使粛于呉侯之前以通往来,借其荆州,至今并无帰還之意,其理莫不失信乎?”雲長曰:“此国家之事,筵間不必論之。

『演義』では、酒宴という場面を設定した。魯粛に、「むかし令兄(劉備)は、私を呉侯の前に往来させ(請け人とし)荊州を借りた。今、返還の意志がおありでない。その理は、信を失うものではありませんか」と、言わせた。
魯粛が請け人であり、約束の成立を引き受けたというのは、話を分かりやすくする。「信を失う」は、正史には見えない語彙。劉備の行為が、「信を失う」ものである。だから、やってはいけない。約束の請け人だから、言うことができる言葉。
これを受けて、関羽は、「これは国家のことです、酒宴の席で論じることではありませんという。国家のことと言って打ち切るのは、正史魯粛伝の終わり方。早くも(正史に出典をもつ)最強のカードを切ってしまった。この話を打ち切る理由が、酒宴の席だから。これはひどい。

もともと正史では、酒宴ではない。『演義』は、酒宴という設定を新たに導入しておきながら、それを理由とし、関羽が話を打ち切ろうとする。これは下策。正史からのアレンジが、上手くない。

”粛曰:“国家区区江東本以土地相借者,為君侯等、軍败遠来,无以為資故也。今已得益州,既无奉还之意;但割三郡,君又不従命。此君侯之失信于天下也。君侯幼読儒書,五常之道,仁、義、礼、智皆全,惟欠信耳。”

魯粛は、「酒宴だから話題を避けるなんて、あり得ないよ」とばかりに、劉備を批判する。これは、魯粛伝に基づく。「区区」のあとに「江東」を補って意味を明らかにする。魯粛伝では、「命に従わず」で終わるが、その続きを『演義』は付け足す。
君侯は天下に信を失う。幼いときに儒書を読み、五常を学ばなかったか。仁・義・礼・智は備えておられうが、ただ信だけを欠くと。劉備の行為が、「信」に欠くと唱える魯粛。これは、正史にないオリジナル。だめ押しの効果がある。

雲長曰:“烏林之役,左将軍親冒矢石,戮力破敵,豈得彼労,而无一块土相資,而足下欲来收地耶?”粛曰:“不然。君侯始与豫州同败于長阪,豫州之众不当一校,計穷慮极,志勢摧弱,图欲遠窜,望不及此。吾主上矜愍豫州之身,无有処所,不忧土地士民之力,使有所庇萌以済其患,而豫州私独飾情,愆德隳好。今已籍于西川矣,又欲剪并荆州之土,斯盖凡夫所不忍行,而况整领人物之主乎!粛闻貪而背義,必為祸阶。愿君侯明処之。”

関羽は、劉備が烏林の役で戦ったが、寸土すら得られないかと反論。これは、魯粛伝注引『呉書』に基づく。『呉書』では、「左将軍は身づから行間に在り」というが、『演義』は「親づから矢石を冒し」と、臨場感たっぷりに、ガンバリを描写している。
『呉書』では、魯粛が劉備を批判し、「私独飾情、愆徳隳好」というが、『演義』嘉靖本で、「私独飾情、愆德隳好」とあり、まったく同じ文である。こんなこと、「整领人物之主」のやることではないね!というのも同じ。『呉書』は、「貪而棄義」とあるが、『演義』は、「貪而背義」とする。貪って義を棄てるか、貪って義に背くか。どちらも意味は近い。
きっと禍階となるよ!という脅迫のあと、『呉書』では、「吾子属当重任、曾不能明道処分、以義輔時、而負恃弱衆以図力争、師曲為老、将何獲済」と続く。しかし『演義』では、「愿君侯明処之」で打ち切る。ここから、『演義』独自の問答が展開される。そちらに転がすためだろう。

雲長曰:“此皆吾兄左将軍之事,非某所宜预也。”粛曰:“某聞昔日桃园结義,誓同生死。左将軍即君侯也,何得推托乎?”雲長不之答。

『演義』オリジナル関羽は、「わが兄の左将軍のことである。私は預かり知らぬ」と言い逃れをする。この席で有効な話し合いをしない(避ける?)というのは、生死と同じ結末。関羽が話さない理由を、「魯粛に圧倒されて、言い返せませんでした」では困る。関羽に、この場での発言を控える理由を作ってあげようとしている。
しかし、魯粛は、「桃園結義で、生死をともにすると聞いた」と迫る。生死をともにするというのは、正史にない設定。『演義』関羽は、『演義』のオリジナル設定により、魯粛に追い詰められてしまう。魯粛は、『演義』の独自エピソードまでも、自らの交渉の味方にしている。「正史なみに、会話を打ち切って終了!というわけには、いきませんよ」という、メタな追いすがり方である。
関羽は答えなかった…という結末は、『呉書』の落とし所である。

