翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
作業手順は、以下の1.~4.の通りです。ここに掲載しているのは、翻訳の準備として、1.維基文庫をとりあえず現代語訳して大意をつかみ、4.『資治通鑑証補』の指摘を拾って赤文字で示す、という作業段階のものです。今後、精度を上げます。
1.維基文庫で、『資治通鑑』のテキストを取得。/2.中華書局の『資治通鑑』を底本とし、テキストを修正。/3.胡三省注、『資治通鑑考異』で内容理解を深める。/4.現代語訳をする際は、『資治通鑑』(続国訳漢文大成)、『和刻本資治通鑑』を参考とする。頼惟勤・石川忠久編『資治通鑑選』(中国古典文学大系14、平凡社)に収録されている部分はこれを参照する。/5.石川安貞『資治通鑑証補』(蓬左文庫)が正史等の出典を概ね示しているため、そのまま引用。同書が空格(空欄)としているものは、追加検証しない。6.初出の語彙には、読みがな(ルビ)を付す。
春正月辛丑朔、熒惑(火星)が紫微(紫宮)を犯した。漢の太史令の宣于脩之、は漢主の劉淵に、「三年間外征をしなければ、必ず洛陽を打ち破れます。蒲子は険しく、長く安泰でいることは難しい。平陽の気は盛んです、都を遷しない」と言った。劉淵はこれに従った。大赦し、河瑞と改元した〈前趙録 劉淵伝〉。
三月戊申、高密孝王の司馬略が薨じた〈高光献王 附略伝〉。尚書左僕射の山簡を征南将軍・都督荊・湘・交・広四州諸軍事とし、襄陽に鎮守させた〈山簡伝〉。山簡は、山濤の子であり、避けを嗜み、政事に熱心でなかった〈山簡伝に依る〉。上表し、「順陽内史の劉璠は支持を得て、百姓が叛乱の主に担ぎそうです」と言った。詔して劉璠を越騎校尉とした。南州はこれにより乱れ、父老は劉弘を追慕した〈劉弘伝 附劉璠伝に依る〉。
丁巳、太傅の司馬越は栄陽から京師に入った〈東海王越伝〉。中書監の王敦は親しい者に、「太傅は威権を専らにしているが、任免や上表は、尚書が旧来どおり裁いている、今日のように(司馬越の専制と)なれば、必ず誅殺される者が出るぞ」と言った〈王敦伝〉。
懐帝が太弟であったとき、中庶子の繆播と仲が良く、即位にする及び、繆播を中書監とし〈繆播伝〉、繆胤を太僕卿とし〈繆播伝附繆胤伝〉、中枢を委ねた〈繆播伝〉。懐帝の舅である散騎常侍の王延・尚書の何綏・太史令の高堂沖は、機密に参加した〈繆胤伝〉。司馬越は朝臣らが自分に二心を抱いていると疑い〈越伝〉、劉輿・潘滔は司馬越に繆播らをまとめて誅殺せよと勧めた〈何遵伝に依る〉。司馬越は繆播らに反乱の罪をでっちあげ、乙丑〈この二字は懐帝紀〉、平東将軍の王秉を、甲士三千を率いて宮廷に入れ〈越伝〉、繆播ら十餘人を懐帝のそばで捕らえ〈十餘人という字は懐帝紀より〉、廷尉に引き渡し、殺した〈越伝〉。懐帝は歎息して流涕するだけだった〈繆播伝に依る〉。
何綏は、何曾の孫である。これより先、何曾は武帝の宴に侍り、退いて、諸子に、「主上は大業を創始したが、私は宴席に出ても、統治の計画を聞かず、ただ日常のことだけを話し、子孫を導くつもりがなく、わが身だけを考えており、後継者たちは危ういぞ。きみたちも巻き込まれる」と言った。孫たちを指さし、「この子らには必ず難が及ぶ」と言った。何綏が死ぬと、兄の何嵩は哭して、「われらが祖父は(未来を予知した)聖人であったか」と言った〈何遵伝に依る〉。何曾は一日の食費が万銭であり、なお箸を下ろす場がないと言った〈何曾伝〉。子の何劭は、日に二万銭を浪費した〈何劭伝〉。何綏及び弟の何機・何羨は、さらに奢侈であった。人に書疏を与え、その文言は傲慢であった。河内の王尼が何綏の書を見て、人に、「伯蔚(何綏)は乱世にあって傲慢である、生き残れるのだろうか」と言った〈何遵伝〉。人は、「伯蔚があなたの言葉を聞けば、危ぶむだろう」と言った。王尼は、「伯蔚が私の言葉を聞く頃には、もう死んでいるだろう」と言った〈王尼伝〉。永嘉の末に及び、何氏は子孫が根絶した〈何遵伝〉。
臣光曰…省く。
太傅の司馬越は王敦を揚州刺史とした〈王敦伝〉。
劉寔は老年による引退を申請し続け、朝廷は許さなかった。尚書左丞の劉坦は上言し、「先古の養老とは、任ぜぬのを優、吏とせぬのを重としました、張寔の願いを聞いてやりましょう」と言った。丁卯、して張寔を侯として中央に召した〈劉寔伝〉。
王衍を太尉とした〈懐帝紀〉。
太傅の司馬越は兗州牧を解き、司徒を領した。司馬越は兵役を起こすが、多くが宮廷内に由来したから、宿衛の侯爵にある者を全て罷免した。ときに殿中の武官は並びに封侯であり、これにより罷免者はほぼ全てで、みな泣涕して去った。代わりに右衛将軍の何倫・左衛将軍の王秉に東海国の兵数百人を領して宿衛をさせた〈東海王越伝〉。
左積弩将軍の朱誕が漢に逃げ、洛陽が孤立し弱いことを報告し、漢主の劉淵に攻撃を勧めた。劉淵は朱誕を前鋒都督とし、滅晋大将軍の劉景を大都督とし、黎陽を攻め、これを破った。さらに王堪を延津で破り、男女三万餘人を河水に沈めた。劉淵はこれを聞き、怒って、「劉景は朕にどんな顔を見せるつもりか。天道がこれを許容するものか。私が排除したいのは司馬氏のみで、庶民に何の罪があったのか」と言った。劉景を平虜将軍に降格した〈前趙録 劉淵伝〉。
夏、大いに日照りがおき、江水・漢水・河水・洛水は干上がり、歩いて渡れた〈懐帝紀〉。
漢の安東大将軍の石勒が鉅鹿・常山を侵掠し、兵が十餘万に至り、衣冠の人物(士大夫)を集め、別に君子営を作った。趙郡の張賓を謀主、刁膺を股肱、夔安・孔萇・支雄・桃豹・逯明を爪牙とし、并州の各種の胡羯は多くが従った〈後趙録 石勒伝〉。
これより先、張賓は読書を好み、闊達で大志を持ち、自らを張子房に準えていた。石勒が山東の攻略をすると、張賓は親しい者に、「諸将を見てきたが、この胡族の将軍ほどの者はおらず、共に大業を成せそうだ」と言った。剣を提げて軍門を訪れ、呼ばわって面会し、石勒もまた大変喜んだ。張賓はしばしば石勒に策を授け、言う通りになった。石勒は評価し、軍の功曹とし、全般を相談した〈後趙録 張賓伝〉。
漢主の劉淵は王弥を侍中・都督青・徐・兗・豫・荊・揚六州諸軍事・征東大将軍・青州牧とし、楚王の劉聡とともに壺関を攻め、石勒を前鋒都督とした。劉琨は護軍の黄粛・韓述にこれを救わせ、劉聡は韓述を西澗で破り、石勒は黄粛を封田で破り、どちらも殺した〈前趙録 劉淵伝〉。
太傅の司馬越は淮南内史の王曠・将軍の施融・曹超に劉聡らを食い止めさせた。王曠が河水を渡り、長駆して進もうとすると、施融は、「彼は険しい地形を利用して隙を突く、われらは数万の兵を有するが、一軍だけで敵を引き受けている。川を利用して守り形勢を見定め、出直そう」と言った。王曠は怒り、「わが軍を妨害するのか」と言った。施融は退き、「敵軍は用兵を得意とし、王曠は事勢が読めない、われらは必ず死ぬ」と言った。王曠らは太行山脈を越えて劉聡と遭遇し、長平の間で戦い、王曠の軍は大いに敗れ、施融・曹超はどちらも死んだ〈前趙録 劉淵伝〉。
