■三国志旅行記>山口三国志城(後編) 2007年3月12日
前回「まゆつば三国志城」の続きです。   ■三国志城のシンボル 等身大の諸葛孔明像、という呼び物も軽くスルーする。 「ここだけ撮影可」とわざわざ書かれているものだから、いちおう写真に収めたけどね。(写真中:赤壁で祈る諸葛亮。目の前のペットボトルに注目。確かに大きい!)   お昼ごはんは、具だくさんの「孔明チャンメン」と、赤米がおいしい「関羽むすび」2個100円。他にも「夏侯惇うどん」とかね。辛口にすると名称が「赤壁」に変わる笑。唯一ネーミングセンスが光っていたのは「五斗米道チャーハン」かな。本当に五斗も出てきたら、食いきれないけど。※お米が約10リットル分。 これが、なかなか美味いんだよね。三国志とか小難しいこと抜きにして、自分の母親よりも家庭的な料理という感じ。 近くで電気工事をしているらしい、口の悪いおっちゃんが入ってきた。彼らは顔なじみらしい。確かにぼくも、この値段でこの味・量が味わえるなら、贔屓にするもん。 「何にしましょう」「じゃあ、ラーメンとおにぎり」「おれ、焼きそば」だって。え、名前に冠された曹操はどこいったの?典韋は空振り?呂布は無視?悲しいことこの上なし。   ■三国志城のオーナー登場 展示をゆっくり一周したら、入場券を売ってくれたおばあちゃんが「おかえりなさい」と。 せっかく遠くまで来たのだから(自宅から片道10時間)、ここで働いている人の話でも聞いていこうかな、と思った。そこで、話を振ってみる。すると、三国志城の正体が明らかに。 ここからは、ダイジェストで事実関係を書きます。 実際は、何時間もかけてゆっくり、お茶とかお菓子とか芋の天ぷらとかをご馳走になりながら聞いた話です。   まず、そのおばあちゃん(谷さん・80歳)がオーナー。 地域文化を愛する郷土史家みたいな人。この山口の田舎に18代前から土地を持っていて、享保期以来ずっと、管轄していた村落一体の絵図が残っている。寺院組織を母体にして、地域の秩序を保っていたらしい。要塞として機能しそうな、砦の礎石みたいなものが、等高線状に残ってる。※その石は、県道に踏み潰されたりしてるが。 明治の廃仏毀釈で、一円に散在していた御坊が破壊された。さらに長州閥が、この山間で組織された人々の繋がりが政府に歯向かうことを危ぶんで、弾圧を加えた。 谷さんは消え行く地域の歴史を留めようと、郷土の伝承を書き残したり、自分で調べたものを出版したりして、時の流れに立ち向かった。   谷さんは「この田舎は寂れるばかり。何とか若い人を呼べないか。一人でも来てもらえないか」と思案したらしい。 そこで思いついたのが、もともと好きだった歴史を題材にすること。でも、長州毛利の領地として資料館を作ったところで、若い人は来ないだろう。っていうか、藩主がいた萩に近世にまつわる立派な博物館があるから、日本の歴史じゃ競合に余裕で負ける。わざわざ、ド田舎に来る理由にはならない。 そこで、長州よりも実は好きだった三国志に目をつけた。   そもそも日本と三国志の関連は皆無。 唯一、魏書に出てくる日本に関する記述(邪馬台国の卑弥呼ね)ですら、その在り処が分かっていない。そんなだから、三国志の遺跡が日本にあるわけもなくて。三国志にまつわる施設も、あるわけもなくて。 だったら、ゲームからでもいいから三国志に興味を持った若い人が集まる拠点にしたらどうか、と8年前に前代未聞のテーマパークを開設。   個人が三国志にまつわる資料館を作ってもいいのか。本場の成都博物館に自ら赴いて、彼らの了解を取り付ける。学芸員の協力まで引き出す。これから一つになっていく(と谷さんは考える)アジアにおいて、日中友好の拠点にもなるはず、という期待も込めて。 展示室で、丁寧に丁寧に飾られていた中国の学者との交流の軌跡の裏には、こういう努力があったのです。 ネイミングについては、同一のものが他に存在しないかリサーチ。「三国城」は中国にたくさんあるけど、「三国志城」は他になかった。 まあ、微妙に語呂が悪いし、歴史好きとしてはいかにもコナレてない名前だけど、それゆえにこの不思議な施設が世に生れ落ちたわけで。   ■三国志ファンの全国組織 今では1000人以上の会員(入会無料)を擁する「三顧会」という組織がある。来場者で気が向いた人が入れる。 年に2回くらい集まって、三国志にちなんだお遊びをするらしい。いきなり口頭で「サンコ会」と言われて、漢字変換できました。会員は食事が10%引き笑   コスプレ大会が好きらしく、その写真を見せてもらいました。若い女性が多くて、真・三国無双のキャラに扮してるよ。ゲームのオリジナルキャラ「星彩」に化けて、サスマタを持ってにっこりしてるよ。もはや三国志でも何でもないよ! 