表現の加減算を確認すると、『呉書』にある、「吾子属当重任、曾不能明道処分、以義輔時、而負恃弱衆以図力争、師曲為老、将何獲済」を省いて、「愿君侯明処之」だけとした。あなたは重要な任務に当たっておりながら、道理を明らかにして適切に行動せず、義によって時世を助けることができず、弱き兵を頼みにして力づくで(呉軍と)争(って荊州を奪)おうとしている。

師曲為老」は、『春秋左氏伝』僖公二十八年に出典が見える。「師直為荘、曲為老、豈在久乎」とある。軍隊は、直なる(正しい)ものは荘(さかん)であり、曲なるものは老(おとろえる)である。どうして遠征期間の長短が問題となりますかと。
魯粛は『呉書』で、『春秋左氏伝』を使って、関羽の誤り(曲)を指摘している。正しくない軍で、呉から荊州を奪うことができるかな?という。『演義』において関羽は、『春秋左氏伝』の学習者であり、「義」の体現者である。『春秋左氏伝』を武器とし、関羽が批判されるというのは、都合が悪いのか。カットされた。
魯粛の小説を書くならば、呂蒙から『左氏伝』の知識を得てもよい。かつて、兵隊野郎だった呂蒙から、交渉に使える故事を教え授かり、「阿蒙じゃないな」と。脱線しました。
@Archer12521163さんはいう。城濮の戦いで楚の子玉に対し晋の子犯が言った言葉だけど、その後は「微楚之惠、不及此」と続く。楚が流浪の重耳を庇護していなければ今日はない(なので三舎退いた)、という意味。曹操の南下に対し呉(さらに言えば魯粛ら開戦派)が助けなければどうなっていたか、と暗に言いたかったのかな?

代わりに、関羽が「劉備の問題なので、私は交渉権がありません」といい、魯粛が「桃園結義したでしょ」と攻撃した。『春秋左氏伝』の義を行使してされるよりはマシで、関羽のダメージが小さい、という判断であろう。

『呉書』で関羽は、『左氏伝』の義に敗れて終わり、言い返すことができない。しかし、それでは会話が終わってしまうので、『呉書』を終了し、魯粛伝のほうに戻す。

周倉厉声而言曰:“天上地下,惟有德者居之,豈但是汝東呉之有耶!”雲長変色,奪周倉所捧大刀,立于亭中曰:“此乃国家之事,汝何敢多言!”以目视之。

魯粛伝では名無しの発言者のセリフをアレンジし、天地は有徳者に帰すると。正史では、魯粛がこれを叱り飛ばすが、それをカットした。つぎに、正史と同じく、関羽が「国家の事だから、口を出すな」といい、目で合図をする。
すでに『演義』中で関羽は、「此国家之事,筵間不必論之」と言い逃れていた。魯粛伝から、「国家の事」を引用するのは二回目。

倉会其意,先来岸口把红旗一招,关平船如箭发,奔过江東来。雲長右手提刀,左手挽住鲁粛手,佯推醉曰:“公今请吾赴宴,非问是非。醉后不堪问答,恐傷故旧之情。他日令人请公到荆州赴会。”同到船中,鲁粛魂不附体,被雲長将至江下。

周倉が関平の船を呼び寄せ、関羽は魯粛を人質にとり、酔ったふりをして、「酒宴の席で、道理を問うもんじゃない。酔った後は、まともに受け答えを、出来たものではなかった(問答に堪えず)。故旧の情(劉備と孫権の同盟関係)を傷つけてしまうのを、恐れたのだ。別の日に、人を派遣し、あなたを荊州に招待します」といった。魯粛は、魂から体から吹き飛んでしまった。
終始、この酒宴では、領土問題を話し合うつもりはないよ、と言い逃れる関羽でした。会談の内容以前に、酒席で、このような話題を持ち出した魯粛が誤っているのだ、という「義」?が説かれている。
正史の記述を消化しようとすると、どうしても、関羽の負け感が拭えない。