第二章 湖南ノ文山と「通俗三国志或問」 …この章は最終回です。
■仏教との関係(5/6)
柏原祐泉氏は近世仏教の傾向として
(1)安定した教団体制で、各宗派に精緻で明確な教学が発達した、
(2)仏教と諸思想の交流が盛んに行われた、
(3)教育などで庶民と深い接点を持った、という3点を描き出した。
柏原祐泉「近世の廃仏論」・「護法思想と庶民教化」ともに『近世政道論 日本思想体系38』1976所収
17世紀には儒者の間から藤原惺窩『仮名性理』、林羅山『本朝神社考』、山崎闇斎『闢異』などの廃仏論が提出されたため、仏教教団は一つ一つに反駁したが「究極的には妥協し、論旨を認めたうえで自己主張する」に留まったとされる。
文山が朱子学及び朱子学を改変した思想の見地から『三国志演義』を読解しなかったのは、柏原氏の所論に見える儒者と仏僧との対抗関係から納得できる。朱子学に絡む、モチベーションが低いんだ。
「通俗三国志或問」では仏教論が展開されていないので、文山と同時代の学問僧の思想と比較するのが難しいが、柏原氏が3つ目に指摘した仏教者の庶民強化に就いては文山らの活動にも符合する。
『易経』等の五山が蓄積した知識と語学を活用して、教養書として『三国志演義』を近世日本の人々に翻訳・紹介したのが文山の業績であるからだ。
「通俗三国志或問」に仏教に関する記述が皆無なわけではない。
関羽の死後について「玉泉山に禅を談じて普静長老を師とし」という解説がされている。だが、これは『三国志演義』のエピソードをなぞっただけであり、仏教論とは言えない。見落としじゃないもん笑
■国際意識(6/6)
最後に湖南ノ文山の国際意識を検討しておく。
前章で見たように文山は、対馬の以酊庵で輪番を務めた僧もしくはそれに準ずる人物であるから、海外事情に精通していたと推測できる。
文山は、底本の「読三国志答問」では「明主、屡加褒封、為王為帝、且為天尊」とのみ書かれていた関羽の神格化の経過を詳述した。
唐の儀鳳年中に、六祖神秀と雲霧の間に遇うて道場を鎮守し、宋の崇寧年中に、多く聖を顕して崇寧真君に封ぜられ、解州塩地に蚩尤神の邪をなせるを破りて、累に義勇武安王に封ぜらる。それより帝に封ぜられ天尊と称せられ、国を護し民を祐けて、蛮夷の国までも仰ぎ尊ばずということはなし。
これは、少なくとも彼の皇帝への昇格(明代1614年の出来事)までカバーしている。
林田慎之介『人間三国志3巻 豪遊の咆哮』集英社 1989年によれば、明朝は異民族の侵攻を受けてその撃退に庶民の協力を得るため、関羽に「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」の称号を贈り、神明として勅封した。
清朝も支配に当たって漢民族の支持を得るため、関羽を「忠義神武霊佑仁勇威顕関聖大帝」に封じた。
文山は「帝に封ぜられ天尊と称せられ」と書いているのみであるから、清朝による追号まで執筆の際に抑えていたかは断定できない。
■関羽信仰について紹介
また海外に於ける関帝信仰の実情について、
異域の人に遇て関王のことを問ひしに、安南、琉球、女直、朝鮮、呂宋、暹羅の諸国も、悉く廟宇を建てて祭りをなし、およそ事祈らずということなく、関翁々と号して、乗るところの舟みな像を設く。
と地の文で著した。
文山は引用箇所と地の文を区別する叙述形式をとっているので、「異域の人」と遭ったのは筆者本人と考えて良いだろう。
次に、既述したように朝鮮より伝来した柳成龍『西厓集』から「記関帝廟」を長文引用している。主要な箇所のみ抜粋する。
万暦壬辰、我が国倭賊の為に侵され、国幾ど亡ぶ。天朝兵を発して之を救う。六七載を連ねて未だ已まず。(中略)遊撃将軍陳寅というもの有り、力戦して賊の丸に中る。載せて漢都に還りて病を調えしむ。廼ち寓する所の崇礼門外の山麓に於いて、廟堂一座を創起し、中に神像を設けて以て関王を封ず。(中略)顔赤くして重棗の如く、鳳目髯垂れて腹を過ぐ。左右二人を塑す。大剣を持って侍立す、之を関平、周倉と謂う。儼然として生くるが如し。是より諸将出入する毎に、参拝して皆曰く、東国の為に神助を求めて賊の却くことを。(中略)未だ幾ならず、倭の酋関白平秀吉死す。倭の諸屯悉く皆撤て去る。(中略)関王、英雄剛大の気を以て、その正を扶け賊を討つの志、万古を貫いて一日の如し。
秀吉の侵攻を受けた李氏朝鮮に、明朝から援軍が送られた。その援軍に参加していた陳寅は負傷して前線を退くが、関帝廟を築いて勝利を願った。関羽は神意を表して秀吉を死なせ、日本の軍勢を撤退させた。
これは文禄慶長の役を朝鮮側から記した史料で、関羽の「神を現わす」証拠として「通俗三国志或問」で使用された。文山は関羽信仰について「日本の軍神と称するも、将軍塚に埋し像も皆関羽なり」とも言及している。
