いつか書きたい三国志

2021年秋に考えたこと

中国学「を」vs「で」発言する

よそおいを変えて、よりシンプルなレイアウトで書こうという第一弾。

学問の名前はいろいろある

ぼくがやっている三国志の勉強は、大学の研究室によって、「東洋史」「東洋哲学」「東洋思想」「中国文学」など、さまざまな名前がついています。「中国学」とまとめることがあります。

学問の名前に優劣はなく、大学ごとのポリシー、過去の経緯によって名前が決まったりします。教えている先生方ですら、学問名のあいだを横断して学ぶこともあります(学部→修士→博士で学問の名前が異なる)。就職にあたり、ちがう学問名のポストに就くことも。

ともあれ今日は、ふるい中国の文章を読んで、あれやこれやを論じる、そういう学問の話をしたいのです。三国志の学問も、これに含まれます。
ここでは便宜上、「中国学」としておきましょう。

三国志を勉強したい、といっても、いろいろあると動画で話したこともありました。

中国学「を」vs「で」読む

中国学「を」読むというのは、ふるい本を読んで、中身を解き明かしたり、書かれている内容が同じ時代や前後の時代と比べて、どんな特徴があるんだろう?という研究です。
それが普通じゃないの?
と思いきや、もうひとつ代表的な手法があります。

中国学「で」読むというやつ。中国学そのものが目的、対象ではなくて、手段なんですね。じゃあ、中国学「で」読む場合に、目的、対象がどこに向かうかというと、現代社会です。
学問とは呼べないかも知れませんが、分かりやすい例え話を出しましょう。「孫子に学ぶ、現代ビジネス」というのは、孫子という古い本(兵法書)が材料にされていて、現代ビジネスの教訓を引き出すことが目的なんですね。

中国学「で」読むのは、苦し紛れ

学問の態度はいろいろあるし、優劣を論じることじたいが無意味でしょう。でも、ここはぼくのウェブサイトなので、ぼくの考えを表明します。
ぼくは、中国学「を」学びたい。#ここが結論

世間一般の風潮として、現代社会に成果を還元せよ、役に立つことをせよ、という圧力があります。1円にもならないのに、浮世離れしたことを、してるんじゃないよ!というお叱りです。研究費を出したくないよ!という言い分も分かります。ごもっとも。
ぼくは経理マンですからね、カネで判定するのは得意です。

そんな経理マンのぼくは、中国学「で」現代社会を読むことに、あまり意味を感じません。
だって、現代ビジネスを論じるならば、現代アメリカのビジネスの成功者に学んだほうが、1000倍速いんですよ。中国学を経由する必要はないんですね。中国学を学んできた大学院生や教員の話を、ビジネスのため、わざわざ聞く必要がないんですよね。

中国学の先生が、ビジネスの知見やセンスがないと言いたいのではありません(ない人も多そうですが)。しかし、あらゆる情報に、最短・最小コストで到達できる時代において、「実践し成功している第一人者」と「もしかしたら有効な意見があるかも知れない人」のどちらの話を聞きたいのか?という選択です。
答えは、おのずと明白ですね。

おなじことは、たとえば現代思想や哲学についても言えます。現代思想や哲学を学びたければ、現代思想や哲学の専門家の話を聞きたいんです。中国学「で」現代思想や哲学を云々するというのは、不必要な遠回りなんです。

現代思想や哲学の研究者が壊滅し、中国学の分野においてのみ、現代思想や哲学をすることが可能であるならば、中国学を外すことはできませんよ。
でも、そんなこと、ないと思うんですよね。


これは私見ですけど、ビジネス書の著者がネタを見つけるために、苦し紛れに孫子を利用したりとか、中国学の研究者が、苦し紛れに現代思想や哲学を論じるというのは、本流から外れていると思っています。
一部の天才を除き、

天才という人種は、本当にいるんです。実際に会ってみると、恐れ入るばかりです。

複数の学問分野を同時に修めることがむずかしい。というか、通常ひとりの人間がやりきれないから、凡人(といったら怒られるならば、秀才型)の学者・生徒のために、学問を分類してきた、という側面もあるのではないでしょうか。
中国学「で」他のことを論じようとする論者は、かれらが天才でない限り、かれらの論に耳を傾ける意味は、あまり感じられません。

オリジナルな論を立てようとし、涙ぐましい生存戦略として、やむを得ないかも知れませんが…、リソースが分散してしまうと、どちらも「まがいもの」になるリスクが高いと思います。

