いつか書きたい三国志

『旧唐書』『新唐書』の張九齢伝を読む

授業で、張九齢の書いた文を読みます。その準備として列伝に目を通します。唐代については、分からないことのほうが多いので、ちぐはぐな訳をしていたらごめんなさい。

『旧唐書』巻九十九 張九齢伝

科挙に合格するまで

張九齡字子壽、一名博物。曾祖君政、韶州別駕、因家于始興、今為曲江人。父弘愈、以九齡貴、贈廣州刺史。九齡幼聰敏、善屬文。年十三、以書干廣州刺史王方慶、大嗟賞之、曰、「此子必能致遠」。登進士第、應舉登乙第、拜校書郎。玄宗在東宮、舉天下文藻之士、親加策問、九齡對策高第、遷右拾遺。

張九齡は、字を子壽といい、一名を博物という。曾祖父の張君政は、韶州別駕である。始興に家があったが、いまは曲江の人である。

韶州は、東大に設置された州。漢代の曲江県のところにある。

父の張弘愈は、九齢が昇進したため、廣州刺史を贈られた。九齡は幼くして聰敏で、善く文をつづった。十三歳のとき、書簡を廣州刺史の王方慶に送ったところ、おおいに称賛され、「この子は必ず致遠(遠くにいける、大成する)」と言われた。登進士第、應舉登乙第、校書郎を拝した。

科挙制度の基礎知識を入れてから訓読します。

玄宗が東宮にいるとき、天下の文藻の士を挙げ、親しく策問を加えると、九齡の對策が高第(成績第一)であり、右拾遺に遷った。

拾遺は、官名。唐・宋の諫官のひとつ。則天武后の垂拱元(六八五)年、左右補闕を二人、左右拾遺を二人ずつ置き、つねに君主のそばで政治の欠点を補い、ぬけをひろい(拾遺)、天子の過失を戒めた。

皇帝みずからの祭祀について

時帝未行親郊之禮、九齡上疏曰、
伏以天者、百神之君、而王者之所由受命也。自古繼統之主、必有郊配之義、蓋以敬天命以報所受。故於郊之義、則不以德澤未洽、年穀不登、凡事之故、而闕其禮。孝經云、「昔者周公郊祀后稷以配天」。斯謂成王幼沖、周公居攝、猶用其禮、明不暫廢。漢丞相匡衡亦云、「帝王之事、莫重乎郊祀」。董仲舒又云、「不郊而祭山川、失祭之序、逆於禮正、故春秋非之」。臣愚以為匡衡・仲舒、古之知禮者、皆謂郊之為祭所宜先也。伏惟陛下紹休聖緒、其命惟新、御極已來、於今五載、既光太平之業、未行大報之禮、竊考經傳、義或未通。今百穀嘉生、鳥獸咸若、夷狄內附、兵革用寧。將欲鑄劍為農、泥金封禪、用彰功德之美、允答神祇之心。能事畢行、光耀帝載。況郊祀常典、猶闕其儀、有若怠於事天、臣恐不可以訓。伏望以迎日之至、展焚柴之禮、升紫壇、陳采席、定天位、明天道、則聖朝典則、可謂無遺矣。

このとき皇帝(玄宗)は、まだみずから郊祀の礼を行っていなかった。張九齢は上疏した。天は、百神の君であり、王者は天から受命します。いにしえより皇統を継いだ主君には、かならず「郊配之義」があり、天命を敬って受けたことに報いるためです。徳が行き渡らず、穀物が不作ならば、その礼を欠くものでした。『孝経』に、「むかし周公は、(祖先の)后稷を祭って天に配した」とあります。これは、周の成王が幼年であり、周公が居摂していたためで、短期間の中断すら避けたのです。

「明不暫廢」を、「明らかに暫くすら廢せず」としました。違うかも知れません。

前漢の丞相の匡衡もまた、「帝王の事業で、郊祀より重要なものはない」といい、董仲舒も、「郊祀(郊外の祭祀)をしないが山川を祭るならば、祭りの序列がくるい、礼の正しさに逆らっている。ゆえに『春秋』はこれを批判した」と言いました。私(張九齢)が思いますに、匡衡と董仲舒は、いにしえの礼に精通したもので、みな郊祀を優先すべきと言いました。陛下(玄宗)は唐帝国を継承し、天命を改めてられ(其命惟新)、帝位にのぼってから、五年がたちます。すでに泰平をもたらしているが、天命に報いる礼を行わないのは、経や伝に照らせば、義に通じたものではありません。百穀は実り、鳥獣は懐き、夷狄は帰順し、戦争はやみました。……郊祀を実行なさいますように」と言った。

九齡以才鑒見推、當時吏部試拔萃選人及應舉者、咸令九齡與右拾遺趙冬曦考其等第、前後數四、每稱平允。

張九齢は、才鑑(才能と見識)によって推薦された。このとき、吏部の試拔で萃選された人および應舉した者は、

唐代の人事選抜制度を確認してから訳します。

みな(右拾遺の)張九齡と、右拾遺の趙冬曦がその等第を考し(採点し)、前後で四回をかぞえ、つねに平允(公平で正しい)とされた。

採点者として適任であったと。拾遺は、皇帝のそばにいる諫官なので、「採点官」ではない。張九齢らが優れているから、採点を任されたという文か。

張説に接近し、張説とともに失脚

開元十年、三遷司勳員外郎。時張說為中書令、與九齡同姓、敍為昭穆、尤親重之、常謂人曰、「後來詞人稱首也」。九齡既欣知己、亦依附焉。十一年、拜中書舍人。
十三年、車駕東巡、行封禪之禮。說自定侍從升中之官、多引兩省錄事主書及己之所親攝官而上、遂加特進階、超授五品。初、令九齡草詔、九齡言於說曰、「官爵者、天下之公器、德望為先、勞舊次焉。若顛倒衣裳、則譏謗起矣。今登封霈澤、千載一遇。清流高品、不沐殊恩;胥吏末班、先加章紱。但恐制出之後、四方失望。今進草之際、事猶可改、唯令公審籌之、無貽後悔也」。說曰、「事已決矣、悠悠之談、何足慮也!」竟不從。及制出、內外甚咎於說。

