三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
太祖武帝紀前魏ノ章 第01
曹操
陳寿が最も重んじた、いわゆる「曹操伝」です。『三国志』の主旋律。単独で1巻を形成するのに、最もふさわしい人物。
曹操(孟徳)


 

「三国志の英雄」の代名詞である曹操。
彼を「八卦」のシンボルで表すことは、ぼくにとっての大きな博打です。サイト内のどこかに書きましたが、曹操のことが分かれば、『三国志』は7割がた分かったも同然。それぐらい重要で、かつ評価が難しい人物。
「評曹操」に、先人の叡智の集積『易経』の助力を得て挑戦!
ぼくが曹操に見出したのは、「山雷沢」
「魏の座」、天下国家への影響としては、どっしりと落ち着いている卦象「山」を設定。ご覧の通り、天辺の一陽が、どうしても振り払えなかった漢帝国の重圧です。曹操一流の「陰」なる覇道の道、すなわち権謀術数詭道の用兵で漢帝国を炒めまくったが、ついに振り払えなかった。
「呉の座」、組織内の立ち振る舞いを表すのは、最も「人間」らしく活躍し、エネルギッシュに活動した生き様から、「雷」です。多動癖のある革新者が彼の役回りでしょう。
「蜀の座」、パーソナリティを象徴するのは、「沢」としました。根底には明らかに「陽」な性質を持っている人間なんだが、天辺には「陰」が乗っかっている。
この「沢」の卦は、たった3分の1の僅かな「陰」のために、2つの「陽」が抑圧されてネガティブに不満を溜め込んでいる象のようです。赤壁の心の傷を表したかった。荊州の水軍を接収した段階では、絶対に天下は取れていたんだ。それなのに。
曹操の詩は情緒的。「戦乱が続き、道を歩いても知っている顔と擦れ違わない」とか、「人生いくばくぞ、酒に対して歌うべし」とか、「老いた馬でも、志は千里を駆ける」とか。とても俗物的な成功者では持ち合わせない、圧倒的な切なさが曹操の胸の深いところにあると思います。
ちなみに「沢」は、上から流れてきた「陰」を受け止め、水流や養分を溜め込み、人を楽しませるという意味もある。詩を介して凡人に共感する余地を与えてくれた懐の深さが、唯才を唱えて冷酷に見える曹操の下に、人が集った理由だと思うのです。

彼の歴史的意義(山)と、組織内の位置(沢)が、真逆なのが良い。曹操は魏の主催者だから、彼=国。「魏の座」と「呉の座」は同じで良さそうなのに、却って正反対。ここが曹操の怪奇さです。
なお『易経』では、逆立ちしている卦同士は、和合して循環を始めるそうだ。曹操も『易経』もますます難解だなあ。。080709
高祖文帝紀前魏ノ章 第02
曹丕
タイトルは、陳寿から手を加える意味がないと思います。 曹丕は曹丕だもんね。まあ、「高祖」と言うことは知らなかったんだけど笑
曹丕(子桓)


 

初めて「易」をモチーフにした人物評を書きます。
曹丕は、天水火としました。
国家や後世への影響としては、全てが陽の爻で構成される「天」で決まり。曹操ですら躊躇した禅譲劇を実行し、自ら皇帝になり、先例を作りました。
人付き合いや組織内での立ち振る舞いとしては、陰の間を陽が惑いながら流れていく「水」にしました。曹操の後継というプレッシャーのかかる立場で、司馬懿というワケの分からん男にまで「苦しみを分け合って欲しい」と打ち明け、若くして死んだ。ああ、険しいね。ちょうど「水」は、中男を表すらしい。長男じゃないのに(曹昂の弟)、曹家で長男として扱われた彼の生きづらさも投影できました。
個人の性質としては、真ん中の陰爻がすでに燃えカスになり始め、実態がないけれども明るい「火」を選びました。文人として、はかなく燃え上がる情熱があったのではないかと。ちなみにぼくは、『典論』を読んで泣きました。「文学ハ経国ノ大業、不朽ノ盛事ナリ」です。あれは、いい!
「火」と「水」は陰陽が、全て逆転したもの。本性と組織内での振る舞いが正反対で、それが大きなストレスになった彼を象徴できたと思います。
世間の曹丕のイメージは、簒奪者、弟殺し、戦下手。Sっ気たっぷりで、仲良しは四友だけか?というか、四友とも仲が悪かったんじゃないか笑、と思えてくる。
『典論』には、英才教育を次々とクリアする輝かしき伝記が書かれているんだが、全て自己申告だからねえ笑
曹操に付き従って転戦すること、曹植を突き落とすこと、禅譲の孤独に耐えること。この3つでエネルギーを使い果たしてしまったのだろう。よく出来た凡人だ。
藩屏を築かなかったことは、仕方なし。結果論で責めちゃダメだ。王朝の行く末にまで目を配れるとしたら、それは自分の精神の平穏が保障された後の話だもの。
戦が下手で、呉方面に何回も兵を出して、勝手に疲弊した。「女みたいな男」こと徐盛に欺かれた。

長生きだけはしてほしかった。老害の方が、マシだった。40歳そこそこで死に、やがて幼帝時代が幕を開けえてしまう。すでに初代・曹丕から狂い始めたんだ。
禅譲の前の押し問答を読むと、同情の涙を誘われます。実質的には、有史初の禅譲をやって退けたんだから、大した度胸です。プレッシャーで早く死んでも仕方ないかなあ、と思う。080708
(C)2007-2008 ひろお All rights reserved. since 070331xingqi6