筋肉隆々の武将には、さすがに現代人は化けることが難しいので、衣服の内側に綿を入れるんだってさ。 本場で仕入れた衣服を着こなす人もいれば、オリジナルで毎回違う衣装を作ってくる人もいるんだって。好きな気持ちは負けないつもりだけど、コスプレには興味がない・・・ 写真を館内に飾って、人気投票をするんだって。   会員が置いていった「三国志大戦(遠隔地の人とネットワークで対戦できるアーケードゲーム)」のカードもたくさんあって。孫乾とか黄祖とか、雑魚キャラはダブるので、遊びに来た若者が置いていくのだそうです。すっかり立派になった、カードアルバムも見せてもらいました。   他にも、興味深そうな企画もやっていた。 中国に遊びに行くためのネイティブによる中国語講座とか、資料を基にした道具の復元とか。たくさん並んでいた展示物は、会員が汗を流しながら作り蓄えたものらしい。   ■はじめて役立った卒業論文 少しでも、日本の三国志ファンの一人として、何かお役に立てないか。すっかり谷さんに賛同したぼくは、とりあえず、おみやげを多めに買う。 ゲームから三国志に興味を持ち、他に何もない(本当に何もない)田舎に遊びに来た若者なんだから、ターゲットのド真ん中だもんね。   しかし、それだけじゃ終わらなかった。 自分が卒業論文のために仕入れた知識を、谷さんと共有。その結果、「いい話が聞けた、本当にありがとう」と言われました。二回言われました。まるっきり自己満足+教授泣かせの意味不明な論文でしたが、初めて人に感謝されました。   展示されていた、杉田玄白所蔵の「三国志かも?」という文書の断片。それについて話をしてました。谷さんに聞いてみると、案の定、その由来を理解してない。 あれはどうやら、古文書ブローカーが「いいものが発見されましたぜ」と電話を入れてきて、数行で数千円という高額で買わせていたらしい。定期的に電話が入るらしい。 谷さんは、三国志が漢字書き下し文になってるので、きっと杉田が翻訳したに違いない、貴重な史料に違いない、と信じて買い集めているらしい。しかし、全体像には程遠く。一二〇回にも及ぶ講談の種本形式の書物を、数行単位で買っていたのでは、あまりに効率が悪い。五百万円でも足りないんじゃないか。   「あれは杉田が書いたものではありません。湖南ノ文山という僧侶が翻訳して、元禄時代に出版したものです。書名は『通俗三国志』。近世には爆発的に普及した本で、吉川英治が戦時中に『三国志』を著すまでは、日本人のスタンダードでした」 「『通俗三国志』の原文は現代の図書館でも読めます。大正以降、二回活字化して全文が出版されています。こうやって検索すれば必ず出ます」云々。 谷さんの使ってるパソコンの前に呼ばれて、関連するページを出しました。谷さんは、プリントアウトしてました。   「翻訳した僧侶が、日本人向けに三国志の読み方を解説・批評したものが、前文として付いています。諸葛亮がどうやって東南の風を起こしたのかとか、司馬懿は優れた軍師だったのかどうかなど、読者の問いに答えています。読んでみて下さい。きっと面白いと思います」 と伝えたら、興味津々にメモを取られました。 日本と『三国演義』の出会いは、まさにその江戸期の翻訳事業が原点なんだよね。この三国志城は、言わばその翻訳事業と志を同じくするものだもん。すなわち、本邦初のスタイルで行う三国志普及活動。 『通俗三国志』を、きっと読んで欲しい。   あとは、フォロウも忘れずに。 「展示されている文書は、杉田玄白が所蔵していたという点で価値があるものです。蘭学者が持っていた三国志という意味で、その素晴らしさは依然として保たれていると思います」と付け加えました。大金をつぎ込んだ自慢の展示品だし。 ただ谷さんは「次に電話がかかって来たら、今聞いたことを言ってみよう」とおっしゃってました笑   ■諸葛亮のすごいところ 谷さんが三国志、とくに諸葛亮を愛する理由は「人の気持ちが分かるから」だそうです。「頭がいいから」だそうです。 そりゃ、神算鬼謀の軍師だから、人の思惑は見抜くよね。 「赤壁で周瑜と駆け引きをしているときもそう。周瑜が自分を高く評価していると同時に、自国の脅威として殺そうとしているのも見抜いた。話しながら、こいつ害意があるな、と感じ取った。だから逃げた。すごいね」と。   諸葛亮には到底及ばないけどさ、谷さんの孔明像が、どの小説や逸話から形成されているのか、慎重に探りながら話しました。相手が考えていることを読もうと努めました。 多くの人に愛されている諸葛亮だからこそ、人によって支持する側面が違う。認めるエピソードも、記憶してる業績も違う。歴史書を振りかざして、1800年の歴史が作り上げた重層的でファンタジックな孔明像を一刀両断するのでは、趣がなさすぎる。 