いつか書きたい三国志

杜預「春秋左伝序」現代語訳

加賀栄治『中国古典解釈史 魏晋篇』(勁草書房、一九六四年)三一九頁より、杜預「春秋左伝序」の一部を読みます。
加賀先生は、原文と現代語訳のみを掲げているため、訓読は佐藤が作成しました。現代語訳は、加賀先生を引き写すのではなく、改めたところがあります。

原文

古今言左氏春秋者多矣。今其遺文、可見者十數家。
大體、轉相祖述。進、不成為錯綜經文、以盡其變。退、不守丘明之傳。於丘明之傳、有所不通、皆沒而不說、而更膚引公羊・穀梁。適足自亂。預今所以為異、專脩丘明之傳以釋經、經之條貫必出於傳。傳之義例、揔歸諸凡、推變例以正褒貶。簡二傳而去異端。蓋丘明之志也。
其有疑錯、則備論、而闕之、以俟後賢。然劉子駿、創通大義。賈景伯父子・許惠卿、皆先儒之美者也。末有潁子嚴者、雖淺近亦復名家。故特舉劉・賈・許・潁之違、以見同異。

訓読

古今に左氏春秋を言ふ者は多し。今 其の遺文、見る可き者は十數家なり。
大體に、轉た相 祖述するのみ。進みては、為に經文を錯綜して、以て其の變を盡くすを成さず。退きては、丘明の傳を守らず。丘明の傳に於て、通ぜざる所有らば、皆 沒して說かず、而も更に公羊・穀梁を膚引す。適(まさ)に自ら亂すに足る。預 今 異を為(つく)る所以は、專ら丘明の傳を脩めて以て經を釋し、經の條貫は必ず傳より出す。傳の義例は、揔(すべ)て諸々の凡に歸し、變例を推して以て褒貶を正す。二傳を簡(えら)びて異端を去る。蓋し丘明の志なり。
其の疑錯有るは、則ち論を備へ、而して之を闕き、以て後賢を俟つ。然れども劉子駿は、大義を創通す。賈景伯の父子・許惠卿は、皆 先儒の美なるものなり。末に潁子嚴なる者有り、淺近と雖も亦た復た名家なり。故に特に劉・賈・許・潁の違を舉げ、以て同異を見(あらは)す。

下線部の訓読は自信がありません。

現代語訳

古今、『左氏春秋』の〔義理を〕説くものは多い。いまそれら遺文のうち、見るべきもの(見られるもの?)は十数家のものがある。
だいたいをいうと、たがいに祖述しあうのみで、進んでは(攻めた注解の態度として)、経文の字句を入れ替えてまで、その変化を見極めようとするには至らない。退きては(守りの注解の態度として)、左丘明による伝を守っていない。左丘明の伝のなかで、意味が通じない(通解しない)ときは、みな捨てて論ぜず、さらにひどいことに、こもごも『春秋公羊伝』や『春秋穀梁伝』〔の義説〕を皮相的に引用する。それではまったく自ら混乱させているものである。

杜預が言いたいと思われることを、佐藤がひらきます。
『春秋左氏伝』を理解するのだから、積極的に解釈し攻めるならば、左丘明の伝を根拠として、経文(孔子が編纂したとされる部分、春秋の本文)のテキストを、よりよいもの、より本来的なものの変更する、という態度があってもよいはずである。しかし先学たちは、ばくぜんと既存の経文を大切にし、左丘明の文が孤立し、矛盾したまま放置されていることがある。これは、『春秋左氏伝』という、ひとまとまりのテキストを理解する態度として、適切なのか?
攻めるならば、左丘明の伝を「正」とし、経文のほうをさまざまに変化させてみて、本来はどのようなテキストであったのか??という可能性を探ってみる、という作業が必要なのではないか。
それとは反対に、より手堅く、守りの読みをするにしても、先学たちは不徹底である。これは『春秋左氏伝』なのだから、左丘明が言っていることを基準として、経文を理解すべきである。しかし、左丘明を無視して、自分で読みたいように経文を読み、孔子の意図を読み取ってしまうものがいる。それでは、『春秋左氏伝』を読んだことにならない。『春秋左氏伝』を読む意味がない、『春秋左氏伝』でなくてもよい。そんなのは、『春秋左氏伝』の注解ではない。

杜預(わたくし)が〔先儒と〕異なる〔新しい〕『春秋左氏伝』の注を作成する理由は、もっぱら左丘明の伝をしらべて、①それ〔伝の文〕によって経文を解釈し〔という建前をとり〕経文を貫くみちずじ〔條貫〕は必ず伝を根拠にして導き出すためである。

「拠伝解経法」の出典がここです。

②伝に示される義例はそうじて凡例に帰結させ、変例(凡例から逸脱した記述法)がある場合はそこから推論して褒貶の内容を明らかにして正す。③二伝(公羊伝・穀梁伝)の説が混ざっている場合はそれを選り分けて取り除く。これによって左丘明の志(記述の意図)が明らかになる。
これ以外に疑問や錯誤がある場合は、つぶさに論じ、(かつ?あるいは?)これを欠いて、のちの賢者の見解を待つことにした。しかし劉子駿(劉歆)は、〔春秋の〕大義をはじめて精通したものである。賈景伯の父子(賈徽と賈逵)と許恵卿(許淑)は、ともに先儒の優れたものである。末ごろに潁子厳というものがおり、〔かれの説は〕浅近であるけれども、また一家の言である。ゆえにとくに劉氏・賈氏・許氏・潁氏の〔説と杜預の〕説の差異を挙げて、異同を示したのである。

加賀先生曰く、杜預の『春秋左氏伝』の注解は、先儒の注解を継承することが第一となっておらず、明らかに新異の樹立をこそ意図するもの。211017