開元十(七二二)年、司勳員外郎に三遷した。このとき張説が中書令となり、張九齡と同姓なので、序列をつけて昭穆とし、もっとも親しみ重んじた。

昭穆は、廟のなかの順位の名前。初代は宗廟の中央において、偶数代目は左において「昭」といい、奇数代目は右において「穆」とした。ここで、張九齢と張説は、宗廟のたとえで、互いを対等、左右で対応するものとして位置づけた。

つねにひとに、「後來の詞人 首を稱すなり」と言っていた。張九齡は知己を得られたことに喜んで、張説に接近した。開元十一(七二三)年、中書舎人を拝した。
開元十三(七二五)年、車駕が東巡し、封禪の禮を行った。(封禅の慶事を理由に)張説は……恣意的に官僚を昇進させようとた。はじめ、張九齢が詔の文をつくったとき、張九齢は張説に、「官爵というものは、天下の公器です。徳望を先とし、労旧(功労や仕えた期間の長さ)を次とするものです。もし(官位の上下で決まる)服装を(徳望の有無と)転倒させたら、かならず誹謗が起こります……」と言った。
張説は、「もう決定したのだ。そんな話は聞いていられない」と言った。制書が出されると、内外は張説をとがめた。

時御史中丞宇文融方知田戶之事、每有所奏、說多建議違之、融亦以此不平於說。九齡復勸說為備、說又不從其言。無幾、說果為融所劾、罷知政事、九齡亦改太常少卿、尋出為冀州刺史。
九齡以母老在鄉、而河北道里遼遠、上疏固請換江南一州、望得數承母音耗、優制許之、改為洪州都督。俄轉桂州都督、仍充嶺南道按察使。上又以其弟九章・九臯為嶺南道刺史、令歲時伏臘、皆得寧覲。

このとき御史中丞の宇文融は、ちょうど田戸の事を知そうとし(土地制度の改革?)、上奏するたび、張説は多く異議を唱えた。宇文融もまた張説を煙たいと思った。張九齢は張説に十全に議論するよう勧めたが、張説はそれにも従わなかった。ほどなく、張説は果たして宇文融に弾劾され、執政者の立場から外れた。張九齢もまた改めて太常少卿となり、ほどなく出て冀州刺史となった。

張九齢は、張説に諫言をつづけていたが、張説と決裂するには至らず、あくまで張説の派閥のひとであった。張説とともに、中央を去ったことからそれが分かる。

張九齢は老齢の母が故郷におり、河北(冀州)が遠いので、上疏して洪州都督に換えてもらった。にわかに桂州都督に転じ、嶺南道按察使となった。弟の張九章と張九臯を嶺南道刺史とした……。

初、張說知集賢院事、常薦九齡堪為學士、以備顧問。說卒後、上思其言、召拜九齡為祕書少監・集賢院學士、副知院事。再遷中書侍郎。常密有陳奏、多見納用。尋丁母喪歸鄉里。二十一年十二月、起復拜中書侍郎・同中書門下平章事。明年、遷中書令、兼修國史。

これよりさき、張悦が集賢院事を知すると、常に張九齢を薦めて学士に適任とし、顧問に備えようとした。張説が亡くなった後、天子はその言葉を思い起こし、召して張九齢を拝して秘書少監・集賢院学士、副知院事とした。再び中書侍郎に遷った。つねにひそかに上奏をして、多くが聞き入れられた。ほどなく母が亡くなって帰郷した。開元二十一年十二月、起して復た中書侍郎・同中書門下平章事を拝した。翌年、中書令に遷り、修國史を兼した。

学識によって認められた人である、と確認できました。

安禄山を逃してから死ぬまで

時范陽節度使張守珪以裨將安祿山討奚・契丹敗衂、執送京師、請行朝典。九齡奏劾曰、「穰苴出軍、必誅莊賈;孫武教戰、亦斬宮嬪。守珪軍令必行、祿山不宜免死」。上特捨之。九齡奏曰、「祿山狼子野心、面有逆相、臣請因罪戮之、冀絕後患」。上曰、「卿勿以王夷甫知石勒故事、誤害忠良」。遂放歸藩。

このとき范陽節度使の張守珪は、裨將の安禄山が奚・契丹を討伐して敗れたので、捕らえて京師に送り、朝典を行うこと(?)を求めた。張九齢は奏劾し、「(司馬)穰苴が軍を出すと、必ず莊賈を誅しました。孫武(孫子)が戦いを教えると、宮嬪を斬りました。張守珪が軍令をきちんと実行すれば、祿山は死を免れなかったはずです」と言った。天子は特別に捨て置いた。張九齢は上奏し、「安禄山には狼子の野心があり、面には逆相がある。罪によって彼を死刑とすれば、後の憂いを絶つことができましょう」と言った。天子は、「あなたは王夷甫(王衍)が石勒を知った故事によって、誤って忠良を殺害することがないように」とし、安禄山の身柄を解放して帰藩させた。

王衍のところ、うまく意味が取れませんでした。「卿 王夷甫の石勒を知るの故事を以て、誤りて忠良を害する勿れ」としましたが、訓読が違うのかも。


二十三年、加金紫光祿大夫、累封始興縣伯。李林甫自無學術、以九齡文行為上所知、心頗忌之。乃引牛仙客知政事、九齡屢言不可、帝不悅。二十四年、遷尚書右丞相、罷知政事。後宰執每薦引公卿、上必問、「風度得如九齡否?」故事皆搢笏於帶、而後乘馬、九齡體羸、常使人持之、因設笏囊。笏囊之設、自九齡始也。

