■『通俗三国志』考(04/10)>第一章の後編
前回に引き続き、第一章『通俗三国志』とその成立について   ■出版した2人目は正体不明 もう一人の刊行者である栗山伊右衛門は、西川嘉長の提案を受けて、実際に出版を行った書肆だと推測できる。 ところが、『近世書林板元総覧』などを参照しても、元禄期に活躍した書肆であることと、文山兄弟の作品の他には、作者不詳『禅林諸祖弔霊語藪』という仏教関係の出版を行ったことの二点しか解らない。   ■当時の本屋さん事情 ここで、今田洋三氏や長友千代治氏の論考によって、『通俗三国志』が発行された時期の出版産業の動向について見ておく。 今田洋三『江戸の本屋さん 近世文化史の側面』日本放送出版協会1977年、長友千代治『江戸時代の図書流通』思文閣出版2002年   近世初頭は、朝鮮から伝わった古活字本が主流であった。これにはコストがかかって、商業目的での出版にはならなかった。 しかし寛永期から、板木によって刷られた整版本の点数が増え、書物が商品として広く確立する。こうした商業出版の黎明期を先導したのが、京都だった。   コンテンツとしては、古典文学や歴史書、仏教・儒教書から発行が始まり、ひと通りの出版が終わると、修身・教訓・実用書に軸足が移り、近世中期以降は黄表紙などの大衆娯楽書が主流となる。 その過程で江戸の書肆が台頭し、京・大阪の出版業は廃っていった。   ■本屋について、面白い話をします この出版文化史に関して、とても興味深い事例を挙げたい。 天明8年(1788年)関西の書肆、都賀大陸は『通俗三国志』を焼き直した『画本三国志』を出版した。「婦女童幼」にも読みやすいように挿絵を増やし、読み手の拡大を目論んだのだが、残念ながら全巻完結を見ずに頓挫した。 横山邦治『読本の研究』風間書房1974年 この例から、関西から江戸へという出版界の潮流を、三国志というジャンルからも確認できる。ついでながら、『通俗三国志』が書肆の切り札として使われるほどの人気作品であったことにも気づける。 あんまり売れなくなると、ベスト版を出したがるアーティストと同じだ。大人の理屈は、いつの時代も共通なんだ。   ■出版史を踏まえてのまとめ 以上より、京都にあって、中国古典の翻訳や仏教書を発行した栗山伊右衛門は、出版の歴史において、ごく初期の書肆であることが確認できた。   また、出版文化の先駆けとして『通俗三国志』の執筆に取り組んだ文山の、読み手に中国文化にまつわる教養と娯楽を提供しようとする自負を「通俗三国志或問」から読み取ってもよいだろう。 文山が後に手がけた作品に、「通俗三国志或問」に相当する論評が加えられていないのも、通俗物の嚆矢『通俗三国志』にかけた文山の熱意の傍証と思われる。
  ■元ネタを検討する視角 大庭脩氏は、「書籍の伝来による文化受容」の中で、中国文化の書籍を通じた日本への伝来について、以下の4つの研究視角を設定した。 大庭脩『中国文化受容の研究』同朋舎出版1985年   1点目は、伝来の経路。朝鮮半島を経由したのか、中国大陸から直接伝来したのか。そしてそのルートは、いつどのように成立したのか。 2点目が、伝来の方法。伝えたのは日本人か否か、その目的は何であったか。単なる貿易品なのか、学術的なつながりや意図を伴って伝来したのか。 3点目は、伝来した書籍が何であるか。ある時点にどんな種類の書物が同時に伝来したか、その書物は初めて伝わったのか、すでに伝わっていたものなのか。 4点目は、伝来した書籍の書誌学的な位置付けである。どこの写本なのか、どんな注がついているか、版本や系統は何なのか。   この4点に留意するかたちで、『通俗三国志』の底本について考察を加えたい。ただし行論の都合上、4つのポイントを解き明かす順序は前後する。 と言いながら、ちゃんとこの前置きを受けて止めてないんよね。次の段からしばらく、分かったことを分かった範囲で、ダラダラと書いてるだけなんだ。笑うべし、笑うべしw   ■比較検討する元ネタはコレ 底本が『李卓吾先生批評三国志』であることは、既に述べた。 『李卓吾先生批評三国志』とは、李卓吾なる人物が「読三国志答問」「三国志宗寮姓氏」(前述)に加え、各回の末尾に「総評」と題した批評を附したとされる版である。   中国を含めて現在確認できるのは、呉観明本など四種で、『三国志演義』の二十四巻で構成される系統の内では、夏振宇本に最も近いとされる。 