ぼくは中国学「を」学びたい

ぼくはいま、早稲田の大学院の授業に出席しています。ぼくがやりたい、ここで学びたいのは、中国学「を」対象とした学問です。
中国学の二次利用や、他分野との結びつけは、しょうじき、一人でできるんです。
いかなる教授であっても、いち学問分野の深遠さ(「を」の学問)を伝えることはできましょうが、学際的なアイディアや柔軟な発想(「で」の学問)は、生徒に伝えることが難しいのでは? と思ったりします。先天的なセンスに依存するので。

一人でできることを、大学院で学ぶ必要はないですよね。中国学「を」対象とし、対象にどこまで肉迫できるか、というのが正統の学問的態度だと思っています。211015

このウェブサイトの位置づけ

まだ答えは出ていないけれど

上に書いたことと、微妙に捻れているので、ワクを分けたのですが、
ぼくは何が強みで、何がオリジナリティで、自分と学問の距離感をどのように捉えるのか、というのは、つねに悩んでいるテーマです。

ぼくの場合、会社員歴15年という経歴があります。
もっぱら会社員として、このホームページを作ってきました。大学院と接点がなく、中国学「を」修める方法がなかったので、中国学「で」発信するためのツールとして使ってきました。
日々、古い本(史料)の読解をがんばっていましたが、サラリーマンの余技なんです。正統な「を」学問ではない、という意味では……。

学者の人格として、「で」の学問をしようとすることに、ぼくは価値を感じません。でも、サラリーマンとして、「で」学問っぽい発信をするのは、楽しいからアリだと思ってます。言いたい放題にやれるのが、「で」の真骨頂です。


大学の先生と本格的に接点をいただくようになり、1年が経ちました。
最近の1年間を振り返ると、柔軟な発想、異なる分野の知見を縦横無尽に(牽強付会ともいう)結びつけて、オリジナルな発想をすることにかけては、独学をしているときのほうが優秀でした。大学院の授業に出て、そういった、大学院に接近したばかりに、中国学「で」何かを論じる系統の力は、減退しています。
焦ったこともありました。完璧に「在野」な時代の個性が殺されたのか?って。

ストレートに学問を続けてきた大学院生に比べると、15年の遅れがあります。「を」の学問の土俵で勝負しても、年齢のぶん、負けてしまいますからね。卓越戦略としては、大学院に染まり過ぎ、接近し続けるのは、強みの「自殺」ではなかろうか?と思ったのです。

このホームページの更新が、滞っていたのは、このホームページこそが、在野の奔放な物言い、中国学「で」いろいろ発言するための場だったからでしょう。過去の記事を、いちいち読み返したりしませんが、三国志「で」ビジネスを語ったり、思想を語ったりしてきました(笑)

この1年間は、ばくぜんと、
・大学院では、中国学「を」学ぶ
・中国学「で」の発信は、ダサい??

という区別、見通しが、自分のなかであったような気がします。

ビジネスや現実社会の話をしたいなら、ビジネスや実体験の本流から論じたい。必然的に、カネの話ばかりになります。社会人経験に立脚して発言しないと意味がないと思ってます。カネ勘定については、中国学の二次利用をしたくない。カネはカネで、ものすごく本気でやってます。
思想とか哲学を考えたいなら、思想や哲学の本を起点にすべきです。中国学ないしは三国志を、思想や哲学のネタに使うのは、邪道というか、気まぐれエッセイなんですよね。笑


じゃあ、このホームページを辞めちゃうの?っていうと、そうでもなくて。ぼくのライフワークは、もうちょっと軸をずらしたところにあるのではないか……。
と思ってます!!
「社会人だてらに、真剣に学問してみた」という、中途半端さにかけては第一人者なので(意味不明ですけどね)、そんな生き様について、大学院とはべつの軸で、中国学「で」得られた知見を、発信内容に込めていきたいと思ってます。ふんわりしてて、すみません。

大学院で「勉強中の身」なのだから、中国学に関する発信を慎むべきだとは、私は思っていません。ウェブに上げているのは、中国学「で」、中国学と出会って悪戦苦闘している、アラフォーのサラリーマンの奮闘記です。かりにコンテンツが、中国学に接近し、中国学「を」やっている話だとしても、、この場で学問そのものをしているわけじゃないんです。だって、大学院のゼミでやったほうが、はるかに精度が高いから。
前代未聞のアイデンティティの危機というか、人格分裂・人格崩壊の危機なのかも知れませんが、悪いようにはしません(自分自身は大切なので)。
このへん、時間をかけて、成熟させていこうと思います。

あ、これやります。ご依頼をいただきましたー!211015