開元二十三年、金紫光祿大夫を加え、累ねて始興縣伯に封じた。李林甫は自分に学識がなく、張九齢の学識は天子に認められていることを、心のなかで疎ましく思った。乃ち引牛仙客知政事について、張九齢はしばしば不可を唱えていたので、天子は不快であった。開元二十四年、尚書右丞相に遷り、政事を知するのを罷めた……。

初、九齡為相、薦長安尉周子諒為監察御史。至是、子諒以妄陳休咎、上親加詰問、令於朝堂決殺之。九齡坐引非其人、左遷荊州大都督府長史。俄請歸拜墓、因遇疾卒、年六十八、贈荊州大都督、諡曰1.文獻
九齡在相位時、建議復置十道採訪使、又教河南數州水種稻、以廣屯田。議置屯田、費功無利、竟不能就、罷之。性頗躁急、動輒忿詈、議者以此少之。
2.拯、伊闕令。祿山之亂陷賊、不受偽命;兩京克復、詔加太子右贊善。弟九臯、自尚書郎歷唐・徐・宋・襄・廣五州刺史。九章、歷吉・明・曹三州刺史、鴻臚卿。
1.「獻」字各本原作「憲」、據唐會要卷八0改。
2.「拯」字各本原作「極」、據新書卷七二下宰相世系表・卷一二六張九齡傳改。

これよりさき、張九齢が相だったころ、長安尉の周子諒を監察御史に推薦した。周子諒が、みだりに休咎(禍福、吉凶)を述べるので、天子は詰問し、朝堂では殺すことを決めた。張九齢は不適説なひとを推薦したとして、左遷された。病没した。六十八歳だった。文献と諡された。
張九齢が相だったとき、十道採訪使をふたたび設置することを建議し、また河南の数州に水稲栽培を指導し、屯田を広げた。屯田を置くことは、費用と労力が見合わないとして実行されなかった。性格は気が短く、すぐに怒鳴りつけたので、議者はこれが張九齢の欠点であるとした。
張九齢の子の張拯は、伊闕令。安禄山の乱で賊に陥落させられたが、賊(安禄山)の命令を聞かなかった。……

文人としての張九齢の名声

九齡為中書令時、天長節百僚上壽、多獻珍異、唯九齡進金鏡錄五卷、言前古興廢之道、上賞異之。又與中書侍郎嚴挺之・尚書左丞袁仁敬・右庶子梁升卿・御史中丞盧怡結交友善。挺之等有才幹、而交道終始不渝、甚為當時之所稱。
至德初、上皇在蜀、思九齡之先覺、下詔褒贈、曰、「正大廈者柱石之力、昌帝業者輔相之臣。生則保其榮名、歿乃稱其盛德、飾終未允於人望、加贈實存乎國章。故中書令張九齡、維嶽降神、濟川作相、開元之際、寅亮成功。讜言定其社稷、先覺合於蓍策、永懷賢弼、可謂大臣。竹帛猶存、樵蘇必禁、爰從八命之秩、更進三台之位。可贈司徒、仍遣使就韶州致祭」。有集二十卷。

張九齢が中書令であったとき、天長節で百僚が祝福し、多くの珍異が献上された。しかし張九齢だけが『金鏡録』五巻だけを提出し、前古の興廃の道について述べ、天子は特別に喜んだ。また中書侍郎の厳挺之・尚書左丞の袁仁敬・右庶子の梁升卿・御史中丞の盧怡とともに友好を結んだ。挺之らは才幹があったが、友人としての交際は分限を超えず、当時において称賛された。
至徳年間(七五六~七五八)の初め、上皇が蜀にいるとき、張九齢の先見の明(安禄山への警戒?)を思い出し、詔して褒賞を贈った。「司徒の位を追贈し、使者を派遣して(本貫地の)韶州で祭りを行わせよ」と。『張九齢集』二十巻がある。

『新唐書』巻一百二十六 張九齢伝

科挙に及第するまで

張九齡字子壽、韶州曲江人。七歲知屬文、十三以書干廣州刺史王方慶、方慶歎曰、「是必致遠」。會張說謫嶺南、一見厚遇之。居父喪、哀毀、庭中木連理。擢進士、始調校書郎、以道侔伊呂科策高第、為左拾遺。

張九齢は字を子寿といい、韶州曲江の人である。七歳で属文を知り、十三歳で書簡を広州刺史の王方慶に送り、王方慶は感歎し、「かれは必ず致遠する」と言った。

王方慶は、唐朝・武周の官員で、武則天年間に宰相となった。

たまたま張説が嶺南に謫(追放?)され、ひとめ見て厚く遇した。

「謫」は罪を責め咎めて、流すこと。辞書どおりの意味なのか、張説の伝記と照合しないと分からない。後年、張九齢は張説と接近する。ふたりの出会いを『旧唐書』よりも前倒しするための創作エピソードか。

父が亡くなり、体調をくずすほど哀悼し、庭の木が連理となった。

『旧唐書』になかった逸話。儒家としての神話的エピソードまで挿入されている。

進士に擢せられ、始めて校書郎に調せらる。道侔伊呂(道伊・呂を侔)の科策 高第たるを以て、左拾遺と為る。

「始調校書郎、以道侔伊呂科策高第」の訓読が自信なし。「調」は、選び任ずること。 『新唐書』巻四十四 選挙志上に、「凡秀才、試方略策五道、以文理通粗為上上・上中・上下・中上、凡四等為及第。凡明經、先帖文、然後口試、經問大義十條、答時務策三道、亦為四等。凡開元禮、通大義百條、策三道者、超資與官。義通七十、策通二者、及第」とある。