劉聡は屯留・長子を破り、一万九千級を斬獲した。上党太守の龐淳は壺関をあげて漢に降った。劉琨は都尉の張倚に上党太守を領し、襄垣に拠らせた〈前趙録 劉淵伝〉。
これより先、匈奴の劉猛が死ぬと、右賢王の去卑の子である誥升爰が後任として部族を統治した。誥升爰が卒すると、子の虎が立ち、新興に居し〈未詳〉、鉄弗氏と号し、白部鮮卑とともに全体で漢に帰属した〈前趙録 劉聡伝〉。劉琨が自ら劉虎を攻撃すると、劉聡は晋陽を襲撃し、打ち破れなかった〈未詳〉。
五月、漢主の劉淵は子の劉裕を斉王に、劉隆を魯王に封建した〈前趙録 劉淵伝〉。
秋八月、漢主の劉淵は楚王の劉聡らに命じて洛陽に進攻させた。平北将軍の曹武らに詔して食い止めさせたが、劉聡に敗れた。劉聡は長駆して宜陽に至り〈晋書 載記 劉元海伝〉、勝利におごり、防備を怠った。九月、弘農太守の垣延が詐って降り、劉聡の軍を夜襲し、劉聡は大敗して帰還した〈前趙録 劉淵伝〉。王浚は祁弘を遣わして鮮卑の段務勿塵とともに飛龍山を石勒で撃ち、大いにこれを破り、石勒は退いて黎陽に駐屯した〈前趙録 劉淵伝〉。
冬十月、漢主の劉淵は再び楚王の劉聡・王弥・始安王の劉曜・汝陰王の劉景に精騎五万を率いて洛陽を侵略させ、大司空である雁門の剛穆公の呼延翼が歩兵を率いて続いた。丙辰、劉聡らは宜陽に至った。朝廷は漢軍を破った直後、不意に再来したので、大いに懼れた。辛酉、劉聡は西明門に駐屯した。北宮純らは夜に勇士千餘人を連れて出撃して漢の防壁を攻め、征虜将軍の呼延顥を斬った。壬戌、劉聡は南にゆき洛水に駐屯した。乙丑、呼延翼は部下に殺され、その兵は大陽から潰走して帰った。劉淵は劉聡らに撤退を命じた。劉聡は上表して晋軍は微弱だから、呼延翼・呼延顥の死を理由に撤退する必要がないと述べ、洛陽攻撃の続行を主張し、劉淵はこれを許した〈前趙録 劉淵伝〉。
太傅の司馬は籠城して自衛した〈未詳〉。戊寅、劉聡はみずから嵩山に祈り、平晋将軍である安陽哀王の劉厲・冠軍将軍の呼延朗に残留させる軍を管轄させた。太傅参軍の孫詢は司馬越に虚に乗じて呼延朗を撃つことを提言し、彼を斬り、劉厲は川に向かって死んだ。王弥は劉聡に、「いま軍は不利であり、洛陽の守りはまだ固いから、輸送部隊は陝に移り、糧食は数日も続きません。殿下は龍驤大将軍(劉曜)とともに平陽に還り、食料と兵員を集め直し、やり直して下さい。私は兵と穀物を集め、兗州・豫州で出撃命令を待ちます、いかがですか」と言った。劉聡は自ら(洛陽攻撃に)留まって、敢えて帰還しなかった。宣于修之は劉淵に、「歳は辛未に、洛陽を獲得できます。いま晋の気は盛んであり、大軍が帰らねば、必ず敗れます」と言った。劉淵は劉聡らを召し還した〈前趙録 劉淵伝〉。
天水の人である訇琦らは成の太尉の李離・尚書令の閻式を殺し、梓潼をあげて羅尚に降った。成主の李雄は太傅の李驤・司徒の李雲・司空の李璜にこれを攻撃させ、勝てず、李雲・李璜は戦死した〈蜀録 李雄伝〉。
これより先、譙周の子が巴西におり、成の巴西太守の馬脱がこれを殺し、その子の譙登は劉弘のもとを訪れ復仇の軍役を望んだ。劉弘は上表して譙登を梓潼内史とし、自ら巴・蜀の流民を募らせ、二千人を得た。西上し、巴郡に至り、羅尚を頼りにして増兵を求めたが、失敗した。譙登は進んで宕渠を攻め、馬脱を斬り、その肝を食らった。ちょうど梓潼が降り、譙登は進んで涪城に拠った。李雄が自らこれを攻めたが、譙登に敗れた〈蜀録 李雄伝〉。
十一月甲申、漢の楚王の劉聡・始安王の劉曜は平陽に帰還した。王弥は南にゆき轘轅を出て、流民が穎川・襄城・汝南・南陽・河南に数万家おり、もとの住民を苦しめ、城邑を焼き払い、二千石・長吏を殺して王弥に呼応した〈前趙録 劉淵伝〉。石勒が信都を侵略し、冀州刺史の王斌wを殺した。王浚は自ら冀州を領した。詔して車騎将軍の王堪・北中郎将の裴憲に石勒を討伐させ、石勒は兵を引いて還り、これを防いだ。魏郡太守の劉矩は郡をあげて石勒に降った。石勒は黎陽に至り、裴憲は軍を棄てて淮南に逃げ、王堪は退いて倉垣を守った〈後趙録 石勒伝〉。
十二月、漢主の劉淵は陳留王の歓楽を太傅とし、楚王の劉聡を大司徒とし、江都王の延年を大司空とした。都護大将軍である曲陽王の劉賢と征北大将軍の劉霊・安北将軍の趙固・平北将軍の王桑を、東のかた内黄に駐屯させた。王弥は上表して左長史の曹嶷を行安東将軍とし、東にゆき青州を攻略し、その家族を迎えたいと言った。劉淵はこれを許した〈前趙録 劉淵伝〉。
これより先、東夷校尉である勃海の李臻は、王浚とともに晋王朝を支える盟約を結んだが、王浚は野心を抱いており、李臻はこれを恨んだ。和演が死ぬと、別駕である昌黎の王誕は李臻のもとに亡命し、李臻に兵を挙げて王浚を討とうと説いた。李臻は子の李成に王浚を討伐させた。遼東太守の龐本は、李臻と不仲だったので、虚に乗じて李臻を襲って殺し、人を送って李成を無慮で殺した。王誕は慕容廆のもとに亡命した。詔して勃海の封釈を李臻の後任の東夷校尉としたが、龐本は彼も殺そうとした。封釈の子の封悛は封釈に伏兵を設けて龐本を呼び、彼を捕らえて斬り、家族を皆殺しにした〈未詳〉。
春正月乙丑朔、大赦した〈懐帝紀〉。
漢主の劉淵は単徴の女を皇后とし、梁王の劉和を皇太子とし、大赦した。子の劉義を為北海王。長楽王の劉洋を大司馬とした〈前趙録 劉淵伝〉。
漢の鎮東大将軍の石勒が河水を渡り、白馬を抜き、王弥は三万の兵で合流し、ともに徐・豫州・兗州を侵略した。二月、石勒は鄄城を襲い、兗州刺史の袁孚を殺し、倉垣を抜き、王堪を殺した。また河を北渡し、冀州の諸郡を攻め、これに従う民は九万餘口であった〈後趙録 石勒伝〉。
成の太尉の李国が巴西に出鎮し、帳下の文石が李国を殺し、巴西をあげて羅尚に降服した〈蜀録 李雄伝〉。
太傅の司馬越が建威将軍である呉興の銭璯及び揚州刺史の王敦を徴した。銭璯は王敦を殺して反乱しようと計画し、王敦は建業に逃げ、琅邪王の司馬睿に報告した。銭璯が反乱し、進んで陽羨を侵略すると、司馬睿は将軍の郭逸らに討伐させた。周玘は郷里の人々を糾合し、郭逸らと合流してともに銭璯を討ち、これを斬った。周玘はみたび江南を平定したので、司馬睿は周玘を呉興太守とし、その郷里に義興郡を置いて顕彰した〈周玘伝に依る〉。
曹嶷は大梁から兵を率いて東にゆき、至るところはすべて下し、東平を破り、進んで琅邪を攻めた〈前趙録 劉淵伝に見える〉。
夏四月、王浚の将の祁弘は漢の冀州刺史の劉霊を広宗で破り、これを殺した〈前趙録 劉淵伝に見える〉。