■周辺国との親近感
村井章介氏は中世日本の国際意識として、神秘主義に基づく独善的な自国至上観(朝鮮半島の蔑視が顕著)と、リアルに情勢を認識する能力の欠如を指摘した。
また『神皇正統記』に表れた神国思想(仏教の三国史観から生まれた辺土小国観を逆転させる論理を持つ)の前提として、日本を密教の最高神たる大日如来の本国とする考え方(幸若舞曲『日本記』より)を挙げた。
村井章介「高麗・三別抄の叛乱と蒙古襲来前夜の日本」『歴史評論』三八四号、一九八二年。同『アジアのなかの中世日本』「中世日本の国際意識・序説」校倉書房一九八八年
湖南ノ文山の国際意識は、村井氏が提示したと中世日本の対外観と比較対照することで、その特徴を明確に描き出すことが出来るだろう。
彼は外交相手である朝鮮人はもちろん「異域」の人々とまで交渉を持ち、情勢をリアルに認識していた。ゆえに過熱した自国至上観を抱くことはなく、日本人を「倭賊」と呼んで敵対視する朝鮮の「記関帝廟」であっても、関帝信仰を解説する際に有効な資料であるならば採用した。
日本の将軍塚のルーツを中国の関羽に求めたのは、「大日の本国」であることを自国優越の根拠とした中世の考え方とは一線を画する。
湖南ノ文山が、日本を含むアジア諸国の信仰を「関羽」というキーワードで結んだことから、周辺の国を中国文化圏として親近感を持って眺めていたことも想像に難くない。
■外交担当者の言葉
文山及び外交僧たちが、相互の独立性を認めて周辺諸国と友好的に接していたとも言えそうである。
この仮説の根拠は、以下の3つの史料から窺い知れる。
藤原惺窩が「到書安南国(※1)」や「舟中規約(※2)」の中で諸外国とは原則的に相互の独立性を認めながら交流すべきだと説き、その立場が彼の曾孫弟子にして朝鮮外交に当たった雨森芳洲の『交隣提醒(※3)』に継承されていた。
(※1)「二国不失其信、則縦有小人、何至生不好之事乎。然亦、不可以不誡。若生事、則二国各有刑法乎哉」
(二国其の信を失わざれば、即ち縦ひ小人有りといへども、何ぞ好からざるの事を生ずるに至らんや。然れども亦以て誡めざるべからず。若し事を生ずれば、即ち二国各刑法あらんかな)
これは、藤原惺窩が、安南との交易を希望する意図で作成した史料。『藤原惺窩集』上 思文閣出版一九七八年復刊本、125ページ。
(※2)一、異域之於我国、風俗言語雖異、其天賦之理、未嘗不同。忘其同、怪其異、莫少欺詐慢罵。彼且雖不知之、我豈不知之哉。信及豚魚、機見海鴎。惟天不容偽。欽不可辱我国俗。若見他仁人君子、則如父師敬之、以問其国之禁諱、而従其国之風教。
(一、我が国に於いて、風俗言語異なるといへども、其の天賦の理、未だ嘗て同じからざるはなし。其の同を忘れ、其の異を怪しみ、少しも欺詐慢罵することなかれ。彼且つ之を知らざるといへども、我豈に之を知らざらんや。信は豚魚に及び、機は海鴎に見る。惟だ天、偽を容れざるのみ。欽んで我が国俗を辱めるべからず。若し他に仁人君子を見れば、則ち父師の如く之を敬い、以て其の国の禁諱を問ひ、而して其の国の風教に従へ)
これは、藤原惺窩が弟子の角倉素庵のために、船中で乗組員の規約として著した史料。『藤原惺窩集』上 思文閣出版1978年復刊本、126ページ。
(※3)「朝鮮交接之儀ハ第一人情事情を知リ候事肝要ニ而候」と冒頭に書かれ、両国の現状・国民性を知った上で外交に当たるべきだという、雨森芳洲の主張が説かれている。
「誠信と申候ハ実意と申事ニて、互ニ不欺不争、真実を以交り候を誠信とは申候」という一節は、藤原惺窩の「信」に通ずる。
雨森芳洲編著『芳洲外交関係資料・書翰集』(関西大学東西学術研究所資料集刊十一-三、雨森芳洲全書三)関西大学出版部1982年所収
文山と同じように外交の場で彼我の情報を得ていた人物が、相互を尊重して「天賦の理(舟中規約に見える語)」を周辺国と共有しているという意識を持っていた。文山も類似した考え方をしたと推測するのは自然であり、そのスタンスを持つがゆえに彼は多量に海外情報を集められたのだろう。
湖南ノ文山は「通俗三国志或問」の中で、中国全土を統一した劉邦と益州のみしか領せなかった劉備の優劣を問うている。
彼の答えは、劉備の漢王朝への献身的努力と「漢の統を継玉ふ」ことを評価し、劉備は劉邦に勝るとも劣らぬという内容だった。
「是所謂、地を易へれば皆然る者なり、何ぞ優劣を論ずることをせん」とあるから、国の位置や広さで優劣を決めるのではなく、劉邦も劉備も傑物だという判断だ。
相互の風土を尊重する惺窩と芳洲に共通する側面があると考える。