玄宗に人事制度を問題提起

時玄宗即位、未郊見、九齡建言、
「天、百神之君、王者所由受命也。自古繼統之主、必有郊配、蓋敬天命、報所受也。 不以德澤未洽、年穀未登、而闕其禮。昔者周公郊祀后稷以配天、謂成王幼沖、周公居攝、猶用其禮、明不可廢也。漢丞相匡衡曰、「帝王之事、莫重乎郊祀」。董仲舒亦言、「不郊而祭山川、失祭之序、逆於禮、故春秋非之」。臣謂衡・仲舒古之知禮、皆以郊之祭所宜先也。陛下紹休聖緒、于今五載、而未行大報、考之于經、義或未通。今百穀嘉生、鳥獸咸若、夷狄內附、兵革用弭、乃怠於事天、恐不可以訓。願以迎日之至、升紫壇、陳采席、定天位、則聖典無遺矣」

『旧唐書』張九齢伝と重複する。はぶく。

又言、「乖政之氣、發為水旱。天道雖遠、其應甚邇。昔東海枉殺孝婦、天旱久之。一吏不明、匹婦非命、則天昭其冤。況六合元元之眾、縣命於縣令、宅生於刺史、陛下所與共治、尤親於人者乎!若非其任、水旱之繇、豈唯一婦而已。今刺史、京輔雄望之郡、猶少擇之、江・淮・隴・蜀・三河大府之外、稍非其人。繇京官出者、或身有累、或政無狀、用牧守之任、為斥逐之地。或因附會以忝高位、及勢衰、謂之不稱京職、出以為州。武夫・流外、積資而得、不計於才。刺史乃爾、縣令尚可言哉?甿庶、國家之本、務本之職、乃為好進者所輕、承弊之民、遭不肖所擾、聖化從此銷鬱、繇不選親人以成其敝也。古者刺史入為三公、郎官出宰百里。今朝廷士入而不出、其於計私、甚自得也。京師衣冠所聚、身名所出、從容附會、不勤而成、是大利在於內、而不在於外也。智能之士、欲利之心、安肯復出為刺史・縣令哉?國家賴智能以治、而常無親人者、陛下不革以法故也。臣愚謂欲治之本、莫若重守令、守令既重、則能者可行。宜遂科定其資、凡不歷都督・刺史、雖有高第、不得任侍郎・列卿;不歷縣令、雖有善政、不得任臺郎・給・舍;都督・守・令雖遠者、使無十年任外。如不為此而救其失、恐天下猶未治也。

又 言ふ、「乖政の氣は、發して水旱を為す。天道 遠しと雖も、其れ甚の邇きに應ず。昔 東海 孝婦を枉殺し、天旱 之を久しくす。一吏 不明にして、匹婦 非命なれば、則ち天 其の冤なるを昭らかにす。況んや六合の元元の眾、命を縣令に縣け、生を刺史に宅し、陛下 與に共治する所、尤も人に親しきをや。若し其の任に非ざれば、水旱の繇、豈に唯だ一婦のみならんや。今 刺史、京輔の雄望の郡、猶ほ少しく之を擇び、江・淮・隴・蜀・三河の大府の外、稍々其の人に非ず。繇 京官出者、或いは身に累有り、或いは政に狀無く、牧守の任を用て、斥逐の地を為す。或いは附會に因りて以て高位を忝くし、勢 衰ふるに及び、之を京職と稱せず、出でて以て州と為すと謂ふ。武夫・流外、資を積みて得て、才を計らず。刺史 乃ち爾り、縣令 尚ほ言ふ可けんや。甿庶は、國家の本にして、務本の職なり。乃ち進むを好と為す者の輕ずる所、承弊の民、不肖に遭ひて擾ぐ所、聖化 此より銷鬱し、繇 親人を選ばずして以て其の敝を成すなり。古者の刺史 入りて三公と為り、郎官 出でて百里に宰たり。今朝の廷士 入りて出でず、其れ私を計るに於て、甚だ自得するなり。京師は衣冠の聚ふ所、身名の出づる所にして、從容として附會し、勤めずして成り、是れ大いに內に在るに利あり、而して外に在らざるなり。智能の士、利を欲するの心、安んぞ肯て復た出でて刺史・縣令と為るや。國家 智能に賴らば以て治まり、而れども常に親人無きは、陛下 法を以って革めざる故なり。臣 愚謂へらく欲治の本は、守令を重んずるに若くは莫く、守令 既に重ければ、則ち能者 行ふ可し。宜しく遂に其の資を科定し、凡そ都督・刺史を歷ざるものは、高第有ると雖も、侍郎・列卿に任ずるを得ざれ。縣令を歷ざれば、善政有ると雖も、臺郎・給・舍に任ずるを得ざれ。都督・守・令 遠しと雖も、十年 外に任ずるを無からしめよ。如し此を為して其の失を救はずんば、天下 猶ほ未だ治らざるを恐るるなり」と。

一回読み&斜め読みですが……。中央の官のほうが利得が多いので、すぐれた人材は中央に殺到する。地方の官には有能な人材が回らず、冤罪による死刑が起こるなど、地方政治が乱れている。地方の手薄さが、洪水や日照りとして表れている。どれほど科挙の成績が良かろうと、まず地方で統治の実績を積ませてから、中央に官に任命するという異動ルートを整備すれば、地方にも人材が行き渡り、国土全体が充実するであろうと。