成主の李雄は将の張宝に、「梓潼を得られたら、褒賞として李離の官職をやろう」と言った。張宝は先に人を殺して梓潼に亡命し、訇琦らはこれを信任し、腹心とした。羅尚の使者が梓潼に至ると、訇琦らが送迎した。張宝は後について門を閉め、訇琦らは巴西に逃げた。李雄は張宝を太尉とした〈未詳〉。
幽・并・司・冀・秦・雍の六州で大いに蝗害があり、草木・牛馬の毛を食い尽くした〈懐帝紀〉。
秋七月、漢の楚王の劉聡・始安王の劉曜・石勒及び安北大将軍である越国(人名)が河内太守の裴整を懐で囲み、征虜将軍の宋抽に詔して懐を救援させた。石勒は平北大将軍の王桑とともに宋抽を迎撃し、これを殺した。河内の人は裴整を捕らえて(漢に)降り〈懐帝紀に依る〉、漢主の劉淵は裴整を尚書左丞とした。河内の督将である郭黙は裴整の残兵を集め、自ら塢主となり〈前趙録 劉淵伝〉、劉琨は郭黙を河内太守とした〈未詳〉。
羅尚が巴郡で卒し、長沙太守である下邳の皮素に詔して後任とした〈未詳〉。
庚午、漢主の劉淵が寝込んだ。辛未、陳留王の歓楽を太宰とし、長楽王の劉洋を太傅とし、江都王の延年を太保とし、楚王の劉聡を大司馬・大単于とし、録尚書事を合わせた。単于台を平陽の西に置いた。斉王の劉裕を大司徒、魯王の劉隆を尚書令、北海王の劉乂を撫軍大将軍・領司隸校尉、始安王の劉曜を征討大都督・領単于左輔、廷尉の喬智明を冠軍大将軍・領単于右輔、光禄大夫の劉殷を左僕射、王育を右僕射、任顗を吏部尚書、朱紀を中書監、護軍の馬景を領左衛将軍、永安王の安国を領右衛将軍、安昌王の盛・安邑王の飲・西陽王の璿をいずれも領武衛将軍とし、分けて禁兵を掌らせた〈前趙録 劉淵伝〉。
これより先、劉盛が若いとき、読書を好まず、ただ『孝経』と『論語』だけを読み、「これを暗誦して実践すれば、こと足りる、暗誦しても実践しなければ意味がない」と言った。李熹はこれ見て、感心し、「書物を読むのは簡単なようで、このように実践し、厳粛に仕えている、君子と言うべきだ」と言った。劉淵はその忠篤さから、臨終のとき(劉盛)に重要な任務を委ねた〈前趙録 劉盛伝〉。丁丑、劉淵は太宰の歓楽らを禁中に入れ、遺詔を授けて輔政をさせた。己卯、劉淵は卒した。太子の劉和が即位した〈劉淵伝〉。
劉和は猜疑心が強くて恩情がなかった。宗正の呼延攸は、呼延翼の子であるが、劉淵は才行がないから、官職を与えなかった。侍中の劉乗は、楚王の劉聡を嫌っていた。衛尉である西昌王の劉鋭は、遺詔を受けられなかったことを恥じた。彼らが共謀し、劉和に説いて、「先帝は権勢の均衡を取らず、ただ三王にだけ内で強兵を持たせ、大司馬は十万の兵を擁して近郊に駐屯し、陛下は彼を頼るべきです。速やかに実行しなさい」と言った。劉和は、呼延の甥であり、深く信頼した。辛巳の夜、安昌王の劉盛・安邑王の劉欽らを召して告げた。劉盛は、「先帝の埋葬が終わらず、四王が反逆もしないのに、肉親で殺し合えば、天下は陛下をどのように言いますか。大業の開始早々、陛下は讒言を信じて兄弟を疑ってはなりません。兄弟が信用できないなら、他人はもっと信用できません」と言った。呼延攸・劉鋭は怒り、「今日の計画は、異論は認めぬ、領軍は何を言うのか」と言い、左右に命じて切り伏せた。劉盛が死ぬと、劉欽は懼れ、「陛下の命令のままに」と言い、壬午、劉鋭は馬景を従えて楚王の劉聡を単于台に攻め、呼延攸は永安王の安国を従えて斉王の劉裕を司徒府に攻め、劉乗は安邑王の劉欽を従えて魯王の劉隆を攻め、尚書の田密・武衛将軍の劉璿に北海王の劉乂を攻撃させた。田密・劉璿は劉乂を拘束して劉聡に帰順し、劉聡は武装兵に命じて待機させた。劉鋭は劉聡に防備があると知り、馳せて還り、呼延攸・劉乗とともに劉隆・劉裕を攻撃した。呼延攸・劉乗は安国・劉欽に野心があると思い、これを殺した。この日、劉裕を斬り、癸未、劉隆を斬った。甲申、劉聡は西明門を攻め、打ち破った。劉鋭らは南宮に逃げ込み、前鋒がこれに随った。乙酉、劉和を光極西室で殺し、劉鋭・呼延攸・劉乗を捕らえ、街路に首を晒した〈前趙録 劉和伝〉。
群臣は劉聡に即位を要請した。劉聡は北海王の劉乂が、単后の子なので、彼に譲った。劉乂は涕泣して故事し、ようやく劉聡は受諾し、「劉乂と群公は災厄を越えて国家を存続させるため、年長の私を指名した。これは国家のことであり、辞退するまい。劉乂の成長を待ち、大業を返還しよう」と言った。即位し、大赦し、光興と改元した。単氏を皇太后とし、母の張氏を帝太后とした。劉乂を皇太弟・領大単于・大司徒とした。妻の呼延氏を皇后に立てた〈前趙録 劉聡伝〉。呼延氏は、劉淵の后の従父妹である〈呼延氏伝〉。子の劉粲を河内王、劉易を河間王、劉翼を彭城王、劉悝を高平王に封じた。劉粲を撫軍大将軍・都督中外諸軍事とした。石勒を并州刺史とし、汲郡公に封じた〈前趙録 劉聡伝〉。
略陽の臨渭の氐酋である蒲洪は、驍勇で権略が多く、群氐はこれに畏服した。漢主の劉聡は蒲洪を平遠将軍に任命したが、蒲洪は受けず、護氐校尉・秦州刺史・略陽公を自称した〈前秦録 符洪伝〉。九月辛未、漢主の劉淵を永光陵に葬り、光文皇帝と謚し、廟を高祖と号した〈前燕録 劉淵伝〉。
雍州の流民が南陽に多く、詔して郷里への帰還を命じた。流民は関中が荒廃しているので、帰還を望まなかった。征南将軍の山簡・南中郎将の杜蕤は兵を派遣して、出発を督促した。京兆の王如はひそかに壮士と結び、二軍を夜襲し、これを破った。ここにおいて馮翊の厳嶷・京兆の侯脱は民を集めて城鎮を攻め、令長を殺して呼応し、ほどなく、兵は四五万に至り、大将軍・領司・雍二州牧を自号し、漢に称藩した〈未詳〉。
冬十月、漢の河内王の劉粲・始安王の劉曜及び王弥は四万を率いて洛陽を侵略し、石勒は騎二万を率いて劉粲に大陽で合流し、監軍の裴邈を澠池で破り、長駆して洛川に入った。劉粲は軒轅に出て、梁・陳・汝・穎の間を侵掠した。石勒は成皋関を出て、壬寅、陳留太守の王讃を倉垣で囲み、王讃に敗れ、退いて文石津に駐屯した〈後趙録 石勒伝〉。
劉琨は自ら率いて劉虎及び白部鮮卑を討ち、使者を送り辞を卑くして礼を厚くし鮮卑の拓跋猗盧に援軍を要請した〈未詳〉。猗盧は弟の弗の子である鬱律帥に騎二万でこれを助けさせ、遂劉虎・白部鮮卑を破り、その軍営を屠った〈北魏 序紀〉。劉琨は猗盧と兄弟の契りを結び、上表して猗盧を大単于とし、代郡を封土とする代公とした。代郡は幽州に属するので、王浚が許さず、猗廬を攻撃したが、猗廬が防いで破った。王浚はこれにより劉琨と不仲となった〈未詳〉。
猗盧は封邑が本拠地から遠いので、民を把握しづらく、部落万餘家を連れて雲中から雁門に入り、劉琨を経由して陘北の地を求めた。劉琨はこれを抑え切れず、猗廬からの援助を必要としたので、楼煩・馬邑・陰館・繁畤・崞の五県の民を陘南に移し、その地を猗廬に与えた。これにより猗廬はますます盛んになった〈未詳〉。