中川諭『『三国志演義』版本の研究』汲古書院1998年 ただし陸聨星氏によって、『李卓吾先生批評三国志』にある批評が李卓吾の見解と合わないことが指摘され、批評は李卓吾に「仮託」されたものだと結論付けられた 。 陸聨星「李贄批評《三国演義》弁偽」(「光明日報」1963年4月7日、後に『文学遺産』458に所収)   李卓吾系の本の中で、どれが『通俗三国志』の直接的な底本となったかは先行研究が一致しないが、この論文では、徳田武氏の『対訳 中国歴史小説選集 李卓吾先生批評三国志』に全頁の写真が収録されている、蓬左文庫蔵の呉観明本を本稿では比較資料とする。 徳田武『対訳 中国歴史小説選集 李卓吾先生批評三国志』ゆまに書房1984   ■元ネタが手元に届くまで 『李卓吾先生批評三国志』が文山の手元に届いた経路であるが、これは田代和生氏の論考に拠りたい。 田代和生「日朝貿易における白糸・絹織物の輸入と京都販売」『史学雑誌』八七編一号、1978年初出)   田代氏は日朝貿易において輸入された白糸・絹織物が、対馬藩京都藩邸に集荷された上で、朝鮮問屋・深江屋という二つの販売機構を経て売却されたことを明らかにした。 長崎県下県郡厳原町天道茂、醴泉院所蔵『旧書抜書之分』によれば、元禄前期以前には二名の京都代官を対馬藩が置いていたが、彼らの多くは就任前後に釜山の倭館で貿易を担当する代官に就いていたそうである。   物的・人的に、対馬と京都という『通俗三国志』にまつわる地が繋がっていたというのは興味深い指摘である。書籍もまた商品として流れてきた可能性が充分あるだろう。   ■引用に使われた本 もう1冊、文山が参考にしたと思われる書物がある。 「通俗三国志或問」の中で、関羽の霊験について論証する項目があるが、そこに「近来その廟の記を見るにいわく」と前置いた上で、700字ほどの文章が引用されている。 全文で4500字ほどしかない問答文の中に長々と引かれているのだがら、文山がこの内容及び引用元を軽視していなかったと考えるのは自然であろう。   この文章の原典を、長尾直茂氏は特定された。 長尾直茂前掲論文、「『通俗三国志』述作に関する二、三の問題」 柳成龍の筆で、『西厓先生文集』所収の、「記関帝廟」という文章である。 柳成龍(1542~1697)は李氏朝鮮の歴史学者で、王朝の官の要職を歴任、左議政にまで上った人物である。著作では、秀吉の朝鮮出兵の前後の歴史を記した『懲毖録』(元禄元年までに日本に伝来)が有名である。 柳 成竜〔著〕朴 鐘鳴訳注 平凡社1979.7   柳成龍は、朝鮮の大儒学者、李退溪の弟子である。朝鮮の儒学もしくは書籍と日本との関連性に言及した論文としては、阿部吉継氏の著作がある。 阿部吉雄『日本朱子学と朝鮮』東京大学出版会1965年 阿部氏は、藤原惺窩が最も影響を受けた「延平答問」(李延平と朱子の問答)は、李退溪が後語を附した朝鮮本だと解明した。「延平答問」は惺窩から林羅山に継承され、羅山の号も「延平答問」を出典として付けられるほど彼らに影響を与えたと著し、朱子学関係の書物は「十中六七は朝鮮系統のもの」と述べた。 『李卓吾先生批評三国志』も『西厓先生文集』も朝鮮経由で文山の元に届いたと私は考えている。
  ■ちょっと休憩 これで第一章が終わりです。 参考文献ばかり並べて、何をやっているんだ?と苛立っていらっしゃるかと思います。著者のぼくですら、イライラしてるんですから。ネット用にタグを打ち込む作業が、けっこうしんどくて。   ここまでが、翻訳者が日本人向けに付けた解説文を読むための準備です。 いきなり解説文を読み始めて、どーこー言い始めても、意味が分かりません。 だから『通俗三国志』がどんな本なのか、翻訳者はどんな人なのか、それを最初に確認しようじゃないか、と。 その過程を見て頂いたことになります。 解説文について考えるだけじゃ、とても卒論の規定文字数が埋まらない。本論に入る前に原稿用紙を埋めておこう、と。そんな感じです。 それにしても、結構いろんな本を読んで、成立背景を探ってるなあ。よくがんばった(自分褒め)   次回より、第二章が始まります。本論です。どうなるやら。
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