又古之選士、惟取稱職、是以士修素行、而不為徼幸、姦偽自止、流品不雜。今天下不必治於上古、而事務日倍於前、誠以不正其本而設巧於末也。所謂末者、吏部條章、舉贏千百。刀筆之人、溺於文墨;巧史猾徒、緣姦而奮。臣以謂始造簿書、備遺忘耳、今反求精於案牘、而忽於人才、是所謂遺劍中流、契舟以記者也。凡稱吏部能者、則曰自尉與主簿、繇主簿與丞、此執文而知官次者也、乃不論其賢不肖、豈不謬哉!夫吏部尚書・侍郎、以賢而授者也、豈不能知人?如知之難、拔十得五、斯可矣。今膠以格條、據資配職、為官擇人、初無此意、故時人有平配之誚、官曹無得賢之實。

又 古の選士は、惟れ稱職を取り、是を以て士 素行を修め、而して徼幸を為さず、姦偽 自ら止み、流品 雜らず。

『文苑英華』巻四百七十八 道侔伊呂策三道、『全唐文』巻二百九十 應道侔伊呂科對策の論点に通じる部分。

今 天下 必しも上古を治めず、而して事務 日ごとに前に倍す。誠に其の本を正さざるを以て巧を末に設くなり。所謂 末という者は、吏部の條章は、贏を舉ぐること千百なり。刀筆の人は、文墨に溺る。巧史・猾徒、姦に緣りて奮ふ。臣 以謂へらく始めて造りて書を簿し、備へて忘を遺するのみ。今 反りて精を案牘に求め、而して人才を忽せにし、是れ所謂 劍を中流に遺き、舟を契りて以て記す者なり。凡そ吏部の能を稱ふる者は、則ち自ら尉にして主簿と與(にかよ)ふとし、主簿を繇して丞と與ふと曰ふ。此れ文を執りて官次を知る者なり、乃ち其の賢・不肖を論ぜず、豈に謬らざるか。

「繇」の意味や用法が分かっていないので、訓読がおかしいと思いますが、ここが大切なところです。
科挙の回答(「文」)だけが優れていると、吏部は、その人材を高く評価する。しかし、実務能力は伴っていない。科挙による人材登用に軋みが生じているというのが、張九齢の現状認識。やはり『文苑英華』に通じる論点。

夫れ吏部尚書・侍郎、賢を以て授くる者あるや、豈に能く人を知らざるか。如し之を知ること難ければ、十を拔きて五を得れば、斯れ可きなり。今 膠(ただ)すに格條を以てし、資に據りて職に配し、官と為して人を擇り、初め此の意無く、故に時人は平配の誚有り、官曹は得賢の實無し。

臣謂選部之法、敝於不變。今若刺史・縣令精覈其人、則管內歲當選者、使考才行、可入流品、然後送臺、又加擇焉、以所用眾寡為州縣殿最、則州縣慎所舉、可官之才多、吏部因其成、無庸人之繁矣。今歲選乃萬計、京師米物為耗、豈多士哉?蓋冒濫抵此爾。方以一詩一判、定其是非、適使賢人遺逸、此明代之闕政也。天下雖廣、朝廷雖眾、必使毀譽相亂、聽受不明、事則已矣。如知其賢能、各有品第、每一官缺、不以次用之、豈不可乎?如諸司要官、以下等叨進、是議無高卑、唯得與不爾。故清議不立、而名節不修、善士守志而後時、中人進求而易操也。朝廷能以令名進人、士亦以修名獲利、利之出、眾之趨也。不如此、則小者得於苟求、一變而至阿私;大者許以分義、再變而成朋黨矣。故於用人不可不第其高下、高下有次、則不可以妄干、天下之士必刻意脩飾、而刑政自清、此興衰之大端也。

臣 選部の法を謂ふに、不變に敝す。今 若し刺史・縣令 精しく其の人を覈せば、則ち管內 歲ごとに選に當たる者は、才行を考せしめ、流品に入る可し。

流品は、百官のこと。百姓百官。または、道徳学問の、社会上で占めている地位。流は派別のこと、品は等第のこと。人品。あるいは、後魏の官制で、一品から九品までをいう(流内、流外)。
『文苑英華』に、張九齢の語として「九品流弊」とあるが、関係ないか。

然る後に臺に送り、又 擇を加へ、用ふる所の眾寡を以て州縣の殿最と為さば、則ち州縣 舉ぐる所を慎み、可く官の才 多く、吏部 其の成に因り、庸人の繁きを無からしめん。今 歲選は乃ち萬もて計へ、京師の米物 耗為たるに、豈に士多きや。蓋し冒濫抵此爾。方に一詩を以て一判し、其の是非を定め、適に賢人をして遺逸せしむ。此れ明代の闕政なり。天下 廣しと雖も、朝廷 眾しと雖も、必ず毀譽をして相 亂さしめ、聽受 不明なれば、事 則ち已なり。如し其の賢能を知り、各々品第有り、一官 缺く每に、次を以て之を用ひざれば、豈に可からざるか。如し諸司の要官、下等を以て叨進するは、是れ議に高卑無く、唯だ得與不爾。故に清議 立たず、而して名節 修めず、善士 志を守りて時に後れ、中人 進求して易操するなり。朝廷 能く令名を以て人を進むれば、士も亦た名を修むるを以て利を獲、利の出づれば、眾の趨るなり。此の如くあらざれば、則ち小なる者 苟求を得て、一たび變あらば阿私に至る。大なる者 許すに分義を以てし、再び變あらば朋黨を成す。故に人を用ふるに於て其の高下に第せざる可からず。高下 次有らば、則ち以て妄りに干す可からず。天下の士 必ず意を刻みて飾を脩め、而して刑政 自ら清く、此れ興衰の大端なり。