劉琨は太傅の司馬越に使者を送り、劉聡・石勒の共同討伐を持ちかけた。司馬越は苟晞及び豫州刺史の馮嵩〈未詳〉が、後患となることを恐れ、同意しなかった。劉琨は猗盧の兵に謝り、帰国させた〈北魏 序紀〉。
劉虎は残兵を集め、河水を西に渡り、朔方の肆盧川に居し、漢主の劉聡は劉虎が宗室なので、楼煩公に封建した〈前趙録 劉聡伝〉。
壬子、劉琨を平北大将軍とし〈懐帝紀〉、王浚を司空とし、鮮卑の段務勿塵を進めて大単于とした〈王浚伝〉。
京師の飢饉は日ごとに悪化し、太傅の司馬越は使者を送って羽檄で天下の兵を徴し、京師への援軍とした。懐帝は使者に、「私の言葉を各地の征鎮に伝えてくれ、今日ならまだ助かるが、遅れたら間に合わぬ」と言った。すぐに到着する部隊はなかった〈懐帝紀〉。征南将軍の山簡は督護の王萬に兵を率いて助けさせ、涅陽に進軍したが、王如に敗れた〈山簡伝〉。王如は大いに沔水と漢水の一帯を掠奪し、進んで襄陽に逼り〈王如伝〉、山簡は籠城して守った〈山簡伝〉。荊州刺史の王澄は自ら、京師の救援に向かったが、沶口に至り、山簡が敗れたと聞き、兵が離散して帰った〈王澄伝〉。朝議は多くが遷都して難を避けよと述べたが、王衍が却下し、馬車や牛を売って民を安心させた〈王衍伝〉。山簡は厳嶷に逼られ、襄陽から夏口に移った〈山簡伝〉。
石勒は兵を率いて河水を渡り、南陽に行こうとし、王如・侯脫脱厳嶷らはこれを聞き、一万の兵で襄城に駐屯して妨げた。石勒はこれを撃ち、その兵を全て捕らえ、進んで宛北に駐屯した。このとき、侯脱は宛に拠り、王如は穰に拠っていた。王如は王脱と不仲であり、使者を送って重ねて石勒に賄賂を贈り、兄弟の契りを結び、石勒に王脱攻撃を説いた。石勒が宛を攻め、これを破った。厳嶷は兵を率いて宛を救ったが、到着する前に降服した。石勒は王脱を斬った。厳嶷を捕らえ、平陽に送り、配下の兵を吸収した。南に向かい襄陽を侵掠し、攻めて江西の塁壁三十餘を破った。還って、襄城に行くと、王如は弟の王璃に石勒を襲撃させた。石勒は迎撃し、これを滅ぼし、また江西に駐屯した〈後趙録 石勒伝〉。
太傅の司馬越が王延らを殺したので、世論は失望した。さらに胡族の侵攻が盛んなので、不安になり、軍服で謁見し、石勒を討伐し、兗州・豫州から兵員を集めることを請願した。懐帝は、「いま胡虜が首都圏に逼り、人々は動揺し、朝廷や社稷は、あなた頼みだ、なぜ遠征して私を孤立させるのか」と言った。答えて、「私が出撃し、幸いにも賊を破れば、国威は復興します、座して追い詰められるより良いです」と言った。十一月甲戌、司馬越は甲士四万を率いて許昌に向かい、妃の裴氏・世子の司馬毗及び龍驤将軍の李惲・右衛将軍の何倫らを留めて京師を防衛させ〈東海汪越伝に依る〉、宮殿を護衛させた〈未詳〉。潘滔を河南尹とし、留守の全般を統括させた〈未詳〉。司馬越は上表して行台を設けて自ら運用し〈懐帝紀及び越伝〉、太尉の王衍を軍司とし、朝廷の有望な人材は、ことごとく佐吏とし、名将や強兵は、全てその府に参加した〈越伝〉。ここにおいて宮殿には守衛がおらず、荒廃と飢饉は日ごとにひどく、殿内には死人が転がった。盗賊が横行し、それぞれの役所では、塹を掘って自衛した〈懐帝紀〉。司馬越は東にゆき項に屯し、馮嵩を左司馬とし、自ら豫州牧を領した〈越伝〉。
竟陵王の司馬楙は懐帝に何倫の襲撃を勧めたが、勝てなかった。懐帝は罪を司馬楙に着せ、司馬楙は逃亡し、生き延びた〈竟陵王楙伝〉。
揚州都督の周馥は洛陽が孤立して危ういので、上書して寿春への遷都を提案した。太傅の司馬越は周馥が自分を経由せず上書したので、大いに怒り、周馥及び淮南太守の裴碩を召した。周馥は行くことに合意せず、裴碩に兵を率いて先に進ませた。裴碩は司馬越から密旨を受けたと詐り、周馥を襲ったが、周馥に敗れ、退いて東城に拠った〈周浚伝 附周馥伝〉。
詔して張軌に鎮西将軍・都督隴右諸軍事を加えた。光禄大夫の傅祗・太常の摯虞は張軌に文書を贈り、京師の惨状を告げた。張軌は参軍の杜勲を送って馬五百匹、毯布三万匹を献じた〈張軌伝〉。
成の太傅の李驤は譙登を涪城に攻めた。羅尚の子の羅宇及び参佐が譙登を憎んでおり、軍糧を供給しなかった。益州刺史の皮素は怒り、罪を処罰しようとした。十二月、皮素は巴郡に至り、羅宇らは人を使って夜に皮素を襲ったが、建平都尉の暴重が羅宇を殺し、巴郡は乱れた。李驤は譙登に食料と援軍がなことを知り、いよいよ涪を締め上げた。士民はみな鼠をいぶして食べ、餓死者はとても多いが、一人も離叛しなかった。李驤の子である李寿は先頭を切って城壁に登り、譙登はこれに帰順した。三府の官属は上表して巴東監軍である南陽の韓松を益州刺史とし、巴東を治所とした〈蜀録 李雄伝〉。
これより先、懐帝は王弥・石勒が首都圏を侵略するので、苟晞に詔して州郡の兵を督してこれを討伐させた。曹嶷が琅邪を破り、北のかた斉地を収めると、兵勢はますます盛んとなり、苟純は城門を閉じて自衛した。荀晞は還って青州を救い、曹嶷と連戦して、これを破った〈後趙録 石勒伝〉。
この歳、寧州刺史の王遜が着任し、上表して李釗を朱提太守とした。ときに寧州は外に成から逼られ、内に反徒がおり、城邑は空虚であった。王遜は衣食を粗末にし、離散した民を招集離散し、きちんと労り、数年のうちに、州土は平安となった。法に従わぬ豪族を十餘家殺した。五苓夷のかつて反乱の首謀者となった者を、撃滅し、内外は震服した〈未詳〉。
漢主の劉聡は自ら席次を越えて(後嗣に)立ったから、嫡兄の劉恭が邪魔であった。劉恭が寝ると、壁に穴をあけ、刺殺した〈前趙録 劉聡伝〉。
漢の太后である単氏が卒し、漢主の劉聡は母の張氏を尊んで皇太后とした。単氏は年少のときから美しく、劉聡は好意を持っていた。太弟の劉乂がこれを言い、単氏は恥じて怒って死んだ。劉乂への寵遇が衰えたが、単氏が原因だったので、(太弟を)廃位まではしなかった〈前趙録 劉聡伝〉。呼延后が劉聡に、「父が死んで子が継ぐのは、古今の常道です。陛下は高祖の業を承け、太弟は何を批判したのでしょうか。陛下の死後百年で、劉粲の兄弟が途絶えてしまいます」と言った。劉聡は、「そうだな、私もそう思っていた」と言った〈前趙録 聡后呼延氏伝〉。呼延氏は、「このままでは異変が起きます、太弟は劉粲の兄弟が成長すれば、必ず不安となり、もし小人が対立を煽れば、禍乱が起きぬとも限りません」と言った。劉聡は内心で合意した。劉乂の舅である光禄大夫の単沖が泣いて劉乂に、「傍系は直系より親しくありません。主上は河内王の劉粲を後継者にしたい、殿下はなぜ争いを避けないのですか」と言った。劉乂は、「河瑞の末に、主上は自ら嫡庶の区別を思い、大位を私に譲ってくれる。私は主上より年長だから、きっと奉戴してもらえる。天下は、高祖の天下であり、兄が終われば弟に及ぶことの、何が問題だというのか。劉粲の兄弟はすでに壮年で、現在のありさまである。しかも子弟の間では、親疏は多くなく、主上にそのような考えがあるものか」と言った〈前趙録 劉聡伝〉。