七星壇のエピソードを切ったら、等身大孔明像は立つ瀬がない。   それから、谷さんが書いている詩についても何篇か朗読して紹介してもらい、コピーを頂いてきました。地元の昔の風習を歌ったもの、成都に似たこの盆地での四季を歌ったもの、日常生活の掃除の合間に思い立ったもの、などなど。 「どんな仕事も、詩にならないかと思いながらやってると、一人でも楽しめるものだ」ということです。真似たいね。 ファイルに丁寧に数部ずつ入っていて、共感を得られたものをプレゼントしているようです。   モップに関する詩を見せてもらった後に、これは広い展示室を一人で掃除しているときに書いたんだ、と教わりました。 半信半疑で見始めた展示室だけど、80歳の地域と三国志を愛する女性が1人で管理してるとなると、ほんまに頭が下がります。   ■三顧会に入る 最後に「イベントには参加できないかと思いますが、三顧会に名前だけ連ねさせて下さい」とお願いし、会員カードを作ってもらいました。年に数回、郵送でイベント案内を下さるそうです。 せっかくの出会いを形として残したい、でも切手代や手間賃くらいは負担したい。しかし、善意を装って寄付金なんか出しても、無粋だし断られるし気まずかろうし。そこで、いかにも原価率の低そうなグッズを追加で購入しました。 会員カードを作るのに使っていた、ラミネート加工の機械。それで作ったかと思われる武将画像のシート。成都の学芸員が、三国志城のためだけに書いてくれた肖像の縮小版です。オリジナルです。 数ある中から周瑜を選択。三国演義や吉川英治でやり込められていた、孔明の脇役としての周瑜。不器用で猜疑心が強くて小心そうな周瑜。(写真右:一人だけなぜか後ろ向き) 歴史書にあるような、孫策を助けて江南を平定し、赤壁で実質的な勝利を奪取、益州攻略の野望を持って長江を遡った英雄として描かれていない。谷さんの思い描く周瑜像を、見事に映しこんでいると思ったので、これを選択。 いい記念になりました。   ■駅まで送ってもらった 日本に出来つつある三国志ファンのための施設や団体と連携するために、情報収集や連絡を取り合っているらしい。 Tシャツで有名な赤○馬や、NHK人形劇で三国志を作った川本喜八郎記念館、もうすぐオープンする吉川英治記念館。谷さんは、いわば三国志ファンの頂点の一人に位置しそうな偉人のようです。   熱心に喋っていたら、印刷屋さんのおばさんが校正に訪れた。 「岩田駅に帰るなら、乗せていくわよ。会社もそっちだから。10分ほど待って」 どうやら、三国志城にまつわる仕事を請けている業者の人らしい。ここで過剰に謙遜して辞退するという選択肢もあったけど、ここはお言葉に甘えました。 印刷屋さんは、三国志城の客にサービスをして、城のリピーターになってもらうために協力をする。これは三国志城のメリットになる。関係も良好になり、印刷屋さんのメリットにもなる。 こういう構図が見えたものだから、印刷屋さんへの感謝の気持ちをしっかり持って、車に乗っけてもらうのがベストだと思いました。   印刷屋さんと、車の中で少し話した。 谷さんは実は、建材の販売・建築施工などをやっている地元の会社のオーナーでもあることが判明。地域の活性化を願う気持ちは、歴史家であると同時に経営者としての目線でもあったのだな、と納得しました。 駅まで送ってもらった後に「大阪からは遠いと思いますけど、また来てくださいね」と言われました。目先の契約のことだけじゃなく、どの人も地域を愛しているんだなあ、と気づきました。自分の浅ましい推測を反省。。   ■おわりに 本当に長い日記になってしまいました。 結論です。三国志城は歴史資料館としては期待に応えるものではない。谷さん自ら言うように「中国に行けば、日本じゃ見れないものが、たくさん見れる。面白い」ということです。 でも、三国志を通じた日本での交流の拠点としては、とても質の高い場所だなあ、また行きたいなあ、と思いました。   余談ですが、広島に呉(くれ)という市があります。 電車の行き先ボードを見て、中国(地方)の呉(くれ)なのに、中国(チャイナ)の呉(孫権の王朝)かと、一瞬だけ胸をときめかせてしまった自分がいました。 次はやっぱり、また中国に行きたいなあ。   ※関係ないけど、この日記を原稿用紙に換算したら約30枚を越えました。夏休みの読書感想文にしたら6年分じゃん笑 最後までお付き合い下さった方、本当にありがとうございました。 ※世界史でも出てくる「九品官人法」を作った政治家、陳羣。魏の文帝(曹丕)に仕えました。彼の字は長文だそうで。今夜の日記にぴったりです。
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