漢代の郷挙里選、魏代の九品官人のように、儒教的な徳行や名声に基づいて、人材を登用せよという傾向がある。科挙だけでは、試験に得意なばかりで、志が不純であったり、利が目が眩んだひとを拾いあげて、システム的にみなをそちらに差し向けていると。
科挙の制度に批判的である、というのが張九齢の視点。張九齢は、比較的寒門の出身であり、科挙によって取り立てられ、玄宗・張説に認められた人ですが、科挙を相対化しているのは不思議。

張説とともに失脚し地方に出る

俄遷左補闕。九齡有才鑒、吏部試拔萃與舉者、常與右拾遺趙冬曦考次、號稱詳平。改司勳員外郎。時張說為宰相、親重之、與通譜系、常曰、「後出詞人之冠也」。遷中書舍人內供奉、封曲江男、進中書舍人。會帝封泰山、說多引兩省錄事主書及所親攝官升山、超階至五品。九齡當草詔、謂說曰、「官爵者、天下公器、先德望、後勞舊。今登封告成、千載之絕典、而清流隔於殊恩、胥史乃濫章韍、恐制出、四方失望。方進草、尚可以改、公宜審計」。說曰、「事已決矣、悠悠之言不足慮」。既而果得謗。御史中丞宇文融方事田法、有所關奏、說輒建議違之。融積不平、九齡為言、說不聽。俄為融等痛詆、幾不免、九齡亦改太常少卿、出為冀州刺史。以母不肯去鄉里、故表換洪州都督。徙桂州、兼嶺南按察選補使。

にわかに左補闕に遷った。九齡は才鑒があり、吏部試の拔萃と舉ぐる者は、つねに右拾遺の趙冬曦とともに考次し、詳平であると称えられた。

『旧唐書』は「平允(公平で正しい)」とし、『新唐書』は「詳平(詳らかで公平)に作っている。

改めて司勳員外郎となる。このとき張説は宰相であり、張九齢を親しみ重んじた。與通譜系(族譜が繋がって?繋げて?)、常に曰く、「後出の詞人の冠也」なりと言った。

『旧唐書』は、「與九齡同姓、敍為昭穆、尤親重之、常謂人曰、後來詞人稱首也」とあり、文が異なる。

中書舍人・内供奉に遷り、曲江男に封ぜられ、中書舍人に進んだ。たまたま皇帝が泰山を封じ、張説は同行者の官爵を進めた。張九齢が反対した。御史中丞の宇文融が田法を掌ろうとして張九齢が反対し、宇文融は張説を失脚させ、張九齢も冀州刺史とされた。桂州に徙り、嶺南按察選補使を兼ねた。

『旧唐書』と同じ。


始、說知集賢院、嘗薦九齡可備顧問。說卒、天子思其言、召為祕書少監・集賢院學士、知院事。會賜渤海詔、而書命無足為者、乃召九齡為之、被詔輒成。遷工部侍郎、知制誥。數乞歸養、詔不許。以其弟九皋・九章為嶺南刺史、歲時聽給驛省家。遷中書侍郎、以母喪解、毀不勝哀、有紫芝產坐側、白鳩・白雀巢家樹。是歲、奪哀拜中書侍郎・同中書門下平章事。固辭、不許。明年、遷中書令。始議河南開水屯、兼河南稻田使。上言廢循資格、復置十道採訪使。

これよりさき、張説が集賢院を管掌し、かつて張九齢を推薦して顧問に備えるべきとした。張説が亡くなり、天子はその言を思い、張九齢を召して秘書少監・集賢院学士とし、院事を知させた。

『旧唐書』と同じ。

たまたま渤海の詔を賜わり、書命 足る無き為す者は、乃ち九齡を召して之と為し(?)、詔を被りて輒ち成る。工部侍郎に遷り、制誥を知した。しばしば帰って(老母を)養うことを求めたが、詔で許されなかった。張九齢の弟の張九皋と張九章が嶺南刺史となり、歳時に駅馬を賜って家に帰ることを許された。中書侍郎に遷り、母の死によって解任され、服喪によって体調をくずし、紫芝産の坐側が有り、白鳩・白雀の巣が家にできた。

この瑞祥めいた記述は『旧唐書』になかった。漢魏の儒家を思い起こさせる振る舞いをし、それに準ずるエピソードがあるのが張九齢という人物。

この歳、哀を奪て中書侍郎・同中書門下平章事を拝した。固辞しても、許されず。翌年、中書令に遷った。始めて河南に水屯を開くことを議し、河南稲田使を兼ねた。上言して循資格を廢し、復た十道採訪使を置いた。

張守珪・牛仙客の宰相任命に反対

李林甫無學術、見九齡文雅、為帝知、內忌之。會范陽節度使張守珪以斬可突干功、帝欲以為侍中。九齡曰、「宰相代天治物、有其人然後授、不可以賞功。國家之敗、由官邪也」。帝曰、「假其名若何?」對曰、「名器不可假也。有如平東北二虜、陛下何以加之?」遂止。又將以涼州都督牛仙客為尚書、九齡執曰、「不可。尚書、古納言、唐家多用舊相、不然、歷內外貴任、妙有德望者為之。仙客、河・湟一使典耳、使班常伯、天下其謂何?」又欲賜實封、九齡曰、「漢法非有功不封、唐遵漢法、太宗之制也。邊將積穀帛、繕器械、適所職耳。陛下必賞之、金帛可也、獨不宜裂地以封」。帝怒曰、「豈以仙客寒士嫌之邪?卿固素有門閱哉?」九齡頓首曰、「臣荒陬孤生、陛下過聽、以文學用臣。仙客擢胥史、目不知書。韓信、淮陰一壯夫、羞絳・灌等列。陛下必用仙客、臣實恥之」。帝不悅。翌日、林甫進曰、「仙客、宰相材也、乃不堪尚書邪?九齡文吏、拘古義、失大體」。帝由是決用仙客不疑。九齡既戾帝旨、固內懼、恐遂為林甫所危、因帝賜白羽扇、乃獻賦自況、其末曰、「苟効用之得所、雖殺身而何忌?」又曰、「縱秋氣之移奪、終感恩於篋中」。帝雖優答、然卒以尚書右丞相罷政事、而用仙客。自是朝廷士大夫持祿養恩矣。