春正月壬申、苟晞は曹嶷に敗れ、城を棄てて高平に逃げた〈後趙録 石勒伝及び晋書 荀晞伝〉。
石勒は江・漢に割拠しようとし考えたが、参軍都尉の張賓が反対した。ときに軍中に飢えと疫病が広がり、大半が死んだので、沔水を渡り、江夏を侵略し、癸酉、城を抜いた〈後趙録 石勒伝に依る〉。
乙亥、成の太傅の李驤が涪城を抜き、譙登を捕らえた。太保の李始は巴西を抜き、文石を殺した。ここにおいて成主の李雄は大赦し、玉衡と改元した。譙登は成都に至り、李雄は彼を赦そうとした。しかし譙登は屈服せず、李雄は彼を殺した〈蜀録 李雄伝〉。
巴蜀の流民は荊州・湘州の間に広がり〈王澄伝〉、しばしば現地の民を侵害して苦しめ、蜀人の李驤は人々を集めて楽郷を拠点として反し、南平太守の応詹は醴陵令の杜弢とともにこれを撃破した〈杜弢伝〉。王澄は成都内史の王機を派遣して李驤を討伐し、李驤は降服を願ったが、王澄は許すふりをして襲い殺した。彼の妻子を褒賞とし、八千餘人を江水に沈め〈王澄伝に依る〉、流民はますます怨み怒った〈未詳〉。
蜀人の杜疇らも反し、湘州参軍の馮素は蜀人の汝班と不仲であったので、刺史の荀眺に、曰、「巴・蜀の流民の全てが反乱しそうです」と吹き込んだ。荀眺はこれを信じ、流民を全て殺そうとした〈杜弢伝〉。流民は大いに懼れ〈未詳〉、四五万家が一斉に反し〈王澄伝〉、杜弢は州里の名望家であったから、盟主に推戴された。杜弢は梁・益二州牧・領湘州刺史を自称した〈杜弢伝〉。
裴碩は琅邪王の司馬睿に救いを求め、司馬睿は揚威将軍の甘卓らを遣わして寿春で周馥を攻撃させた。周馥の軍は潰走し、項に逃げ、豫州都督である新蔡王の司馬確がこれを捕らえ、周馥は憂憤して卒した〈周馥伝〉。司馬確は、司馬騰の子である〈未詳〉。
揚州刺史の劉陶が卒した。琅邪王の司馬睿は再び安東軍諮祭酒の王敦を揚州刺史とし、ほどなく都督征討諸軍事を加えた〈王敦伝〉。
庚辰、平原王の司馬幹が薨じた〈懐帝紀〉。
二月、石勒が新蔡を攻め、新蔡荘王の司馬確を南頓で殺した。進んで許昌を抜き、平東将軍の王康を殺した〈後趙録 石勒伝〉。
氐族の苻成・隗文がまた叛し、宜都から巴東に向かった〈蜀録 李雄伝に依る〉。建平都尉の暴重がこれを討伐した。暴重は韓松を殺し、自ら三府事を領した〈未詳〉。
東海孝献王の司馬越は苟晞と不仲であり、河南尹の潘滔・尚書の劉望らもまた従いつつも批判的であった。荀晞は怒り、上表して潘滔らの首を求め、声明を出し、「司馬元超(司馬越)は宰相であるが平らかでなく、天下を混乱させ、苟道将(荀晞)はなぜ不義により彼をのさばらせておくのか」と言った。檄文を諸州に回付し、討伐を功とし、司馬越の罪状を述べた。懐帝もまた司馬越が専権し、詔命に多く逆らうことを不快に思っていた。(司馬越が洛陽に)留めている将士の何倫らは、公卿から掠奪し、公主に手を出した。ひそかに荀晞に直筆の詔を賜り、討伐させた。荀晞はしばしば懐帝と書簡を往来させ、司馬越はこれを怪しみ、游騎を成皋に間に伏せて偵察させ、果たして荀晞の使者と詔書を確保した。檄を下して荀晞の罪状を述べ、従事中郎の楊瑁を兗州刺史とし、徐州刺史の裴盾とともに荀晞を討伐させた。荀晞は騎兵を送って潘滔を連れ出し、潘滔は夜に逃げ、脱出できた。尚書の劉曾・侍中の程延を捕らえ、彼らを斬った〈荀晞伝〉。司馬は憂憤して発病し〈東海王越伝〉、後事を王衍に託した〈未詳〉。三月丙子、項で薨じ〈越伝〉、喪を秘した。人々は王衍を元帥に推戴したが、王衍は受けなかった。襄陽王の司馬範に譲ったが、司馬範も受けなかった〈未詳〉。王范は、王瑋の子である〈楚隠王瑋伝〉。ここにおいて王衍らは司馬越の遺体を奉じて東海に還って葬った。何倫・李惲らは司馬越が薨じたと聞き、裴妃及び世子の司馬毘を奉って洛陽から東に逃げ、城中の士民は争ってこれに随った。懐帝は追って司馬越を県王に降格し〈越伝に依る〉、苟晞を大将軍・大都督、督青・徐・兗・豫・荊・揚六州諸軍事とした〈荀晞伝〉。
益州の将吏はともに暴重を殺し、上表して巴郡太守の張羅を行三府事とした。張羅は隗文らと戦って、死に、隗文らは吏民を駆り立て、西にゆき成に降った。三府の文武はともに上表して平西司馬である蜀郡の王異を行三府事とし、巴郡太守を領させた〈未詳〉。
これより先、梁州刺史の張光は諸郡の太守たちと魏興で落ちあい、ともに進攻しようと計画した。張燕が唱え、「漢中は荒廃して敗れ、近くに大賊が迫っており、征服するには、英雄の出現を待たねばならない」と言った。張光は張燕が鄧定から賄賂を受け取ったせいで、漢中を失うことになり、今回は進軍を妨げたから、叱ってこれを斬った。〈張光伝〉。兵を整えて進攻し、年を重ねて漢中に到達し〈未詳〉、荒廃した地を回復させ、百姓は悦んで服従した〈張光伝〉。
夏四月、石勒は軽騎を率いて太傅の司馬越の遺体を追い、苦県の寧平城に及び、大いに晋兵を破り、騎兵で包囲して射かけ、将士十餘万人が踏みあって山となり、一人も逃れられなかった。太尉の王衍・襄陽王の司馬範・任城王の司馬済〈ほぼ懐帝紀に見える〉・武陵荘王の司馬澹・西河王の司馬喜・梁懐王の司馬禧・斉王の司馬超・吏部尚書の劉望・廷尉の諸葛銓・豫州刺史の劉喬・太傅長史の庾ガイらを、幕下に座らせ、晋の滅亡理由を質問した。王衍がつぶさにその理由を述べ、他人のせいにした。望んで官僚になったのではなく、時世に関わるのは本意でなかったと言った。石勒に皇帝号を勧め、自らは逃れようとした。石勒は、「あなたは若年から朝廷に登り、名は四海を覆い、身は重任に居り、なぜ仕官は不本意などと言うのか。天下を壊したのは、きみでなければ誰なのか」と言った。左右に命じ退出させた。みな死を恐れ、多くを弁明した。ひとり襄陽王の司馬範だけは態度がおごそかで、石勒を顧みて叱り、「今日のことは、何をごちゃごちゃ言っているんだ」と言った」石勒は孔萇に、「私は天下でいろいろな経験があるが、彼のような人は初めてだ、生かしておくべきか」と言った。孔萇は、「彼らは全て晋の王公です、われらが任用はできません」と言った。石勒は、「そうであっても、斬ってしまうのは惜しい」とい言った。夜に、囲みを除かせて殺した〈後趙録 石勒伝〉。司馬済は、宣帝の弟の子である景王陵の子である。司馬禧、司馬澹の子である〈宗室任城王陵及び宣五王琅邪王伷附澹伝〉。司馬越の棺を壊し、死体を焼き、「天下を乱したのはこの人だ、天下のために報復しよう、ゆえに骨を焼いて天地に告げる」と言った〈越伝及び石勒伝〉。