李林甫 學術無く、九齡の文雅にして、帝に知らるるを見て、內に之を忌む。會々范陽節度使の張守珪 可突を斬て功を干するを以て、帝 以て侍中と為さんと欲す。九齡曰く、「宰相は天に代はりて物を治め、其の人有らば然る後に授く。賞功を以てす可からず。國家の敗は、官の邪に由るなり」と。帝曰く、「其の名を假するは若何か」と。對へて曰く、「名器は假る可からざるなり。東北の二虜を平らぐが如き有りて、陛下 何を以て之を加へんか」と。遂に止む。

武功のある張守珪を、侍中(宰相)にしようとし、張九齢はそれに反対した。『旧唐書』には見えない。『旧唐書』では、張守珪の裨将(配下の指揮官)の安禄山を死罪にせよ、という記事があった。

又 將に涼州都督の牛仙客を以て尚書と為さんとす。九齡 執りて曰く、「不可なり。尚書は、古の納言にして、唐家 多く舊相を用ふ。然らずんば、內外の貴任を歷し、妙に德望有る者 之と為す。仙客は、河・湟の一使典なるのみ、常伯を班ぜしめば、天下 其れ何を謂はん」と。又 實封を賜はんと欲するや、九齡曰く、「漢法に、功有るに非ずんば封ぜざると。唐 漢法に遵ふは、太宗の制なり。邊將 穀帛を積み、器械を繕ふは、職する所に適ふのみ。陛下 必ず之を賞すに、金帛もて可なり。獨り宜しく地を裂きて以て封ずべからず」と。帝 怒りて曰く、「豈に仙客の寒士なるを以て之を嫌ふか。卿 固より素より門閱有るか」と。九齡 頓首して曰く、「臣 荒陬に孤生し、陛下 過聽し、文學を以て臣に用ふ。仙客 胥史に擢せらるるも、目に書を知らず。韓信は、淮陰の一壯夫なり、絳・灌 等列なるを羞づ。陛下 必ず仙客を用ふれば、臣 實に之を恥づ」と。帝 悅ばず。

牛仙客が、涼州方面で治績をあげたことに対し、天子はかれを尚書にし、封地を与えようとした。張九齢がそれに反対すると、天子に、張九齢が高位にある理由、存在意義を問い返された。尚書であるからには、文書の運用能力が求められる。張九齢は、文書の能力によってこの位にあるのであり、それが誇りですと。
ひとりの勇士あがりで無学の牛仙客を前漢の韓信になぞらえ、張九齢は自分を絳侯の周勃と潁陰侯の灌嬰になぞらえ、同列となることを拒んだ。

翌日、李林甫 進みて曰く、「仙客は、宰相の材なり。乃ち尚書に堪えざるか。九齡は文吏なり、古義に拘り、大體を失せり」と。帝 是に由り仙客を用ふるを決して疑はず。

牛仙客を推薦したのは、張九齢の学識を羨んでいる李林甫であった。いま訓読した文が、『旧唐書』では、「李林甫自無學術、以九齡文行為上所知、心頗忌之。乃引牛仙客知政事、九齡屢言不可、帝不悅」と要約されており、それだけでは、対立の内実が分かるわけがないですね。

九齡 既に帝の旨に戾し、固く內に懼れ、遂に林甫の為に危ふくする所を恐れ、帝に白羽扇を賜ふに因り、乃ち賦を獻じて自ら況し、其の末に曰、「苟し効用の得る所あらば、身を殺すと雖も而れども何をか忌まん」と。又 曰く、「縱に秋氣の移奪し、終に恩を篋中に感ず」と。帝 答へを優とすと雖も、然れども卒に尚書右丞相の政事を罷むるを以て、而して仙客を用ふ。是より朝廷の士大夫 祿を持し恩を養ふ。

『新唐書』は、牛仙客を用いたのは悪手としている。正義は張九齢にあり、天子の機嫌を宥めようとした張九齢の手回しすら、風雅なものとしている。


嘗薦長安尉周子諒為監察御史、子諒劾奏仙客、其語援讖書。帝怒、杖子諒于朝堂、流瀼州、死於道。九齡坐舉非其人、貶荊州長史。雖以直道黜、不戚戚嬰望、惟文史自娛、朝廷許其勝流。久之、封始興縣伯、請還展墓、病卒、年六十八、贈荊州大都督、謚曰文獻。

嘗て長安尉の周子諒を薦めて監察御史と為し、子諒 仙客を劾奏し、其の語に讖書を援す。帝 怒り、子諒を朝堂に杖して、瀼州に流し、道に死す。九齡 其の人に非ざるを舉げしに坐し、荊州長史に貶められる。直道を以て黜せらると雖も、戚戚として嬰望せず、惟だ文史 自ら娛み、朝廷 其の勝流を許す。

周子諒の事件は、『旧唐書』に、「みだりに休咎(禍福、吉凶)を述べるので」としかなく、情報不足だった。『新唐書』によって初めて全貌が分かる。仙客(道士?)を讖緯書にもとづいて批判したという事件。張九齢に「直道」があったということも、『旧唐書』になかった。