何倫らは洧倉に至り、石勒に遭遇し、戦って敗れ〈石勒伝〉、東海の世子及び宗室四十八王が全て石勒に捕らえられ〈懐帝紀〉、何倫は下邳に逃げ、李惲は広宗に逃げた。裴妃は売り飛ばされ、しばらくして、江水を渡った〈後趙録 石勒伝〉。これより先、琅邪王の司馬睿が建業を鎮守すると、裴妃に気づき、ゆえに司馬睿はこれを徳とし、手厚く保護し、その子の沖を司馬越の後嗣とした〈越伝〉。
漢の趙固・王桑が裴盾を攻めて、これを殺した〈前趙録 劉聡伝〉。
杜弢が長沙を攻めた。五月、荀眺は城を棄てて広州に逃げ〈杜弢伝〉、杜弢は追ってこれを捕らえた〈未詳〉。ここにおいて杜弢は南にゆき零陵・桂陽を破り、東にゆき武昌を掠め、二千石の長吏を大量に殺した〈杜弢伝に依る〉。
太子太傅の傅祗を司徒とし、尚書令の荀藩を司空とし、王浚に大司馬・侍中・〈懐帝紀〉・大都督、督幽・冀諸軍事を加え〈王浚伝〉、南陽王の司馬模を太尉〈懐帝紀〉・大都督とし、張軌を車騎大将軍とし〈張軌伝に依る〉、琅邪王の睿を鎮東大将軍とし〈懐帝紀〉、督揚・江・湘・交・廣五州諸軍事を兼ねた〈未詳〉。
これより先、太傅の司馬越は南陽王の司馬模では関中を安定統治できないとして、上表して徴して司空とした。将軍の淳于定が司馬模に(中央への)徴しに応じてはいけないと説き、司馬模はこれに同意した。上表して世子の司馬保を平西中郎将として、上邽に出鎮させたが、秦州刺史の裴苞がこれを妨げた。司馬望は帳下都尉の陳安に裴苞を攻撃させ、裴苞が安定に逃げ、太守の賈疋がこれを受け入れた〈南陽王模伝〉。
苟晞は倉垣への遷都を上表し〈懐帝紀〉、従事中郎の劉会は船数十艘・宿衛五百人・穀千斛を伴い懐帝を迎えた〈未詳〉。懐帝はこれに従おうとしたが、公卿がとまどい、左右は財物を惜しみ、実行しなかった。洛陽は困窮し、人が食らい合い、百官は十に八九が流亡した。懐帝は公卿を召して議したが、出発するにも護衛が備わらなかった。懐帝は手を撫でて歎じ、「馬車や輿すら準備できなかったことがあったか」と言った。傅祗を河陰に行かせ、船を手配し、朝士の数十人が付き従った。懐帝は徒歩で西掖門を出て、銅駝街に至り、盗賊に襲われ、進めずに帰還した〈懐帝紀〉。度支校尉である東郡の魏浚、流民数百家を連れて河陰の峡石を拠点とし、掠奪して穀物を確保し、献上した。懐帝は彼を揚威将軍・平陽太守とし、度支は従来通りとした〈魏浚伝〉。
漢主の劉聡は前軍大将軍の呼延晏に兵二万七千を率いて洛陽を攻撃させ、河南に及ぶころ、晋軍が前後に十二敗し、死者は三万餘人であった。始安王の劉曜・王弥・石勒はみな兵を率いて集まった。集合する前に、呼延晏は輜重を張方の故塁に留めていた。癸未、先に洛陽に至った。甲申、平昌門を攻め、丙戌、これを破り、東陽門及び各府寺を焼き払った。六月丁亥朔、呼延晏は外に後続が来ないので、掠奪して去った。懐帝は船を用意して洛水の出て、東に逃げようとしたが、呼延晏が(船を)全て焼いた。庚寅、荀藩及び弟の光禄大夫の荀組は轘轅に逃げた。辛卯、王弥が宣陽門に至った。壬辰、始安王の劉曜が西明門に至った。丁酉、王弥・呼延晏は宣陽門を破り、南宮に入り、太極前殿に昇り、兵が自由に掠奪し、宮人・珍宝を手に入れた。懐帝は華林園門に出て、長安に逃げようとした、漢兵は追って捕らえ、端門に幽閉した。劉曜は西明門から入って武庫に駐屯した。戊戌、劉曜は太子の司馬詮・呉孝王の司馬晏・竟陵王の司馬楙・右僕射の曹馥・尚書の閭丘沖・河南尹の劉黙らを殺し、士民の死者は三万餘人であった。諸陵を盗掘し、宮廟・官府をことごとく焼いた。劉曜は恵帝の羊皇后をめとり、懐帝及び六璽を平陽に遷した〈前趙録 劉聡伝に依る〉。石勒は兵を率いて轘轅を出て、許昌を屯守した。光禄大夫の劉蕃・尚書の盧志は并州に逃れた〈未詳〉。
丁未、漢主の劉聡は大赦し、嘉平と改元した。懐帝を特進左光禄大夫とし、平阿公に封じ、侍中の庾珉・王俊を光禄大夫とした〈前趙録 劉聡伝〉。庾珉は、庾敳の兄である〈庾峻伝に依る〉。
これより先、始安王の劉曜は王弥が自分を待たずに至り、先に洛陽に入ったから、これを怨んだ。王弥は劉曜に、「洛陽は天下の中心です、山河は四方を囲み、城池・宮室をすぐに修繕し、主上に平陽から遷都するよう進言して下さい」と言った。劉曜はまだ天下が平定されておらず、洛陽は四方に敵を受けるから、守りづらいので、王弥の意見書を焼き捨てた。王弥は罵って、「屠各子め、帝王になる野心があるのか」と言った。王弥は劉曜と対立し、兵を率いて東にゆき項関に駐屯した。前司隸校尉の劉暾が王弥に、「いま九州は沸きたち、群雄が角逐しているが、将軍は漢において不世の功を立てた、始安王との対立は、許容できまい。東のかた故郷に拠り、天下の形勢を観察していれば、良ければ四海を統一でき、悪くとも鼎立の一部を成せる、これが上策である」と言った。王弥は同意した〈前趙録 王弥伝〉。
司徒の傅祗は行台を河陰に建て〈傅玄伝 附傅祗伝に依る〉、司空の荀藩が陽城におり〈未詳〉、河南尹の華薈が成皋におり〈未詳〉、汝陰太守である平陽の李矩が建物を作り、穀物を供給した〈李矩伝〉。華薈とは、華歆の曾孫である〈未詳〉。
荀藩と弟の荀組・族子の中護軍の荀崧は、華薈とその弟の中領軍の華恒とともに、行台を密県に建て〈未詳〉、四方に檄文を送り、琅邪王の司馬睿を盟主に推した〈荀組伝〉。荀藩は承制して荀崧を襄城太守とし〈未詳〉、李矩を栄陽太守とし〈李矩伝〉、前冠軍将軍である河南の褚翜を梁国内史とした〈褚翜伝〉。揚威将軍の魏浚は洛北の石樑塢に駐屯し、劉琨は承制して魏浚を河南尹に仮し、王浚は荀藩のもとに至り軍事の参謀となった。荀藩は李矩を迎えて集まり、李矩は夜に赴いた。李矩の官属はみな、「魏浚は信用できない、夜に行くべきでない」と言った。李矩は、「忠臣は心を共有している、疑うことはない」と言った。訪問し、打ち解けて帰ってきた〈魏浚伝〉。魏浚の族子の魏該は、民衆を集めて一泉塢に拠り、荀藩はこれを武威将軍とした〈魏該伝〉。
豫章王の司馬端は、太子の司馬詮の弟であり、東のかた倉垣に逃れ、苟晞は群官を率いて皇太子に奉り、行台に置いた。司馬端は承制して荀晞を領太子太傅・都督中外諸軍・録尚書事とし、倉垣から移って蒙城を屯守した〈荀晞伝〉。
撫軍将軍である秦王の司馬業は、呉孝王の子であり、荀籓の甥であり、年は十二、南のかた密に逃れ、荀藩に奉られ、南下して許昌に赴いた〈愍帝紀に依る〉。前豫州刺史である天水の閻鼎は、西州の流民数千人を密に集め、郷里に帰ろうとした。荀藩は閻鼎に才覚があり民を連れているから、閻鼎を豫州刺史とし、中書令の李コウ・司徒左長史である彭城の劉疇・鎮軍長史の周顗・司馬の李述等らをその参佐とした〈閻鼎伝〉。周顗は、周浚の子である〈周顗伝〉。
ときに海内は大いに乱れ、江東だけが比較的平穏で、中国の士民は乱を避けて多くが南に向かい江水を渡った。鎮東司馬の王導は琅邪王の司馬睿に賢俊な人材を集め、協力させるよう勧めた。司馬睿はこれに従い、掾属百餘人を招き、当時の人から百六掾と呼ばれた〈王導伝に依る〉。前穎川太守である勃海の刁協を軍諮祭酒とし〈刁協伝〉、前東海太守の王承〈王湛伝 附王承伝〉・広陵相の卞壺を従事中郎とし〈卞壺伝〉、江寧令の諸葛恢〈諸葛恢伝〉・歴陽参軍である陳国の陳頵を行参軍とし〈陳頵伝〉、前太傅掾の庚亮を西曹掾とした〈庾亮伝〉。王承は、王渾の弟子。諸葛恢は、諸葛靚の子である。庾亮は、庾兗の弟の子である。
江州刺史の華軼は、華歆の曾孫であり、自ら朝廷の命を受け(刺史である)ので、琅邪王の司馬睿の監督下に入っても、教令に従わなかった。郡県の多くが彼を諫めたが、華軼は、「私は詔書を見るだけだ」と言った。司馬睿が荀藩の檄文を受け、承制して官僚組織を設置し、長吏を交替させると〈華軼伝〉、華軼と豫州刺史の裴憲は〈未詳〉どちらも(司馬睿の)命令に従わなかった。司馬睿は揚州刺史の王敦・歴陽内史の甘卓を派遣して揚烈将軍である廬江の周訪とともに兵を合わせて華軼を攻撃した。華軼の軍は敗れ、安成に逃げ、周訪は追って斬り、その五子も殺した〈華軼伝〉。裴憲は幽州に逃れた〈未詳〉。司馬睿は甘卓を湘州刺史とし〈甘卓伝〉、周訪を尋陽太守とし〈周訪伝〉、揚武将軍の陶侃を武昌太守とした〈陶侃伝〉。
秋七月、王浚は壇を設けて天地を祭り、皇太子を立て、天下に布告した、中詔を受けたと称して承制して封拝し、百官を設置した、征・鎮を列署し、荀藩を太尉とし〈王浚伝〉、琅邪王の司馬睿を大将軍とした〈未詳〉。王浚は自ら尚書令を領し、裴憲及び其の婿の棗嵩を尚書とし、田征を兗州刺史、李惲を青州刺史とした〈王浚伝〉。
南陽王の司馬模は牙門の趙染に蒲坂を守らせ、趙染は馮翊太守の位を求めたら得られずに怒り、兵を連れて漢に降り〈南陽王模伝〉、漢主の劉聡は趙染を平西将軍とした。八月、劉聡は趙染を安西将軍の劉雅とともに騎二万を率いて司馬模を長安で攻撃し、河内王の劉粲・始安王の劉曜は大軍を率いてこれに続いた。趙染は司馬模の軍を潼関で破り、長駆して下邽に至った。涼州の将である北宮純は長安から兵を率いて漢に降った。漢軍が長安を包囲し、司馬模は淳于定に出撃させたが敗れた。司馬模は倉庫が枯渇し、士卒が離散したので、漢に降服した。趙染は司馬模を河内王の劉粲に送った。九月、劉粲は司馬模を殺した。関西は飢饉であり、白骨が野をおおい、士民の生存者は百に一二も無かった。劉聡は始安王の劉曜を車騎大将軍・雍州牧とし、更めて中山王に封じ、長安を鎮守させた。王弥を大将軍とし、斉公に封じた〈前趙録 劉聡伝〉。
苟晞は奢侈で暴虐であり、前遼西太守の閻亨は、閻纘の子であるが、しばしば荀晞を諫め、荀晞はこれを殺した。従事中郎の明預は病気になり、輿に乗って諫めた。荀晞は怒り、「私は閻亨を殺した、他人のことは関係ないだろう、しかし病気のくせに輿に乗って私を罵るのか」と言った。明預は、「明公は私を礼遇してくれたから、私も命がけで礼を尽くすのだ。いま明公が私に怒るが、遠近からあなたへの怒りと比べるとどれほどだろうか。桀は天子であり、驕暴にして滅びた、まして人臣であれば尚更だ。明公は怒りを措いて、私の話を聞いてくれ」と言った。荀晞は従わなかった。これにより郡臣からの支持が離れて怨み、しかも疫病と飢饉がひどくなった〈荀晞伝〉。石勒は王瓚を陽夏で攻めて捕らえた。蒙城を襲い、荀晞及び豫章王の司馬端を捕らえ、荀晞の首を鎖でしばり、左司馬とした〈後趙録 石勒伝〉。漢主の劉聡は石勒を幽州牧に拝した〈前趙録 劉聡伝〉。
王弥と石勒は、表面では親しいが内実では憎みあい、劉暾は王弥に曹嶷の兵を召して石勒を殺せとそそのかし、王弥は文書を作り、劉暾は曹嶷を召し、石勒の兵を迎え撃ってともに青州に向かった。劉暾は東阿に至り、石勒の游騎がこれを捕らえ、石勒はひそかに劉暾を殺して王弥に知らせなかった。王弥が徐邈・高梁を率いて配下の兵を連れて去ろうとしており、王弥軍の士気が徐々に衰えた。王弥は石勒が荀晞を捕らえたと聞いて、これを憎み、祝いの書簡を石勒に送って「あなたは荀晞を捕らえてこれを用いるそうで、素晴らしい結果ですね。荀晞をあなたの左腕とし、私をあなたの右腕にすれば、天下を平定できましょう」と言った〈王弥伝〉。石勒は張賓に、「王公(王弥)は地位が重いが言葉が卑しい、私への殺意があるのは確実だな」と言った。張賓は石勒に王弥の弱体化に乗じ、誘って捕らえよと説いた。このとき石勒は乞活の陳午と蓬関で抗争しており、王弥もまた劉瑞との抗争が激しかった。王弥は石勒に救いを求めたが、石勒は認めなかった。張賓は、「あなたはいつも王公との関係悪化を恐れていますが、いま天は王公をわれらに授けようとしています。陳午は小豎であり、脅威ではありません。王公は人傑です、速やかに除くべきです」と言った。石勒は兵を率いて劉瑞を攻撃し、これを斬った。王弥は大いに喜び、石勒に親しみを感じ、疑いを捨て去った。冬十月、石勒は王弥を己吾での酒宴に誘った。王弥が行こうとすると、長史の張嵩が諫めたが、聞かなかった。宴席が盛り上がり、石勒は手ずから王弥を斬って兵を吸収し、漢主の劉聡に、王弥が反逆したと上表した。劉聡は大いに怒り、使者を送って石勒をとがめ、「高官の殺害は、君主を蔑ろにするのと同じだ」言った。しかし石勒には鎮東大将軍・督並・幽二州諸軍事・領并州刺史を加え、その心を慰めた。苟晞・王瓚はひそかに石勒への謀反を計画したので、石勒はこれを殺し、荀晞の弟の荀純も殺した〈石勒伝〉。
石勒は兵を率いて豫州の諸郡を侵略し、江水に臨んで引き還し、葛陂に屯守した〈石勒伝〉。
これより先、石勒は他人に売られ、母の王氏とはぐれた。劉琨が見つけて、従子の石虎とともに石勒に送り届け、文書を贈り、「将軍の用兵は神のようで、向かうところ敵なしである。天下を周回して戦っているが落ち着ける土地がなく、百戦百勝しても僅かな功績も認められないのは、適切な主君を得れば義兵となるが、逆賊に味方すれば賊軍となってしまうからである。勝敗の数は、呼吸に似ており、吹けば寒く、吐けば温かい。いま侍中・車騎大将軍・領護匈奴中郎将・襄城郡公を用意した、将軍に受けてほしい」と言った。石勒は返書し、「功績の形はさまざまで、腐儒の知ったことではない。きみは本朝(晋)のために働けばよく、私なりに困難を鎮圧して功績とする」と言った。劉琨に名馬・珍宝を贈って、その使者に礼を厚くし、丁重に絶交した〈石勒伝〉。