久之、始興縣伯に封じ、還りて墓を展するを請ふに、病もて卒し、年は六十八なり。荊州大都督を贈り、謚して文獻と曰ふ。

良識的な文人宰相、廃太子を防ぐ

九齡體弱、有醞藉。故事、公卿皆搢笏于帶、而後乘馬。九齡獨常使人持之、因設笏囊、自九齡始。後帝每用人、必曰、「風度能若九齡乎?」初、千秋節、公・王並獻寶鑑、九齡上「事鑒」十章、號千秋金鑑錄、以伸諷諭。與嚴挺之・袁仁敬・梁昇卿・盧怡善、世稱其交能終始者。

九齡は體 弱にして、醞藉有り(寛容で余裕があった)。

「體弱」は、『三國志』巻二十一 王粲伝、魏の文帝の「呉質に与ふるの書」に見える。

故事に、公卿 皆 笏を帶に搢し、而して後に馬に乘る。九齡 獨り常に人をして之を持せしめ、因りて笏囊を設くるは、九齡より始まる。

『旧唐書』では翻訳しなかったが、同じことが書いてあった。

後に帝 每に人を用ひるに、必ず曰く、「風度 能く九齡に若くや」と。

皇帝が人材をはかるとき、張九齢の「風度」を基準とし、それに類する人材を求めた。これは『旧唐書』にないこと。『新唐書』のほうが、だいぶ張九齢の評価が高い。

初め、千秋節に、公・王 並びに寶鑑を獻ずるに、九齡は「事鑒」十章を上じ、『千秋金鑑録』と号し、以て諷諭を伸ぶ。厳挺之・袁仁敬・梁昇卿・盧怡と善く、世は其の交 能く終始する者なりと稱す。

『旧唐書』は、『金鏡録』五巻とする。『新唐書』は、提出前が「事鑑」十章であり、提出後に『千秋金鑑録』と名づけられたとあり、異なる。
張九齢の友人は、『旧唐書』のほうが官名が付いており、中書侍郎の厳挺之・尚書左丞の袁仁敬・右庶子の梁升卿・御史中丞の盧怡とある。


及為相、諤諤有大臣節。當是時、帝在位久、稍怠於政、故九齡議論必極言得失、所推引皆正人。武惠妃謀陷太子瑛、九齡執不可。妃密遣宦奴牛貴兒告之曰、「廢必有興、公為援、宰相可長處」。九齡叱曰、「房幄安有外言哉!」遽奏之、帝為動色、故卒九齡相而太子無患。
安祿山初以范陽偏校入奏、氣驕蹇、九齡謂裴光庭曰、「亂幽州者、此胡雛也」。及討奚・契丹敗、張守珪執如京師、九齡署其狀曰、「穰苴出師而誅莊賈、孫武習戰猶戮宮嬪、守珪法行于軍、祿山不容免死」。帝不許、赦之。九齡曰、「祿山狼子野心、有逆相、宜即事誅之、以絕後患」。帝曰、「卿無以王衍知石勒而害忠良」。卒不用。帝後在蜀、思其忠、為泣下、且遣使祭於韶州、厚幣卹其家。開元後、天下稱曰曲江公而不名云。建中元年、德宗賢其風烈、復贈司徒。

相と為るに及び、諤諤として大臣の節有り。是の時に當たり、帝 位に在ること久しく、稍く政に怠するに、故に九齡の議論 必ず得失を言ふを極め、推引する所は皆 人を正す。武惠妃 太子瑛を陷れんと謀るに、九齡 執りて不可なりとす。妃 密かに宦奴の牛貴兒を遣はして之を告げしめて曰く、「廢あらば必ず興有り。公 援を為さば、宰相 長く處る可し」と。九齡 叱りて曰く、「房幄 安ぞ外言有るか」と。遽に之を奏し、帝 為に色を動かし、故に卒に九齡 相たりて太子 患ひ無し。
安禄山 初め范陽の偏校を以て奏を入れ、氣は驕蹇なり。九齡 裴光庭に謂ひて曰く、「幽州を亂すものは、此の胡雛なり」と。奚・契丹を討ちて敗るるに及び、張守珪 執らへて京師に如く。九齡 其の狀を署して曰く、「穰苴 師を出だして莊賈を誅し、孫武 戰を習ひて猶ほ宮嬪を戮す。守珪 法もて軍に行けり、祿山 死を免るるを容れず」と。帝 許さずして、之を赦す。九齡曰く、「祿山 狼子の野心あり、逆相有り、宜しく事に即きて之を誅して、以て後患を絕えしめよ」と。帝曰く、「卿 王衍の石勒を知りて忠良を害するを以てする無かれ」と。卒に用ゐず。(安禄山の乱が起こると玄宗は)帝 後に蜀に在り、其の忠を思ひ、為に泣下し、且つ使を遣はして韶州に祭らしめ、厚く其の家を幣卹す。

安禄山の危険性を見抜いたことは、『旧唐書』と同じだが、列伝の最後に移動させられている。安禄山の乱の時系列から、遡って玄宗皇帝が思い起こす、という構成となっている。

開元の後に、天下 稱して曲江公と曰ひて名もて云はず。建中元年に、德宗 其の風烈を賢とし、復た司徒を贈る。

張九齢に関するメモ

『文苑英華』

『文苑英華』には、張九齢の文がたくさん見える。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000068970
『世界大百科事典』に、次の情報があった。
文苑英華 ぶんえんえいが
「中国、六朝梁末から晩唐五代に至る詩文の精華を集大成した書。北宋の太宗は、唐末五代の戦乱で散逸した文献の整理収集につとめ、李隈(りほう)らに命じて『太平御覧』一千巻、『太平広記』五百巻を編纂させるとともに、梁の昭明太子(編)『文選』三十巻の後を継ぐものとして、ほぼ同じ体例のもとに、主として唐代の作者2200人、詩文2万編近くを選んで三十八類、一千巻にまとめさせた。