石虎は年が十七で、限りなく残忍で、軍中で持てあました。石勒は母に、「この子は凶暴で無頼であり、兵に彼を殺させよう、声明が惜しいが、除くほうがよい」と言った。母は、「歩みの早い子牛は、牛車を壊してしまう〈この台詞は石虎伝の注一本に依る〉、様子を見てやれ」と言った。成長すると、弓馬をと得意とし、勇猛さは第一であった。石勒は彼を征虜将軍としたが、城邑を攻略するたび、ほぼ全員を殺した。しかし軍の統御は厳粛であり煩雑でなく、討伐を指示すれば、向かうところ敵がなく、石勒は重用するようになった〈後趙録 石虎伝、ただし「煩雑でなく」の部分は晋書 載記に見える〉。石勒が栄陽太守の李矩を攻めると、李矩が反撃をした〈李矩伝〉。
これより先、南陽王の司馬模は従事中郎の索綝を馮翊太守とした。索綝は、索靖の子である〈索綝伝〉。司馬模が死ぬと、索綝は安夷護軍である金城の麴允・頻陽令の梁粛ともに、安定に逃れた。ときに安定太守の賈疋は諸種の氐羌と任子を送って漢に帰属し、索綝らは陰密と遭遇し、擁して臨涇に還り、賈疋に晋室の復興を持ちかけ、賈疋は従った。ともに賈疋を平西将軍に推戴し、衆五万を率いて長安に向かった。雍州刺史の麴特・新平太守の竺恢はどちらも漢に降らず、賈疋が騎兵したと聞き、扶風太守の梁綜とともに兵十万を連れて合流した。梁綜は、梁粛の兄である。漢の河内王の劉粲は新豊におり、将の劉雅・趙染に新平を攻撃させ、勝てなかった〈前趙録 劉聡伝〉。索綝は新平を救い、大小百戦し〈索綝伝〉、劉雅らは敗退した。中山王の劉曜は賈疋と黄丘で戦い、劉曜の軍が大敗した。賈疋は漢の梁州刺史の彭蕩仲を襲い、これを殺した。麴特らは劉粲を新豊で撃破し、劉粲は平陽に還った。ここにおいて賈疋らの士気は振るい、関西の胡族・漢族はまとめて呼応した〈劉聡伝〉。
閻鼎は秦王業を奉戴して関中に入り長安に拠って四方に号令しようとした。河陰令の傅暢は、傅祗の子であるが、彼も書簡を送ってこれを勧め、閻鼎は実行に移した。荀藩・劉疇・周敳・李述らは、みな山東の人で、西に行きたくないので、途中で逃散した。閻鼎は兵を送って追ったが、追い付かず、李コウらを殺した。閻鼎は司馬業とともに宛から武関にゆき、盗賊に上洛で遭遇し、士卒は敗れて散り、残兵を集め、進んで藍田に至り、人を送って賈疋に告げ、賈疋は兵を送り出迎えた〈閻鼎伝〉。十二月、雍城に入り、梁綜に護衛させた〈前趙録 劉聡伝〉。
周顗は琅邪王の司馬睿のもとに逃げ、司馬整は周顗を軍諮祭酒とした〈周顗伝〉。前騎都尉である譙国の桓彝もまた乱を避けて江水を渡り、司馬睿が微弱なので、周顗に、「私は中原が戦乱なので、ここに批判したが、(司馬睿は)このように弱々しい、どうしたものか」と言った。王導に会い、ともに時論を語り、退いて、周顗に、「管夷吾に会った、心配ないぞ」と言った〈王導伝〉。
名士たちは新たに新亭の游宴に出席し、周顗は座中で歎じ、「風景は同じだが、目を上げれば江水と河水が異なる」と言った。互いに見合って流涕した。王導は悲しんで顔色を変え、「王室のため力を尽くし、神聖な国土を回復しよう、楚の囚人となり泣いている場合ではない」と言った。みな涙を収めて拝礼した〈王導伝〉。
陳頵は王導に書簡を送り、「中華が傾覆したのは、正しく才能を登用せず、虚名を重んじて実態を軽んじたからで、布帛を競い、贈り物を交わし、口の上手いものが先に出世し、口下手な人が遅れ、互いに影響を高めあい、衰退するに至りました。しかも荘子や老子の学徒が、朝廷を傾き惑わせ、声望をもてはやし、政務は俗化され、職務を怠って、法理が堕落しました。遠くを制圧したければ、近くから始めるべきです。政治を改革し、賞罰を明らかにし、卓茂(後漢初の人)を密県から抜擢し、朱邑(前漢の人)を桐郷から登用したように(官僚を適切に選抜し)、その後に大業を始めれば、中興は実現できましょう」と言った〈陳頵伝〉。王導は従うことができなかった〈未詳〉。
劉琨は人を集めるのは上手いが、維持するのが下手で、一日のうちに、数千人が集まるが、去る者も相次いだ〈劉琨伝〉。劉琨は子の劉遵を送って代公猗盧に援軍を求め〈未詳〉、さらに族人である高陽内史の劉希を送って兵を中山で合わせたところ〈劉琨伝〉、幽州の配下の代郡・上谷・広寧の民は多くが帰順し〈王沈伝 附王浚伝〉、兵は三万に至った〈未詳〉。王浚は怒り、燕相の胡矩に諸軍を督させ、遼西公の段疾陸眷とともに劉希を攻撃させ、これを殺し、三郡の士女を連れ去った〈王浚伝〉。疾陸眷は、務勿塵の子である。猗盧は子の六脩に兵を与えて劉琨を新興で守らせた〈未詳〉。
劉琨の牙門将の邢延は碧石を劉琨に献上し、劉琨はこれを六脩に与え、六脩は邢延に追加で求めたが、得られず、邢延の妻子を捕らえた。邢延は怒り、部下の兵で六脩を襲い、六脩は逃げ、邢延は新興をあげて漢に服属し、兵を要請して并州を攻めた〈未詳〉。
李臻が死ぬと、遼東附塞の鮮卑である素喜連・木丸津は李臻の報仇を理由とし、諸県を攻め落とし、士民を殺害して脅かし、しばしば郡兵を破り、連年にわたり侵略した。東夷校尉の封釈は討伐できず、和睦を求めたが、素喜連・木丸津は従わなかった。民は生業を失い、慕容廆に帰順する者がとても多く、慕容廆は食糧を与えて還し、残留を願う者は慰撫して受け入れた〈前燕録 慕容廆伝〉。
慕容廆の幼子の鷹揚将軍の慕容翰は慕容廆に、「先古より有為の君子は、天子を尊び民の望みに従って、大業を成すものです。いま素喜連・木丸津は龐本を理由にしていますが、実態は災難を願っています。封使君(封釈)はすでに龐本を殺して和睦を求めていますが、侵略をやめません。中原は崩壊して乱れ、州軍も振るわず、遼東は荒廃し、救済することがなく、単于はその罪を責めて討伐すべきではありませんか。上は遼東を復興し、下は二部(素喜連・木丸津)を併呑し、忠義を本朝に表し、私利をわが国にもたらすことが、覇王となる基礎です」と言った。慕容廆は笑い、「孺子はよく言った」と言った。軍を率いて東のかた素喜連・木丸津を攻撃し、慕容翰を前鋒とし、破って彼らを斬り、二部の兵を吸収した。彼らに掠奪された三千餘家を手に入れ、以前に慕容廆に帰順していた者を郡に配置し、遼東はおかげで存続できた〈前燕録 慕容廆伝〉。
封釈が病み、孫の封弈を慕容廆に託した。封釈が卒し、慕容廆は封弈を召してともに語り、語りあい、「奇士だ」と言った。小都督に任命した。封釈の子の冀州主簿である封悛・幽州参軍の封抽が父の死に駆けつけた。慕容廆は彼らと会い、「この家は良質の牛を天から授かったように(稀有の人材を輩出している)」と言った。道路が通ぜず、死体は故郷に帰れず、慕容廆にもとに留め、慕容廆は封抽を長史とし、封悛を参軍とした〈前燕録 封奕伝〉。
王浚は妻の舅である崔毖を東夷校尉とした〈王浚伝〉。崔毖は、崔琰の曾孫である。